【ロシア留学】留学への決意が固まった日
Привет!
9月も終わりに近づいてきましたが、つい最近ロシアが部分的動員(мобилизация)を行うと発表しました。後天性のロシア人の友人たちも兵役を終えた、または大学を卒業して現在兵役中ということで戦場に送られる危険性があります。今現在連絡を試みていますが、ただただ不安です。
では前回の続き(前回の記事)を綴っていきたいと思います。
今回は出国までにあった出来事を書いていくので、今後海外留学に行く人の参考になれば幸いです。出国前になにをしたらいいのか、ここでは僕が気付いた留学前の心構えを中心に記述していきます。
結論、なにが起こってもおかしくない、柔軟かつ芯のある心構えが必要なんだぜ。
保険?保健?会社からお手紙
2014年、高校2年になり8月を迎えた。ロシアへの出国が刻々と迫るなか、出発の準備もそろそろ本腰を入れないと、約1年友達と会えなくなるし今の内に会っておこう、そんな時期を過ごしていたある日のことだった。
緑色の会社??どこだよそれ?
損害保険業界の二大手保険会社を色分けしたときに、緑と青に大別できるのだが、そのうちの緑のほうから8月に入ってすぐ自分と父の連盟宛に封筒がきた(仮にピッコロ保険)。
固有名詞出すのはなんか憚れるんで、、謝謝(二回謝ってるつもり)
普段、進研ゼミ講座のしつこい勧誘封筒しか企業のラブコールを受けていなかった僕は、その実少し鼻の下が伸びていたと思う。あのテストですこぶるいい点数をたたき出しているにも関わらず、おいおい泣いている男女の漫画にはもう飽き飽き
自分宛に、遂に!全く異なる会社から春風の如く郵便物が階下のポストにやってきた!!
「なんやろなんやろ♪」
進研ゼミにしか耐性がなかった当時の自分は、例えZの会の勧誘封筒であっても喜んでいただろう。しかし
「ピッコロ保険?」
なんだ?保険?
保険と保健の区別もつかなかった思春期の青年が唯一理解したことは、なにかの保険契約が無事完了したらしい。
「なんかわからんし後できこう♪」
夏の風が窓際のレースをすくう。外では蝉が生き生きと鳴いており、夏の音が鳴りやまぬ刻の外には、日が暮れる気配はない。
お前がもし死んだときにな~
お父様、お父上様お帰りなさい。こんな蒸し暑い夜まで働いているなんて、資本主義の世の中も大変ですな~。ここは一杯グビッといっちゃってくださいよ。
親父は帰ってくると酒を飲みながらその日に来た郵便物を確認する癖があった。なので先の封筒もそのうちに親父の手に渡っていた。
「きてたか」
僕は覚えている。豚肉とモヤシ、ニラの野菜炒めだったぞ、あの晩は。
親父に聞いた、その封筒はなんなんだと。進研ゼミ以外から自分宛に手紙ではなく封筒が来ていたんだ。恐らくその時の自分の両目はキラキラしていただろう。
「あ、これはもしお前が死んだときにな、念のため入っといた保険なんや」(直球)
…
「ふぇ」
ふぇ
へ、ではなく ふぇ である。フェートン号事件、フェリス女学院、フェヌグリークのふぇとは違う、ふぇである!
