私とチェイサーゲームW2
私が何でこんなにチェイサーにハマっているのかよく考えるんです。我ながらハマり方が普通じゃないので。もちろん主演のお2人が圧倒的に素晴らしいというのがあります。でも、それ以外にも理由がある。
ドラマ「チェイサーゲームW2」への感謝を込めて
私の個人的な理由を、公開してもよさそうなものを選んで…
いや、これもどうなんだ?
今回もかなり乱暴な意見ですし、個人的な受け取り方です。今までの私の人生からくる受け取り方です。特にセクシャルマイノリティ当事者の方は共感できない方多いかもしれません。きっとマイノリティの中のマイノリティです。不快に思う方もいると思うので色々な意見を聞いても大丈夫な方だけ読んでください。でも1人のセクマイとして感じたことです。
注意しましたらかね!
後でお怒らないでくださいね!
私がこの作品にハマっている理由
それは主人公の樹と冬雨が同性を好きなことへの葛藤が描かれることはなく、その一方で社会に対して何もできない、どうにもならない感じ、あの空気感。
その感覚が自分と重なったからかもしれません。
私は自分の「女性が好き」というセクシャリティーについて最初から、おかしいと思ったことはありませんでした。なんでか初めから。同性を好きになることはあるものと思っていました。動物や生物の世界にも存在するし。江戸時代とかもっと古い時代からそいういう人はいる。少数ではあるけど、人間の中にそういう特性を持ったものがいても特段おかしいことではないと考えていました。主観的には納得していました。でも私はずっとクローゼットです。それどころか今でも拗らせまくっている。まあ、どう拗らせているのかはここでは話しませんが笑
ではなぜ、カミングアウトしなかったのか、それは色々なドラマや映画で同性愛を告白した子はいじめられ、追い詰められ、死にたくなっていたからでした。私は自然に刷り込まれていました。誰かに言ったらそうなる可能性があると。そんな思いをするくらいならクローゼットでいいと思いました。私はそんなに強くないと知っているから。別に知ってもらわなくてもいい。今までノンケの友達にカミングアウトしたのは1人だけです。だからといって、言えないことに対して絶望していたわけでもありませんでした。そんなことは私にとってささいなことで、自分のほんの一部でしかないと思っていました。この考えはチェイサーゲームW2の最終回をもって、覆されました。でもこのことを話すとややこしいので別の機会に話します笑
話を戻します。
このドラマでは樹も冬雨も女性を好きなことへの葛藤は描かれていない。もしかしたら樹は高校生時代にそういった葛藤があったかもしれないけど、ドラマの中でそこは重要視されず、噂を流された描写のみ。冬雨に関しては、樹に「普通が何か自分で決めていいんだよ」の言葉で自分の樹への気持ちを受け入れている。ちなみに樹がドライヤーの音を利用して冬雨に聞こえないように「好き」と告白した時には、すでに冬雨は樹への恋心があったと思ってます!聞こえないふりしてたと思います!あっ、今はこのことはいいですね。失敬!
また話を戻します。
シーズン1では元カノだったから描かれていないのかと思ったけど、シーズン2でも描かれなかった。そこを重要視していなかった。チェイサーゲームWは初めから同性を好きになったことを葛藤するステージではなく、次のステージを描いていた。社会の中で同性愛者がどう生きていて、どう生きていくか。
そして2人の口からも「何で私たちは女性同士なんだろう」とか、「どちらかが男だったらよかったのに」とか、そういったセリフも一回もない。
毎回、こういうストーリーで描かれる同性を好きにった葛藤の描写がないこと。そこが、私がチェイサーゲームWに惹かれた理由の一つなのかもしれません。そして何度も見たくなる理由だと思います。何を描いて何を描かないか。それがドラマを見たいか見たくないかにつながるのだと実感しました。
私は、同性愛のドラマを見た時に必ずある同性を好きになる葛藤はもう見たくなかった。
またこれだ。同性を好きになったことに抵抗を感じる主人公。同性愛のステレオタイプのストーリー。同性を好きになったらもれなく絶望しないといけないと刷り込まれていく。むしろそれが私を絶望に落とす。せっかく日常で普通に過ごしてるのに、闇の中へ引きずり込もうとする。
もうそれよくないですか?
自身が絶望するくだりよくないですか?
いりますか?
ドラマのコンセプトに差別のない世界になるといいよねっていいながら、自身に絶望する前提の世界をドラマで描かなくてよくないですか?
LOVEって何ですか?
LOVEって何ですか?
失敬、ちょっと感情的になってしまいました。
そう、その次なんです。その次のステージなんです描いてほしいのは。
私は自分では自分のセクシャリティーについて納得していたものの、私の中の客観性は認めていなかった。社会の中でのセクシャルマイノリティーの存在を認められなかった。社会人になってそれが大きくなった。周りから見た時に肯定できるものなのか、どうしても説明がつかなかった。第三者の立場で見た時に、同性愛者はこの日本の社会のルールの中で辻褄を合わせるのが難しい存在だと。認めずらい存在だと。私は色々なセクシャルマイノリティーのシンポジウムやイベント、2丁目やコミュニティーに行った。それでも私はクローゼットのままで、考えは変えられなかった。それはそれ、これはこれだった。私はその状況にあらがおうとは思わなかった。私はこそを求めなかった。怖かった。
それはやっぱり人種差別に似ているのかもしれない。自分自身では1人の人間として認めていても、どんなに専門的には研究され主張されていても、いぜん社会はそうでないと感じていた。実際はそうかどうか、わからないけど、そういう空気を感じてた。これはもうずいぶん前の話です。
でも、Xを見ていると今でも若い子が同じように感じていることに驚きました。もう日本は変わっていると思っていた。私がすっかり諦めている間に、変わってると思っていた。色々と制度も出来てきて、プライドパレードも大々的に行われ、大手企業がこぞってスポンサーになっている。そんな今でも、その空気が変わってなかった。
確かに社会は一色じゃないグラデーション。理解が進んでいる部分もあれば、まだまだ変わらないところもある。そういうことなんでしょうね。そういう私も変わってなかったですしね。
チェイサーゲームWでも、樹は冬雨のママ(社会一般)の意見を飲み込んだ。今までの社会ではその方が幸せだよね。と思ってしまう。
どんなに愛し合っていても。そこで戦わず引いてしまう現実。チェイサーゲームWはセクシャルマイノリティと今までの社会の閉塞感が描かれてた。
チェイサーゲームW2の前半はチェイサーゲームWの空気感と同じ。2人は想い合っていても社会に対して何も出来ない無力感が描かれていた。
しかし、中盤からは周囲のサポートもあり、運命を変えようと2人は動きだした。
これからの社会が描かれていた。
今回はここまでにします。
この先がきっと本題ですが
冬雨のママとの対峙や樹のカミングアウト、幼稚園での樹のカミングアウト、記者会見での冬雨のスピーチ色々ありますが、表現が難しすぎて書いてはやめての繰り返し。時間がかかりそうです。
でも思いは伝えたい。
チェイサーゲームW2への感謝の気持ち。