大河内川砂防探訪
1.机上調査と最初の挑戦、パンクと撤退
明治期の石積みの堰堤を探してネットを渉猟する日々。その中で「これは!」と思うものを見つけた。『砂防および地すべり防止講義集(第49回)平成21.3.13』という冊子の中にある「砂防事業と地域活性化 ー歴史的砂防施設アカタン砂防からの報告ー」という文章だ。著者は「田倉川と暮らしの会事務局 田中保士」とある。この田中保士さんは以前にも拙文に引用で登場いただいたことがある。たぶん南越前町に点在する石積堰堤の状況にいちばん詳しい人ではないのか。
その文章の中に「図ー7 砂防パークづくりマップ」が挿し込まれている。南越前町にある石積堰堤の所在を簡単に示したものだ。左上から反時計回りに、高倉谷川砂防、アカタン砂防、大谷川砂防、大鶴目川砂防(たぶん「大鶴目谷川」が正しい)、ニオダン砂防、大河内川砂防。このうち、アカタン砂防はツアーで訪れた。高倉谷川砂防は全部ではないが行ったことがある。大鶴目(谷)川砂防については話を聞いたことがあった。あとの大谷川砂防、ニオダン砂防、大河内川砂防については、この図によって初めてその存在を知った。
https://e-labs.jp/2021/wp-content/uploads/2018/02/2009_sabo_kouen.pdf
で、同じ流域にある大河内川(おおこうちがわ)砂防とニオダン砂防に行ってみるかと計画を立てた。先に、奥の大河内川砂防を訪れるつもりで計画を立ててみる。ネットで「大河内川砂防」を検索するとやはり田中保士さんの書かれたレポートがヒットした。略図が載っており「上堰堤」と「下堰堤」があることが確認できる。
念のため同地域の国土地理院の地図を確認する(国土地理院の地図、昔は本屋さんで買うしかなかったと思うのだが、今がこうやってWebで見られるしなんなら過去の地図や航空写真などとも比較して見られるししかも無料だ。良い時代になったものだ)。広野ダムの東端から日野川を遡上しやがて大河内川との分岐点に至る。田中さんの略図によれば分岐点より下流に「下堰堤」があることになっているが、国土地理院地図にはその場所に堰堤の地図記号は確認できず、分岐点より上流に3箇所堰堤があることになっている。大河内川にある二つの堰堤のうちいずれかが「上堰堤」なのだろうと推測できるが、では残りの二つはなんなのか。現地に赴いて確認する必要がありそうだ。にわかにむくむくと冒険心が頭をもたげる。
午後から休みを取れた令和6年11月21日(木)に車で出かけた。ナビの目的地を広野ダムに設定して車を走らせる。ダムに着いてからは地図を確認しつつ走る(このあたりから電波が入らなくなる)。ダム湖畔の道を調子よく走っていたら落石に気づかず乗り上げてしまい左前輪のタイヤをパンクした。ぐぬぬ。即座に撤退を決め、そろりそろりと道を戻ったが途中で自力では走れないと悟り、ダム手前の広野橋まで戻ったところでJAFを呼んだ。山奥であるにも関わらず1時間ほどでJAFが大きな車両搬送車で現れ、僕の車を載せて敦賀のオートバックスまで載せて行ってくれた。パンクしたタイヤだけでなくすべてのタイヤがいつパンクしてもおかしくないくらいボロボロだったので、四輪ともタイヤを交換した。なんて午後だと言いたいところだがJAFの人がとても親切だったので、いい経験になったと思えた。
2.再度の挑戦、大河内大橋~大河内川砂防下堰堤
いい経験ではあったが撤退には違いなく、そしてそれは敗北だ。雪辱を晴らすため、次の日曜日(令和6年11月24日)に再び出かけた。今度はダム湖畔の道を、チャリの方が速いのではないかというくらいの速度で慎重に路面を確認しながら走行した。広野ダムの東端の先をさらに進むと大河内大橋という立派な橋があり、その先は急激に道が狭くなり舗装もされていなかった。一昨日の悪夢がフラッシュバックした僕は橋のたもとに車を置いて、ここから徒歩で探索することにした。11:30頃徒歩探索開始。
いろいろ寄り道したり写真を撮ったりしながら1時間ほどかけて、分岐点手前のあたりに辿り着いた。田中さんの略図に記載されたのと同じとおぼしき位置に「下堰堤」とおぼしきものがあった。一見石積堰堤に見えるが、よく見ると底面がコンクリートで補強されているようにも見える。比較的新しいものでコンクリートで底面を補強したものに石を等間隔に埋め込んだものか、もともと古い石積堰堤であったものをあとからコンクリートで補強したものかが分からない。これまでの明治期の石積堰堤を見ていると、石積堰堤をサポートするために別の堰堤を造ったりしていることはあっても、石積堰堤そのものに手を加えていることはなさそうなのだ。そもそもこの底面が本当にコンクリートなのかどうかも正直よく分からない。でもまぁ、田中保士さんが「下堰堤」としているのだからきっとそうなのだろうなと思いながら先へ進む。
