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他人の評価の語尾には「ここではね。」

私は自律神経を崩しやすい体質で
特に強いストレスや気候の影響で胃腸に支障が出ることが多んですが
現在はかなり良くなったとはいえ
当初は食べると痛くなることがトラウマになってしまった時期があったんです。

その時期、街に出れば
「細いですね」とか
「スタイルいいですね」って言われたり
そんな事を今まで言われたことなかったので
ちょっと嬉しかったんです(笑)

でも激痩せ状態から脱すると言われなくなって
ちょっと寂しくなってる自分がいたんですよね。

矛盾してるけど。

“誉められたい”と思う自分の裏には
“認められたい”と思ってる自分がいて
激痩せ状態から脱っした自分も
本当は認めてほしかったんですよね。

でも誉めてもらえないから
「脱した自分はダメなんだ」
「認めてもらえないんだ」と落ち込んでいたんです。

ここで「また痩せよう」と努力するのは
私の中では”雑な行い”であって
無間地獄の入り口(笑)

だから”認められる”とか”認められない”とか関係ない
「他人の評価に左右されない自分になりたい」って望んだんです。

他人からの評価って
他人が「私の価値観はこうです」という自己開示と
「この場所はこういう場所です」と教えてくれているもので
自分の存在の価値とは全く関係ないのに
自己否定されたように感じるのは
他人の評価を自分の価値と混同しているからだったんです。


評価を受ける場所はいつも限定されていて
学校とか仕事場とか
“ここでの評価"に過ぎなくて
場所が変われば、また評価も違って
限られた場所での評価では、自分の価値を測れない。

価値は、全ての場所の
自分の全てを見て総合的に評価しないと測れないもので
それって誰にも出来ないことだし
どんなに近しい人でも
自分の全てを知っている人はいないと思うんです。


知ってるのは自分だけ。


だから他人の評価は
”自分が求めない限りは”気にする必要はないんです。

他人は「ここではあなたはこう見えてますよ」って教えてくれていて
その評価がどんなものであれ
語尾にいつも「ここではね。」がついてる。

会社では「この会社ではね。」だし
友達や恋人、その他の他人なら「私はね。」が
どんな評価にもついていて
あくまでもそこだけに限定された評価。

だから他人の評価を求めてないなら
評価の語尾に自分で「ここではね。」と付け加えて
さっさと美味しいもの食べに行って
下らないことで笑って
屁ぇこいて寝る生活に戻るのが一番。

自分の価値を下げるのは
いつだって自分で価値を下げた時だけなんです。

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