【読み物】サラリーマンバックパッカー
【前書き】
この物語の主人公は私です。
私がサラリーマン生活を通じて体験した事をそのままだったり、かなり大げさに脚色したりしているフィクション作品で、主人公が訪れる国・地域・場所については、実際に行った場所をメインに描いています。
なお主人公は、一部法に触れそうな行動を取る場合もありますが、そこは大げさに脚色している部分です。ご安心ください。
あと、これまでに投稿した育児関連の記事とは違い、サラリーマンである主人公が仕事での困難を乗り越えたり、乗り越えられなかったり、私生活での格好悪い描写が多い残念な物語になります。
退屈で仕方のない方だけ読んでください。
(前半と後半があります。後半は有料ですが、前編に引き続き、算数ドリルを買った方がマシな内容です。購入される方はご容赦ください。)
1 アメリカ赴任(2013年)
2013年1月某日。
私の顔の5センチ先に、鬼の顔があった。
忠村「会社潰してぇのか!おまえはよぉ!」
さて、今しがた『鬼』に、いや、忠村経営企画部長に恫喝されたのは私、武田隆。某自動車部品メーカーの経営企画部で働く30歳独身サラリーマン。主な仕事は、会社の損益分析と原価計算だ。
我が経営企画部は、責任の重い仕事が多い。そのため、役員から直接厳しい叱責を受けることも多々あり、配属される人は次々と退職してしまう。その様な環境の中で私は働いていた。
ただ、経営企画部では貴重な経験もできる。というのも、海外子会社の改善活動を監督しに海外へ出張する事もあるのだ。私の担当は上海。出張のついでに街歩きなどをするのが最近の楽しみになっていた。
だが仕事自体は決して楽なものではない。特に原価計算という仕事は非常に恐ろしく、見積原価を1円間違うだけで会社に何億もの損失を発生させてしまうことだってあるのだ。
まさに、この度私が怒鳴られていた理由がこれに当たる。私の部下が1個12.80円の部品を11.80円と算出して顧客に流れてしまったのであった。
忠村「今日中に『なぜなぜ分析』をして報告しろ!」
私「は、はい。すぐに用意します。」
『なぜなぜ分析』、それはいつも私を苦しめていた対策書の一種である。なぜ不良が発生したのか、それはなぜか、さらにそれはなぜか、といった具合に、不良発生の真の原因を追究していく品質改善の手法だ。経営企画部や総務部などの間接部門でも、誤りを載せた資料を他人に提供していれば、それは『不良品の流出』とみなされる。そして、『なぜなぜ分析』を強制されるのだった。
こうして、私は何から手を付けようか、腕を組みながら考えていたところ、たった今私を怒鳴りつけたばかりの忠村部長が私を会議室へと呼んだ。
忠村「武田、チョット来い!」
私「は、はい。」
嫌な予感がする。というのも、何の前触れも無しに一人だけ会議室に呼ばれるのは、慣例的に異動の内示である可能性が高いのだ。そして、管理会計の仕事をする私の場合、行先は海外子会社、直感的に中国子会社への出向だと覚悟した。
この時私はまだ30歳。そして独身。お金に多少の余裕ができ、年に3回ある長期連休を利用して、昔からの夢である『世界遺産100か所巡り』を少しずつ実現させていこうと思っていたところなのだが・・・。もし海外子会社に出向すると、連休どころか週休1日も危ういほど忙しい。今から、「年中仕事しろ。」と宣告されると思うと全身に緊張が走った。
そして、会議室に入るなり忠村部長はややかしこまって話し始めた。
忠村「オマエ、英語大丈夫か?」
私「(どういう意味だろう・・・)」
中国で仕事をする上では英語を使う事は少ない。何より、中国子会社の中国人管理職は全員日本語が話せる。また生活するうえでも、英語より日本語の方が通じるくらいだ。
そう思ったのもつかの間。
忠村「まぁいい。オマエ、アメリカ行ってこい。」
私「は、はい!」
上司に言われたことに対して「はい。」と即答するクセがついていたこともあり、二つ返事で答えた。
その後、私に課せられるミッションと期間が告げられた。
忠村「米国で原価計算の仕組みを作ってこい。期間は2年だ。」
忠村「あと、今現地にいる技術系の日本人を1人帰国させたいから、そいつが担当している簡単な仕事もとりあえず引き継いでくれ。」
内心安心していた。
これまでの知識と経験を存分に活かせるミッションだ。期間も短い。
翌朝8時、実家暮らしの私はまだ布団にくるまっている還暦を過ぎたばかりの両親に報告した。
私「おれ、アメリカに転勤することになったよ。」
それに対して反応した母は、
母「えぇー?なんでお前が?」
私「それは…で、できる男ってことなんだよ。」
母「・・・。中国じゃなくてよかったじゃない。」
