島田市で学童保育施設を作りたい。その理由と起源
こんにちは。静岡県島田市で地域連携型学童保育施設をこれから作るために、準備中のたなかです。
最近驚かれたことなんですが、私は旧姓も田中です。結婚式の案内は「田中家一同&田中家一同」という感じでした。同じ境遇の方いらっしゃったら嬉しいです。
この記事では、なぜ私が学童保育施設づくりに魂を燃やしているのかについてまとめました。ちなみにアイキャッチ画像は島田の観光名所「蓬莱橋」です。
島田市で深刻化する学童不足
この記事は今日書かなくてはいけない、と思いました。静岡新聞で島田市の学童不足の実態を取り扱ってくれたからです。Yahoo!ニュースでもピックアップされていました。
我が家にも届きました。この通知が。
自分のケースですが、保護者の両親(祖父や祖母)が両方とも遠い場合の子育てはなかなかに大変です。気軽に頼れる人がそばにいません。それは自分が選んだ道でしょ。と言われそうですが、そうなんです、自分で選んだ道です。でも、ここまで大変だとは。
「島田では小学校2年生から待機児童が出る」という実態を知ったのは、今から2年前の長男が年中から年長へ進学する時期でした。小1の壁も問題ですが、小2で学童から出されてしまうエリアに自分が住んでいたとは!長期休みはどうするの?…想像もしていませんでした。
女性の社会進出、男女平等、と叫ばれ、このご時世、性差はキャリアと無関係だと思っていた20代。しかし、子どもを産んで分かったことは保育・教育に携わるのは圧倒的に「母親」だということでした。これは日本がまだまだ進んでいない面だと思うのですが、子どもが幼い時期に時短勤務をするのは?子どもが熱を出したときに会社を休む第一候補は?平日の保護者会、園行事に参加するのは?…「母親」のケースが多いです。家庭事情、職場環境、職種にもよると思いますが。我が家では夫もできる限り協力してくれるのですが、病気の時など心が弱っているときは「母親」の方が子供も安心するんですよね。
仕事をしたい、続けたい。そう思う女性は多くいると思います。でも実際、「子供のため」という理由だと、女性は自分の身を引こうと思う人が多いのではないでしょうか。なぜなら一番大切な宝物だから。子どもの人生や命を、自分の人生よりも優先させなくてはと思うから。
キャリアウーマンの3タイプ
私の短い社会人人生のなかで、少なからず女性管理職の方と接してきました。輝かしいキャリアを続けられている人のパターンは下記の3パターンしか出会ったことがありません。偏った意見だと自覚しています。
夫婦どちらかの両親と同居している(近居含む)
独身、または結婚していても子供がいない
夫婦で職場が同じ
1のケースは、夫婦いずれかの実家が近い場合です。いわゆる「地方」では1が多いです。だから、子どもがいたとしても、やってこれたんです。家族のサポートがあったから。
東京など都市部では、機能面で充実した学童保育施設が群雄割拠しており、また私立の小学校ではそのまま放課後保育+習い事をしてくれたりサービスが充実してきつつあります。しかし地方ではどうでしょうか。確かに同居家庭は多いです。しかし人生100年時代、祖父も祖母もまだまだ現役という家庭も少なくありません。身近に頼れる人がいない場合は・・・?子どもの安全は・・・?どうする?
小学校に上がる前までは保育園が朝7時から夜7時まで、子どもたちを見守ってくれました。本当にありがたいことです。「島田では小学校2年生から待機児童が出る」の事実は、突然はしごが外された。そんな感覚でした。
天命とは
仕事にはざっくり3タイプあるのかなと思います。飯を食うためにする仕事(ライスワーク)、好きが高じてやる仕事(ライフワーク)、そして天から与えられた仕事(天命)。私が学童設立の決意を固めたとき、これは自分の天命じゃないかなと思いました。でも、自分では「なぜ天命と思ったか」あまりよく自覚できていませんでした。
【学童保育施設を作る理由】
・島田市で学童保育施設が不足している(ニーズがある)
・現状の学童保育施設は「ただの預かり」になってしまっている現状に不満があり、課題を感じている
・これまでの経験を生かせそう
・天命と感じたから ←(???)
北海道でスノーレントリトリートに参加したときに、ようやく辿り着くことができました。天命だと感じた理由に。
私の母はシングルファザーで育ち、生活や進学においても非常に苦労した人でした。大学卒業後まもなく結婚・出産し、幼い兄と私を育てながら、父の自営の仕事を朝から晩まで手伝っていました。母の夢は小学校の教員になること。仕事をして、子育てをして、子どもが寝た後に教員採用試験の勉強をする。でも疲れて寝落ちしてしまって、朝が来る。母の父、つまり私から見た祖父には障がいがあり、頼ることができなかった。同居していた義母とは折り合いが悪く、全面的に頼ることができなかった。月日がたち、採用試験受験資格上限の40歳を迎え、母は最期まで正規職員になることができなかった。
幼い私にはその大変さを全く分かっていませんでした。お母さん、勉強が苦手なのかな、ぐらいにしか感じていませんでした。当時の小学校教諭の倍率は40倍くらいだったそうです。
ごめん、ありがとう。
頼れる人が身近にいない環境の中で子育てをし、自分の夢を最後まであきらめなかった母。その境遇が自分と重なり、「苦しい境遇にありながら、子育ても仕事も頑張りたい」と願う人の力になりたい。そう根源で感じていたことに気づきました。
単純に言えば「お母さんみたいな人を助けたい。」
それが学童保育施設を作りたいと思った起源になります。
なんか恥ずかしいな~!
まずは足元から一歩一歩。
2024年春の開所に向けて、前に進んでいきたいと思います。
心折れそうなときは力を貸してください。ではまた。
noteにあわせて聞いてほしいおすすめソング
アンマー/かりゆし58
追伸:母は非正規職員として定年まで小学校・中学校・高校・養護施設などで先生として活躍しました。「子どもと一緒にいるのは本当に楽しい!」と今も話しています。