大仏師、運慶
概要
平安時代末期
から
鎌倉時代初期、
貴族社会から
武家社会に移
行する大変革
の時代に卓越
した造形力で
斬新な仏像を
生み出してき
た大仏師がい
る。
その名は
「運慶」
=(?~1223年)
である。
東大寺南大門の
「金剛力士像
(仁王像)」
に代表される、
リアリティーを
追い求める造仏
の新様式を打ち
立てた、
と言われている。
平氏による
南都焼き打ち
=(1180年)
で焼失した
東大寺、
興福寺
の復興造像に
貢献し、
また、
鎌倉幕府の
有力御家人
からの発注を
受け、次々と
名品を造像した
のも運慶である。
そんな運慶だが、
興福寺の僧侶で
もあり、仏教へ
の深く大きな理
解が、仏像彫刻
で頂点を極めた
要因であった、
とみられている。
仏教の信仰者
運慶は、鎌倉時代の
彫刻界をリードした
奈良仏師の
康慶(こうけい)
の子として生まれた。
生年の記録はないが、
運慶の長男、
湛慶(たんけい)が
承安3(1173)年の
誕生であることから、
運慶の生まれは、
12世紀中頃で
1150年前後
とみられている。
当時の
仏師の世界は、
奈良仏師(慶派)、
院派、
円派
の3つの集団に
分かれて活動
していた。
いずれの派も、
平安時代中期に、
宇治・
平等院鳳凰堂の
本尊、
阿弥陀如来像
を造ったことで
知られる
定朝(じょうちょう)
の系譜を引くもので
ある。
院派と円派は、
平安京を拠点とした
のに対し、
運慶が属する慶派は、
奈良興福寺を拠点に
活動していた。
運慶の父である
康慶は、
定朝との血縁関係は
無かったが、
弟子筋として力を
蓄え、
慶派を指導する
ようになった、
と言われている。
運慶は、康慶の
下で、修行して
いたが、
一方で、
熱心な仏教の
信仰者でも
あった。
その頃、
東大寺や興福寺
など
大寺院の僧侶は
学侶(がくりょ)
堂衆(どうしゅう)
という集団に分か
れていた。
教学や寺の
運営を行う
学侶
に対し、
堂衆は、
寺院の諸堂に
出仕して、
儀式への奉仕
や事務等を行う
役目があった。
更に、
堂衆は、
武士の関係者
などが多く、
武力を持つ者
らで僧兵を
構成する
事もあった。
そんな中、
運慶は、
興福寺西金堂の
堂衆であった
と、言われて
いる。
また、
運慶は、
「法華経」
8巻2部の写経を
志し、7・8年
かけて
寿永2(1183)年
に、完成させて
いる。
その奥書には、
執筆僧、
結縁者
=(けちえんじゃ)
=信仰心を持ち、
仏教の教えや
修行に関心を
持つ人。
として
東大寺、
興福寺
の僧
のほか、
快慶ら
慶派の仏師
が、名を連ねて
いる。
作者署名の始まり
仏師としての
運慶の名が最初に
登場したのは、
奈良県
忍辱山町(にんにく
せんちょう)
にある、
円成寺(えんじょうじ)
における
大日如来坐像(国宝)
の造像であった。
像高約98cm、
檜(ヒノキ)材の
寄木造
= (頭部と胴部が
複数の木材で
造られている
彫刻)
である。
漆で金箔を接着
する漆箔が施さ
れ、
目には、
水晶の玉眼が
はめられている。
結跏趺坐(けっかふざ)
=あぐらをかき、
右の足を左の
ももの上に、
左の足を右の
ももの上に置き、
足の甲で押さえ
て、足の裏を上
に向けて組むも
の。
した両足が
たくましく
盛り上がり、
凛とした
横顔を見せて
いる。
この像を
大正10(1921)
年に
解体修理した際、
台座の裏側から
運慶が、
真筆(しんぴつ)
した
墨書銘(ぼくしょ
めい)
が確認された。
それには
「運慶承
安元元(1175)年
十一月廿四日始之
給料物上品八丈絹
肆捨参疋也
己上御身料也
奉渡安元弐秊
丙申十月十九日
大仏師康慶
実弟子運慶」
とあった。
内容だが、
「康慶の実子で、
弟子の運慶が
受注し、1年
近くかけて
造像した。
それから、
報酬は、
上品八丈絹
43疋
だった」
となっており、
二十代半ばの
運慶の処女作
であることが
確定したので
ある。
加えて、
仏像に、
作者自らが署名
した最初の例、
とも言われてい
る。
作品への思いが深部に!
