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「週刊ウローク」NO.4 ////「あゆち思想」の源流

■寝覚ノ里(ねざめのさと)


 尾張名所図会の中に「七里の渡し船着 寝覚里」という絵図が一枚ある。東海道五十三次のうち四十一番目の宿場町「宮」、浜ノ鳥居の前を馬が駆けている安藤広重の浮世絵。今はこの鳥居がない。そしてこの鳥居の右側に描かれているのが東浜御殿である。これも今はない。寝覚里はいったいどこにあるかというと、「宮」からはるか南方にある。それが年魚市潟である。ヤマトタケル尊は東征の出発点とした尾張国司オトヨノ命の館で一泊した。寝ていると高台にある館から年魚市潟に寄せる波の音で目を覚ました。「戦いに行くのでない、話し合いに行くのだ」磯の音(五十音)に諭された。そしてヤマト媛から渡された草薙剣。ヤマトタケル尊は焼津の浜で敵方に囲まれて火攻めにあった。背後には水辺が迫っていたが、尊は草薙剣を抜いて立ち向かう敵を前に葦を次から次へと断ち切って、そこにヤマト媛からもらった火打石で火を放った。敵は迎え火に会いみな退散。その地はやがて焼津と呼ばれた。また走水の海峡では海難に会ったが妻の弟橘媛が船首から身を投げて海神の怒りを鎮めた。こうして東国平定の旅を終えた。熱田神宮の元宮がある氷上姉子神社近くには今も「寝覚里」の碑がある。


水問題研究所より

■寝覚ノ床(ねざめのとこ) 


 もう一方の寝覚ノ床である。あゆちの風が熱田神宮の南、年魚市潟から北のほうにどんどん吹き渡っていくと、中山道の三十八番目の宿場町、上松宿がある。そこの木曽川沿いに寝覚ノ床がある。浦島太郎が竜宮城から帰ったとき、消して開けないようにと言われた玉手箱を開けてしまった場所である。木曽川の大石の上で浦島太郎が竜宮城から帰ったとき、けっして開けないようにと言われていた玉手箱を開けてしまった。木曽川の、あの柱状節理の大石の上で浦島太郎は三百歳のおじいさんになってしまった。それが「寝覚ノ床」という場所だ。上松宿にあるのだ。名古屋駅から松本駅行きの電車の左側の車窓からもよく見える。
 「寝覚ノ里」と「寝覚ノ床」、これではっきりしてきた。あゆちとは竜宮城のことだったのだ。意外にも浦島太郎の登場でことははっきりした。

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