真夜中のスカ
大阪に住んでいた頃、一時期自転車通勤をしていた。大阪府枚方(注)市というところから大阪市中央区まで淀川沿いの道を25km、1時間半ほど。ゆったり流れる大きな川沿いの自転車道なので信号などはない。桜の時期には満開の桜の中を走り(人出も多くなるが)、大阪城を横目に見ながら走る、今にして思えばなかなか贅沢なコースだった。
(注)「ひらかた」と読む。間違って「まいかた」と読んでしまうと現地民から袋叩きの目に遭うので注意されたい。「ひらかたパーク」(通称「ひらパー」)という昔ながらの遊園地があり、「ひらパー兄さん」にV6の岡田准一が就任したときは枚方じゅうがどよめいた(2代目。初代はブラックマヨネーズの小杉竜一であり、その格差にも枚方市民は腰を抜かした)。また、あまり知られていないがTSUTAYA発祥の地であり、辺境の町にはおよそ不釣り合いなT-siteが京阪枚方市駅前にどどーんと建っている。当地のTSUTAYAは「枚方駅前本店」であり、長らく枚方市民のプライドを支えてきた。
勤務地が大阪だったときは超絶仕事が忙しく、職場で日付が変わることもしばしばであった。そんな日でも当然のことながら自転車で帰らなければならず、深夜1時とか2時に真っ暗の淀川沿いを走ることとなる。ある夜、日付が変わるか変わらないかの時間帯に淀川沿いを走っていると、ブンチャカブンチャカ賑やかな音がする。しかもその音はだんだんこちらに近づいてくる。真っ暗の中、目を凝らしてみると、いろんな楽器を持った一団が、演奏しているのだ。スカを。歩きながら。
ええええいやいやいやいやこんな時間にこんなところでなぜ?と思ったが、いよいよそれらの集団はこちらに近づいてくる(実際にはこちらがチャリで近づいている)。僕の自転車のライトと、ところどころに立っている街灯で夢のようにぼんやりと浮かび上がったそれらの集団は、とても力強いスカを演奏している。この一団を見たときに真っ先に思い浮かんだのは「ノー・スモーキング・オーケストラ」だ。
正式には「エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラ(Emir Kusturica & The No Smoking Orchestra)」。旧ユーゴスラヴィアの映画監督エミール・クストリッツァ率いるバンドだ。彼の映画を初めて観たのは大学生の頃、『アンダーグラウンド』(1995)という旧ユーゴの内戦を題材にした映画だった。そのテーマの重さと3時間近くにもわたる尺の長さにもかかわらず、映画全体を陽気さが貫いており、その陽気さに一役買っているのがノー・スモーキング・オーケストラの音楽なのである。紛争地帯だろうがどこだろうがワゴンで乗り付けブンチャカブンチャカ演奏する。流れ弾に当たってバンドメンバーが斃れようともお構いなしに演奏し続ける。一見スカのように思えるが、もっと疾走感にあふれていてパワフルだ。あとから、バルカン半島の民族音楽(ジプシー・ブラスというらしいがもうその呼び名がカッコいい)をベースにしていると知ったが、もうとにかくカッコいい。
僕は学生時代を京都で過ごした。その頃京都市内には「単館系」とか「ミニシアター」とか呼称される小さめの映画館がいくつかあり、それらの映画館では大手配給ではない映画を上映していた。今ほどなじみのなかったヨーロッパやアジアの映画はこういった映画館で観るしかなく、映画好きを自称していた僕は単館系の映画館に足繁く通い、自分のマイナー志向を満足させていた。映画を<ハリウッド=メジャー=商業的>対<単館系=マイナー=芸術的>という構図に当てはめ、オイラはハリウッド映画なんて観ないぜと映画通を気取っていたのだ。実につまらない思い込みで、今思い出しても穴に入りたいくらい恥ずかしい。
それはともかく、僕は『アンダーグラウンド』を京都における単館系の代表的存在、京都みなみ会館で観た。近鉄東寺駅のほど近く、当時はパチンコ屋の2階にあって初めて訪れたときは本当にここに映画館があるのかと驚いたものだ(2019年にリニューアルして1階にもスクリーンがあるらしいが、行ったことがないので雰囲気がよくわからない。しかし、学生時代に愛した映画館が今も生き残っているというのはとても嬉しい)。左京区の下宿からみなみ会館(その名の通り南区にある)まで、貧乏学生だった僕は自転車で40分かけて行き、びっくりするほどカッコいい音楽に出会った。
…といったようなことを、深夜の淀川べりで謎のスカバンドに遭遇したとき、一気に思い出した。歩きながら演奏していたというところも、ノー・スモーキング・オーケストラっぽい。声を掛けてもよかったのだろうが、チキンな僕は黙って通り過ぎた。
その後もう1回だけ、やはり深夜の淀川で遭遇した。そしてやはりそのときも声を掛けられずに通り過ぎた。もう10年ほど前の出来事になるが、非常に記憶がふわふわとしており、そもそもあれは本当にあったことなのだろうかとさえ思う。あのとき思い切って声を掛けていればこんな曖昧な記憶にせずに済んだのかもしれないが、その一方でこのふわふわした夢幻感もまた、貴重なものに思えたりもするのだ。それはまるで、マジックリアリズムの横溢するクストリッツァの映画の世界に一歩足を踏み入れているような気分でもある。
社会人になり、映画を観る機会もぐっと減ったが、たまたまクストリッツァの新作の報に触れ、『オン・ザ・ミルキー・ロード』(2016)を観た。『アンダーグラウンド』から21年、快速ジプシー・ブラスは健在であった。とくに、劇中、村の宴会のシーンがあり、そのライブ感あふれる映像に、狂喜し感動し落涙した。この公開の翌年、エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラは9年ぶりの来日を果たし、東京で一夜限定ライブを行った。行けなかった僕は一生後悔するだろう。