死んだとき??おお!!まだ16なんだが、これからなんだが??The Beginning!!(もちろん死ぬことを想定した保険ではない)
親父は続ける―「今度の留学、危険な情勢のなかロシアに行くわけや。なんにも起こらへん可能性なんて保障されてないやろ。やからお父さんはもしもの場合に保険をかけたんや」
サラッとなんてことを。因みに父は東京の葛飾に生まれ、葛飾の下町で育った生粋の下町っ子だ。
一同静まり返る。僕の眼前に進研ゼミの面影はもうなかった。
僕はロシアにいく。ウクライナと事実上戦争状態である彼の国に。それだけでない、実は当時のロシアにとって戦争よりも喫緊の課題だったのはテロの危険性のほうだ(自称)。
この東京出身の関西弁を卒なく話す男は、ことのほか現実に生きていた。いや、現実に正直すぎだ。息子唖然
しかし、その通りだ。僕は自分の甘さを痛感した。何かしらの問題に巻き込まれない保障などなく、万一の場合を想定することは然るべきことである。僕が飛び立った後に父が日本から物理的にどうこうできるわけではない、それ故の選択であった。父は至極現実的だった。
それに比べて息子のほうは、今日まで、自分が行くことの意義、意味といった観念上のおままごとに勤しみ、その次にはどんなことをしようか、どんなものを持っていこうかといったことしか考えてこなかった。
進研ゼミ?あほかと。真剣にことの本質を見抜こうとせん愚か者、目の前にあるもやしを食べる資格さえない人間だ。リスクを承知の上で、というこれまでの発言には現実的な重みがなかった。そこを大人たちに見透かされていたと思うと赤面ものだ。
とりあえず親父の酒のつまみを奪いその場から退散した。
平和ボケの根深さ
これは典型的な平和ボケの事例だ。
勿論今から考えると仕方のないことではある。海外経験がなかった当時は尚更だ。または若さゆえとな
しかし、”万が一”の確率が日本よりもロシアのほうが高いことは明らかだ。なんせ、飛行機は撃墜されるわ、僕が派遣予定の町の隣町では前年自爆テロが起きるわでてんやわんや。けれどそれまでの僕は、事実、住む予定の地域は危険であるのにも関わらず、どこか「でも自分は大丈夫」という精神にすがってしまう、そんな典型的な風土病を患っていた。ダメだこりゃ(by 勝間
そんな平和ボケ息子にお灸を据えたのが親父の一手「ピッコロ保険」
大人って現実的なのね。
でも今思うと、そのような大人がいてくれたからこそ、僕はロシアに行くことができたし日本に帰ってくることができた。残酷だけどこの親父の一手は、地に足のついた大人の対応ってやつを痛感した出来事であった。
理想論よりもなによりもまず
十代で一人で海外に飛び込んでいく、それは非常に魅力的である一方で、未熟さ故に潜む罠もいっーーぱいある(今後書けたらいいな)
なによりもまず大切なことは、
己の命に対して真剣になれるか。
留学だけじゃない。一人暮らしでも、転職でも人生いつだって選択と自分の命が隣り合わせの時はある。上記の言葉を換言すると、
自分の選択に責任をとれるかということ
大袈裟に聞こえるけど、出発点の意志の強さがその後のモチベーションを左右することもあるんですYO!
私はリスクを背負っても~を行うんだ!その意力さえあれば、あとはどんどん理想や夢をその無限大の胸に詰め込んでいけばいい。僕はその点真剣味に欠けていた。出発を3週間前にしてのことだ。
けれども、真剣に考えた。考えれば考えるほどそこには行く理由のほうが圧倒的に多く、行かない理由なんて万が一の生命の危険という項目しかなかった!
改めて出発することを決意した時、そこに迷いはなく何か薄くだが道筋が眼前に現れ始めた。
その1日2日の出来事が、その後自分の選択する際の考え方、心構えの種となり芽となっていくとはね
責任はとれるか、とれるならどう全力でやりきるか。 今日までの自分の生き方の道しるべとなったピッコロ保険事件であった。チャンチャンっ
まとめ
今回は出発前にあった心境の変化について書いてみました。自分口下手なんで分かりづらかったかもと配慮しまして、要点を以下にまとめると、ダダン
そんなことがあった留学前、その後どんなことが起こるかつゆしらずパッキングへと励む二週間を過ごしいざ留学へ、という感じでした!
また、大人に反抗的な時期ではあったけど、大切な気付きを得れたとき、その時には必ず大人がいた。反抗期真っ最中の諸君、大人が言う耳に痛い言葉や、ふと大人の口からでた言葉、ぜひ反芻してみてね!
ながくなってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。今後は留学のことも書きつつ今の近況とかネタにできそうなら書いていきたいっす