ビッグオーを見直した話と虚構の監督の話
本エッセイをお読みいただくまえの注意:
ビッグオーのネタバレ有。
フォロワー宇宙戦記と絡めた話有。この単語を知らない人間が読む場合、「宇宙戦記」の単語が含まれた節はまるまるスルーすることを推奨する。
これから書くものは個人的な感想に過ぎず、それに反するものへの批判の意図はいっさい含まれていない。また、これらはほとんど推敲の入っていない書き散らしであるため、読みやすい文章ではないという断りを事前に入れておく。
https://x.com/para_oz/status/1789269226777375031?s=46&t=cVVIsLWKrFBHxOeU3qwAYw
最近、時間・精神的余裕ができたという事もあって今更ながらビッグオーのプラモを購入した。
そして、「それならいっそ作業中にビッグオーを見直しちゃえ」と考え、そうする事にした。結果、とても至福の時間を過ごした。
ビッグオー。画風や各キャラクターデザインもとても好きだが、話の構成もいい。
まず、主人公が「強い」。
ふつうロボアニメというと、主人公はたいてい精神的に未熟であることが多いと思うのだが、本アニメの主人公「ロジャー・スミス」は成熟した大人であり、紳士である。
大人の余裕を見せながら物事を解決するさまは見ていてとても心地が良い。
(スパロボにて「撃墜された味方機の修理代が0になる」固有スキルを持っているところも好きだ。ダンディー…)
人間味もしっかり持ち合わせている。予想外が起きて動揺するあたりも同じく好きだ。彼の余裕の根源にある自己存在の確立ができなくなったとき、それが一気に崩れるというのも人間らしさがあり、良い。
主人公が1番謎に包まれている、という点も好きだ。
何かが起こったことで40年より前のことがだれにも思い出せないという記憶喪失の街で、失われた記憶の断片がたまに描写されることがある。
あるところでは、「量産されたビッグオーが燃えている街を背景に練り歩いている」光景。
またあるところでは「今の世界は全て浮浪者ロジャー・スミスの幻想」が事実であると思われるもの。
そして「アンドロイドのロジャーが工場で量産されている」光景。
最終話まで、結局どれがほんとうの彼のものであるのかは分からないのだ。(これにロジャーは苦しめられるが、最終的に「意志を持って動いている今の自分がほんとうの自分である」とする。意志が自己たらしめるというのが本作のテーマのひとつでもあると思う)
彼はネゴシエイター(交渉人)である。そして、彼は過去に(終盤までその記憶は無くしていたが)「この世界を演出する存在と交渉してほしい」という依頼をこの作品の謎の手がかりを握る存在から受けていた。
その事実だけは「本当」なのだろう(当時(40年前)の古い写真に映る彼だけが今の容姿とまったく変わっていないという不可解な描写もあるが)。
これだけ聞くと、よくわからない依頼である。だが、これはかのエヴァンゲリオンもびっくりの非常に直接的な言い回しであることが最後に明らかになる。
本作の話は端的にいうと、「世界自体が作り物であることを知った主人公が、創造主に向けて『交渉』し世界を存続させる」話である。
ここでいう創造主とは、もちろん監督である。だが、それは現実の監督ではなく、作中に登場するキャラクター「エンジェル」を指している。
本作の設定には不可解なものが多い。上記に書いたロジャーの事もそうだが、「40年前に何が起きたのか」を筆頭に、「ロジャーに仕える執事」「未来の新聞を読む情報屋」「ビッグオーの出自」すべてが明らかになっていない。
情報屋に至っては、1話からロジャーが客から依頼を受ける度に頼っていたような存在だったのに終盤のたった数十秒で、壊れたバーとともにいつものように椅子に座って新聞を読む(このときに新聞が未来のものであることがわかる)シーンが出るだけなのだ。
たった数十秒。追加で情報屋がアンドロイドであったという情報も上乗せされる。どういうこと?
