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日々是レファレンス 借りパクされた本棚
何かの折に「そういやアレまた読みたいな」と思うことがある。読書そのものに飢えているときは「バベルの図書館」が入ったボルヘスの『伝奇集』を、ガルシア=マルケスが死んだときには『族長の秋』を(『百年の孤独』ではないのだ)、クンデラが死んだときには『存在の耐えられない軽さ』を、戦争もしくは戦争に近いものが頻発して血なまぐさい世界になりつつある昨今は伊藤計劃の『虐殺器官』を、本棚に探す。
しかし、ない。ないのだ。なぜか。
ない理由はほぼわかっている。貸したまま返してもらえていない、つまり「借りパク」だ。貸した相手をはっきり憶えているときもあれば、判然としない場合もある。それでも借りパクであることだけはなぜかはっきりしている。
では貸さなければよいではないか。なんで貸してしまうのか。自分の好きなものを他人に伝えたいということはある(一方で、自分の本棚を他人に見られるのは、全裸を見られるよりも恥ずかしいという人もいる)。でもそれなら貸すのではなく、本の題名を伝えればよいだけではないか。なんで貸してしまうのか。
自分にとって大切な人かどうかの差もあるのかもしれない。仲の良い友人や大切なひとなら、相手の経済的負担や入手する手間を減らすといった目的のもとに「これ貸してあげるから読んでみて」と貸してあげることになるのだろう。ただの押しつけにもなりかねないが。自分にとってどうでもいい人なら、本のタイトルを告げるだけなのだろう。そもそもどうでもいい人と好きな本の話などするのか。
借りパクされても、好きな本であればまた買えばよい。好きな本の売り上げが伸びることでもある。本当にこれがもう手に入らないような本であれば、他人には貸していない(はず)。
ふと想像するのだ。そのようにして、読みたいと思った本で借りパクされたものであっても、意識して探すようなことをしなければ、その本はまだ僕の本棚にあることになるのではないかと。
読みたいなと思って探す。「無い」ということがわかる。あるいは「無い」ということを意識する。その途端に本は消える。
逆に、読みたいなと思って探すことをしなければ、その本は「無い」ことにはならないのではないか。
存在と非存在の間をたゆたう本。
いや、そんなカッコいいことが言いたいわけじゃないんだよ。貸した本返せよ。そこのお前のことだよ。