グレゴール

 僕はロマンという言葉に恐る。小説ではなく、ロマンチックという際のロマン。それは常に僕の中のどこかに、例えば膝裏に、脇の下に、指先に潜んでいる。無言に潜んでいるわけだが、その存在はうるさい。その声は、僕にだけ聞こえるのだ。喚き声とも嘆き声とも言いうるその存在のうるささが。不意に音は僕から漏れ出ていき、他に届く。時には音として、時には空気として、そして、常に振動として他を揺らす。不意を撃たれた僕は恐怖に襲われる。恐怖は不安となり、不安は持続する。常なる持続ではなく、断絶をも含むが、それは一時的なものに過ぎない。持続は、続いているのだ。
 ある日は、自分の部屋の戸も、窓も、全ての穴も塞いだ。何も漏れ出ぬように。雨戸をも閉め、シャッシの上からガムテープを貼り付けた。ドアももちろん、鍵をした後、包丁や、椅子、まな板、パソコンなどを立てて、ガムテープを貼り付けた。パソコンの電源ももちろん落とした。部屋はたちまち暑くなった。真夏に全てのドアを閉めたので当然のことだ。エアコンをつけると、流れ込んでくる電流から何が外に漏れてしまうのではないかと思い、付けなかった。また、空気の流れが新しい穴を作ってしまうかもしれなかった。
 汗をたっぷりかきながら、その夜は眠ることができなかった。周りは静まりきり、何も僕に届かなかった。たまに電車のコトン、コトンという音が彼岸から聞こえてきた。そうだ、僕は全ての彼岸にいるのだ。彼方、何も届かぬ彼方。ざわついていた心臓の高鳴りが、静まった。僕の振動は、全ての彼方に置かれ、何をも揺るがすことがないのだ。
 日が登ったのか、部屋の中が一層暑くなっていくような気がした。僕は、汗が噴き出る体を制御できず、横たわった。外から微かな音が入ってくる。しかし、それは彼岸の火事なのだ。僕とは関係ない。僕と関連しないものなのだ。
 なのに、何故か不安が振動とともに訪れた。彼岸の火事を眺めるために閉じていた瞼を開けた。そこには、ゴキブリが一匹いた。僕は辟易した。ゴキブリという生き物に辟易したのではない。そのゴキブリというものが示す、どこかにゴキブリが出は入りできる穴があるという事実、その事実に辟易した。僕は身動きせず驚き、戸惑った。恐怖と驚愕。愕然とした絶望。ゴキブリは僕の目の前で止まったまま、触角を絶えず踊らせていた。僕の存在には気づいているはずのそれはグレゴールなのかもしれない。僕がいる部屋は、グレゴールが閉じ込められたあの部屋なのかもしれない。
 グレゴールの触角の揺らぎとともに、僕の中がざわつき始めた。膝裏が、脇下が、そして指先が。震えは止まらない。地震のようだ。それは地球全体にはちっぽけな振動であるに過ぎないが、確かに何かを破壊し、変相させる。
 
 陽の降り灑ぐように 落花の雪のように、それとも、
 祈りのように やって来たのかしら? ──それを 語りたまえ。

 僕は狂人のようにテープをちぎった。包丁に指が切れ、血が飛び散った。血は、気持ち良い振動となりあちこちへ飛び散った。テープを破る間、指は何度も、何度も切られた。そのたび、血はより勢いよく飛び散った。
 やがて振動まみれになったうるさい僕が外に立った時、周りは静まった。ただ、僕の指から真っ赤な血を、絶え間なく落とすために激しく拍動する心臓のみが音を持っていた。その音は、僕の生命のときめきなのか。まだわからない。ただわかったことは、血が飛び散ることは気持ちいいということだけだ。決して悪くない。
 たくさん傷を負い、血を流すだろう。それは授血のためではない。受血に近い。震源地となり、厳かに震える。何かが確実に破壊され、他を揺るがす。決して悪い気持ちではない。間違った気持ちでもない。僕は今後も常に厳かに、密かに揺れ続けるだろう。それは決して正しくない。だが、決して間違ってもいない。グレゴールのように。

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