しかし、設定の基盤をあやふやにしているからこそこのような「面白い話」が書けるのだろう。(ここでいう「書く」とは、実際に本作を制作したスタッフたちによってではなく、作中の創造主とされる「エンジェル」によってという意味である)
設定の基盤を用意して理屈と背景をぎっちり詰めずに話を作る軽快さは、用意された「宇宙戦記」という基盤で各々が自由にキャラクターやお話を作り出していく"ソレ"とよく似ている。(この軽さがたいへんにお気に入りであるからこそ自身もそれに参加して日々楽しんでいる。)
作りたい話を作り上げて、生じた謎を「世界の真実がだんだん明らかになっていく」として話の目的にする。その曖昧さが、世界が虚構であるということを強める。世間的には否定的な意見が多いようだが、作品構成としては素晴らしいものであるというのが個人的な見解である。
もちろん、ちゃんと設定を詰めて理屈の通った話として成立させなくてはいけない、という意見もじゅうぶんに理解できるものであるのだが。
話は変わるが、筆者はエヴァンゲリオンという作品が大好きである。創作にもたいへん影響を受けた作品だ。
それもそのはず、筆者は幼稚園の頃にエヴァンゲリオンの旧版を親に見せられて英才教育を施された人間なのだ。
家の三階にある父の広い部屋にちいさなテーブルを出して、当時の感覚で"ちょっと豪華"だった夕食を食べながら、目の前の大きなテレビに映し出される、エヴァの溶けた顔面。今でも忘れられない光景である。
当時はもちろんまったく理解できなかったが、あの現実の世界に侵食するような捉え方には衝撃を受けたものだった。
シン・エヴァンゲリオンも面白かったな。途中から風景すべてが撮影用のセットに切り替わる。ビッグオー的演出の再来…否定的な意見は多いが、こんなにいい演出はなかなか見ることはないんじゃないかと思う。
逆に言えば、この手の演出は1個か2個の作品で出たらもう使えない冷めた演出に転じるという意味でもある。題材的に「ナンセンス」と捉えるギリギリにいるし。
作品を作中人物として大事にしていた人間にとっては、それが全て虚像であったという事実を作品側から提示されることで冷めるのだろう、などと考えたり。
よく考えたら、シンエヴァもダンガンロンパも、世界が虚構であることをキャラクターが理解した上でその外側に行くことを選択した話だった。
ビッグオーは、監督と交渉した上で世界を存続させる(=現状維持)ことを選択した。いくつかのインディーゲームでもそういった話しはたまに出るものの、アニメという形で世に公開された作品でこの手のものは珍しいのではなかろうか
宇宙戦記の話に戻るが、筆者はおそらく一番最後の参加者である。参加させてもらった時点でひととおりの流れは既に決まっていたため、その流れに抵触しないように話を書くように心がけている。
なので、基本的に物語に影響するような「他人のキャラとの関わり」は無く、メインキャラ一名とそれが運営している機関の中での話がほとんどである。
話を書きながら、「なんとひとりよがりなものであるのか」とよく考えることがある。
創作であるから当たり前の事としてひとりよがりなのはもちろんなのだが、なまじ「他人の考えた設定を借りている」以上、やはりほかの持つ「一種のテリトリー」のようなものには意識するものである。ふだんは気にせずに書いているが、うっかり他人の領域に足を踏み入れているのではないかとたまに心配になってしまうのだ。
「こいつ、他人の土壌を借りて一人で盛り上がってるよ」と思われるのもすこし恥ずかしい。だが、歓迎された以上盛り上がる権利はあると思っているので、これからも楽しむと思う。
上記のこともあってこちらからあまり出にくいのだが、何か言われたら嬉々として「いいですね!」とか言うと思う。戦記フォロワー各位は、宇宙戦記においての筆者の領域にどんどん踏み込んでほしい。
ビッグオーの「世界設定を上手く利用して面白い話を作る」構成から宇宙戦記のことを思い出しただけで、とくにオチはない。エッセイなのでね…
サポートしていただけると大変励みになります。