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心和山光清寺 夜間公開
京都市上京区、千本出水を西に入ったところに、心和山光清寺という臨済宗のお寺がある。ここの本堂に面したお庭は、かの作庭家重森三玲の手になるものだ。普段非公開なのだが、昨年秋に初めて一般公開された。僕も昨年の初公開の折に訪れ、大層フラクタルな体験をした。今年の秋の一般公開を心待ちにしていたのだが、なんと今年は夜間公開もあるというではないか(もちろんはじめて)。そりゃ夜観たいよねぇということで今年は夕方訪れた。
地下鉄二条駅で下りて自転車を組み立てて千本通を北へ。市バスもガンガン通るので自転車で走るのは少し難渋するが他にこれといった道はない。丸太町通を越え下立売通を越え出水通を西に入ると急にひっそりする。夜道を滑るように走って光清寺に到着。自転車をたたんで、こっそり山門の内側に置かせてもらう。
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本堂へ歩み入る。ライトアップされた「心和の庭」が暗がりに浮かび上がる。幽玄である。箒目も夜の方がくっきりエッジが立って見えるようである(言葉の妥当性についてはご寛恕願いたい)。向こう側の白い壁に映る石の影も、本体同様の存在感を持って迫ってくるようである。幽玄である。
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今回の夜間公開について、18‐19時は本堂の照明が点灯されており、19‐20時は消灯されるということになっている。したがって19時には本堂が真っ暗となった。お庭のライトアップは変わらないので、相対的にお庭の方が明るいことになるが、正直お庭の見え方にそこまでの変化は感じない。むしろ、お庭を鑑賞するこちら側の心象に変化が生じたような気がした。
本堂を暗くすることで、お庭と向かい合う心の幅が広くなる感覚。
本堂を暗くすることで、その場に居合わせた人々と感動を共有するような感覚。
静謐さを共有する感覚。
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自らの心象と向かい合うという「心和の庭」の機能が増幅されているような気がした。
心の幅が広くなるという感覚は、自分と他者の意識の境目がぼやけて曖昧になるような感覚につながり、感動を共有するような感覚の下地となったのかもしれない。そういった自分の心の動き、感覚の連鎖を意識し認識することが、僕には非常に「禅的」に感じられた。
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これまでアートや芸術作品を鑑賞するとき、他者との感動の共有など考えたことがなかった(それがたとえ家族や恋人などの近しい人であったとしても)。あくまで自分がどう思うか(その作品を好きか嫌いかどちらでもないかそもそも興味がないか等)に注意が向いていた。それが、このお庭を観ることで、他者(ましてその場に居合わせただけの他者)と感動を共有するということ(それが僕の錯覚だったとしても)に意識が向いた。これまでにない体験だった。
昨年はお庭の、敷砂の部分や島の部分を観ることで境目を意識し、フラクタルな感覚を得た。今年は暗い本堂でお庭を観ることで、自分や他者の意識の境目を意識した(くどい表現だがお許し願いたい)。「辺縁を意識する」という意味では昨年同様フラクタルな体験なのかもしれない。
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山門の内側にこっそり置かれた自転車