3.大河内川分岐点~日野川の名も無き堰堤
日野川と大河内川の分岐点には橋が架かっており、「下堰堤」からはすぐそこだ。僕は日野川側を先に探索することにした。川沿いの道を5分ほども進むと小屋が建っており、その前でおじさんとおじいさんがU字溝のようなもので焚き火をしていた。僕はこんにちはと声を掛けた。おじさんはちょっと驚いた風でこんにちはと応え、「釣りかい?」と尋ねた。僕は、明治期の石積堰堤を探しに来たのだと応え、脇に置いてある白い軽自動車を見て驚いた。ジムニーとかではなく普通の軽自動車だ。この人たちこれに乗ってここまで来たのか…?おじさんは「たしかにこの先に(堰堤が)あるなぁ…でもそんなのわざわざ見に来た人は初めてだ。熊に気を付けて行っておいで」と鍋をカンカン叩きながら(熊除けのため)見送ってくれた。
そこから10分ほど歩いて堰堤に辿り着いた。石積堰堤があってその少し上流側にコンクリートの堰堤が控えている。国土地理院の地図には堰堤の地図記号で記されているが、田中保士さんの略図には描かれていない堰堤だ。したがって名称などは分からない。左岸側に石を積んで導流し、右岸側の大きな石に水流を当てて流れを弱めている。自然の巨石を利用した堰堤であり、見ていて惚れ惚れする。石積みは多少崩れているようにも見えるが立派に機能し、自然と一体化している。実に素晴らしい。
どのくらいの時間眺めていただろうか。僕は我に返って、来た道を引き返した。小屋まで戻ってきておじさんとおじいさんに声を掛けた。おじいさんは「寒かったやろう。火に当たっていけ」と焚き火をすすめてくれた。僕は遠慮なく火に当たってお二人と会話を楽しんだ。
お二人はここに週末だけ来ていろいろと作業(森林の管理とか?)をしているのだそうだ。でも、もう寒くなるし雪も降るので、ここに来るのは今年は今日が最後かなとおっしゃっていた。ここまで歩いてきたのかと訊かれて、僕は木曜にもここに来ようとして車をパンクさせたので、今日は大河内大橋に車を置いてここまで歩いてきたと言うと大層驚かれた。僕は白い軽自動車を指して、ここまで車で来る方が驚きだと言った。ここに僕が来たのは仕事かと訊かれたので、完全に趣味だと応えるとおじいさんは大層驚いて、そしてなぜかとても喜んでくれた。そして、ここからどこに行くのかと訊かれたので、大河内川を遡って堰堤を探しに行くと応えた。おじいさんは、大河内川は歩いて遡上するとここから30分はかかるので急がないと大河内大橋に戻るまでに日が暮れるかもしれないと教えてくれた。この時点で13:00頃。僕は二人にお礼を言ってまた歩き出した。そういえば小屋の前の川にもちょっとした石積みがあり、堰堤っぽかった。
4.大河内川分岐点~大河内川砂防上堰堤
再び日野川と大河内川の分岐点へ。そこから10分ほどで「上堰堤」に到着。水通し部分に綱たるみのない、横一直線の石積堰堤。これはこれで美しい。自然石を加工せずにそのまま使用したもので「野面積み」というらしい。堤体の左右の部分は苔に覆われたり草が生えていたり、自然と一体化しつつある。しばらくぼんやりと眺めて、また上流に向けて歩き出す。
5.大河内川砂防上堰堤~大河内川最奥の堰堤、帰還
途中、大河内川に流れ込む名も無き支流にいくつも遭遇する。その細かったり、あるいは勢いが良かったりする支流に、石が積み上がっている箇所がある。これが自然にできたものなのか、人の手によるものなのかの判断がつかない。大河内川はこんなに山奥であるにも関わらず護岸工事がしっかりとなされており、現在は無住だがかつて人が住んでいたであろう形跡がそこかしこに見られる。そのことを思うと、少しでも土砂災害を食い止めようと住民が石を積んだ可能性もあるのではないか。ただの風景として通り過ぎるにはしのびなく、どんどん進むスピードが落ちてゆく。
結局分岐点から1時間ほどかかって、国土地理院地図に記載された最奥の堰堤に辿り着く。この堰堤はコンクリートの近代的な堰堤だったが、その規模の大きさと落差の高さに度肝を抜かれた。堤体の上から下を覗き込んで足がすくむ。最後に人が来たのがいつかも分からないような山奥に、こんな大きな堰堤が…建設省(国土交通省)ってすげぇな。
ここまで思ったより時間がかかってしまった(寄り道のせいだ)ので、あまり間を置かずに帰路に就く。
駐車していた大河内大橋に15:00頃帰着。大河内川最奥の堰堤から大河内大橋まで1時間で帰ってこれた。11:30からおよそ3時間半にわたる徒歩探索。寄り道しまくりで歩き通しだったわけではないものの、日頃の運動不足がたたって太ももパンパン膝がガクガクである。振り返ってみれば、平日の午後に休みを取ったからといって来られる場所ではなかったのである。
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