円成寺に運慶作の
仏像が置かれたの
は、なぜか?
その理由を
紐解いていく。
造像時期の少し
前のことである。
円成寺は、
東大寺別当も
務めた
京都・仁和寺
の僧、
寛遍僧正(かんぺん
そうじょう)
によって、
伽藍(がらん)
=僧が集まり、
修行する場所。
または
寺院の建物。
の復興が始まっ
ていた。
その中で、
真言密教の教主
とされる
大日如来の造像
が、計画された
とみられている。
円成寺の住職は
「お寺は、
(真言宗御室派
総本山の)
仁和寺の寛遍
僧正によって
中興
=(再度繁栄
させる)
されたが、
寺内には
興福寺一条院の
塔頭(たっちゅう)
=大寺院の敷地内
にある小寺院や
別坊。
があった
と言われ、
興福寺との繋がり
も、深かったよう
である。
それ故、
大日如来の造像は、
興福寺経由で慶派
に発注され、運慶
が、担当するよう
になった可能性が
大きい。
造像された
大日如来は、
運慶の若い頃の
作品であるが、
仏教への思いが、
深かったので、
手先の表現にまで、
仏教に裏打ちされ
たものが表れて
いるように思う」
と話す。
円成寺の造像に
次いで
運慶による造像が
明らかになったのが、
興福寺に残された
「仏頭」
である。
所謂、
仏像の頭の部分で
ある。
その由来は、
江戸時代の
享保2(1717)年に
焼失した
興福寺西金堂の
本尊、
釈迦如来坐像の
頭部
だという。
平安末期
から
鎌倉中期の
興福寺僧の日記
から記事を抜粋
した
「累聚世要抄
(るいじゅよ
ようしょう)」
の内容が、近年
明らかになった。
記されていたのは、
文治2(1186)年、
西金堂で行う
修二会の本行に
間に合わせるため、
新造の釈迦物
=(釈迦如来坐像)
を西金堂に搬入す
る指示が出され、
翌日、西金堂に
運び込まれた
釈迦仏の据え付け
を、大仏師・運慶
が取り仕切った、
という事であった。
作業終了後に
興福寺別当から
馬1頭が与えら
れたという。
上記のことから
釈迦如来坐像の
造立に、運慶が
関わっていたこと
が明らかとなった。
運慶(略歴)
平安時代末期
から
鎌倉時代初期
に活躍した
仏師。
安元2(1176)年、
奈良・円成寺の
大日如来坐像
を皮切りに、
仏像制作を
本格化する。
治承4(1180)年、
平清盛の命を受け
た5男の重衡らに
よって南都焼き
打ちで伽藍が消失
した
東大寺、
興福寺
の復興造像に腕を
振るった。
それ故、
仏師としての地位
を示す
僧綱位(そうごうい)
は、
最上位の法印を
受けた。
また、
源頼朝らの
「鎌倉幕府」
と結びつきを
強め、
東国でも工房
を設けて造像
を展開した。
代表作には、
快慶と合作の
➀東大寺南大門・
金剛力士像、
➁興福寺北円堂・
弥勒如来坐像、
などがある。
写実的で重量感の
ある作風が特徴で、
力感に溢れた新様式
を確立した。
<データと資料>