どうやら母としては中国行きだと左遷、米国行きだと栄転のイメージらしい。いずれにせよ、非常にあっさりしたやり取りで両親に全てを伝えきる事ができた。恐らく、30過ぎの男がいつまでも実家にいないで欲しいという気持ちもあったのだろう。
もう一人、この事実を早急に伝えるべき人物がいる。それは、3年ほど交際をしてきた女性のアヤだ。さて彼女への報告に際し、添える言葉をどうするべきか。
「2年で帰ってくるから待っててくれ!」「結婚して一緒に付いてきてくれ!」のどちらかを伝える事になる。
実は以前から私は結婚に対する圧力を幾度となく掛けられていた。「友達がまた結婚するんだ。私はいつするのかな。」といった言葉を聞く度に、私は無言になっていた。ただ、キッカケさえあれば結婚自体はいつしてもいいとは思っていた。大抵の男はそう考えているのではないだろうか。そんな私にとってこの状況は都合が良いのかもしれない。
両親に報告した後、いったん冷静になるため二度寝をしてから彼女に電話をした。
私「大事な話があるんだ。今伝えたいからすぐ行くよ。」
アヤ「え?何?怖いんだけど。」
電話ではこのようなやり取りだけをして、アヤの家に赴いた。
家の前に停めた車の助手席にアヤが乗る。乗車内で緊張している我々。
やや沈黙した後、私は話を切り出した。
私「おれ、アメリカに転勤する事になったんだ。け、結婚して一緒に付いてきてく、くれる?」
アヤ「えっ?」
アヤは驚き5秒ほど沈黙した後にこう答えた。
アヤ「はい。よろしくお願いします。」
・・・結婚が決まった。
私はどうしてこんな一言がずっと言えなかったのか、なんだか滑稽に感じた。
出国日は二ヶ月半後の3月下旬。そのため、結婚式と披露宴の両方を執り行う時間はどうにも捻出できなかった。プロポーズの翌週には近所の寿司屋で両親顔合わせを行い、そこから3週間後両親と兄弟だけで『小さな結婚式』なるものを利用して式を挙げた。
この『小さな結婚式』、全国チェーンで少人数を専門としているブライダル企業で、コストパフォーマンスは最高だ。ドレスやタキシードの選択肢こそ少なかったが、大好きなGREEN DAYの曲を掛け、バージンロードを歩き、両親に向けた感謝の手紙を読み、翌日ドレスと和装で写真撮影をすることができ、なおかつ費用が40万円未満と安価なのである。スケジュールを考慮して選択した結婚式ではあったが、コストパフォーマンスが非常に高く、とても満足することができた。
しかし、彼女とその両親には若干申し訳ない気持ちになった。きっと娘のドレス姿、多くの人たちに見てもらいたかった事だろう。そして、今後ふとした時にこの事を思い出し、その度に私の心はギュッと締め付けられたような気持ちになる。それが、結婚のタイミングを自分で決められなかった私の罪と罰なのだ。彼女も彼女の家族も大切にしよう、そう思う結婚式となった。
転勤を言い渡されてから1か月後、私は都内のアメリカ大使館に来ていた。E-2ビザ、いわゆる就労ビザを取得するためだ。物々しい警備体制と、その影響による長蛇の列。どれくらいの時間並んだことだろう。やっと大使館に入ることができた。
米国大使館という未知の世界には、一体どのような景色が広がっているのか。期待が膨らむ。薄暗い入口を抜けると、そこに広がっていたのは・・・何と昔風の役所の窓口という印象だった。
ここで私は簡単な面接を受け、ビザ発給の判断がなされる事になる。問題はその面接。現地で担う仕事内容について、英語で質問されるというのだ。会社からその様に脅されていた私は、実は全くといっていいほど英語が話せない。そのため、そもそも質問が理解できない可能性さえある。結果として、ビザが下りず米国行きがここまできて取り止めになる可能性まであると本気で思っていた。
そしていよいよ私の番、準備していた英語の想定問答メモを片手に面接に臨んだ。
大使館職員「コンニチハー。オナマエヲオネガイシマース。」
私「ハ、ハロウ。ナイストゥー、あっ、あの。こ、こんにちは。」
突然の日本語に拍子抜けして、しどろもどろになった。英語での想定問答集を作成した時間を返してほしいものだ。
大使館職員「ゲンチデハ、ナンノオシゴトヲシマスカ?」
私「自動車部品のコストを下げるために原価計算の仕事をします。」
大使館職員「ゲンカケイサン?」
私「えーっと、マニュファクチュアリングコストかな。」
大使館職員「・・・ハイワカリマシタ。アリガトウゴザイマシターッ。」
私「あっ、ありがとうございました。」
恐らくこの職員、あまり理解はできていないであろう。それにしても会社が作ってくれた紹介状、結構なボリュームの英文だったが、これほど超大作の紹介状も必要なかったのではないだろうか。いや、逆にその紹介状があったおかげで面接が簡単だった可能性もあるのか。
結果として、あっけなく就労ビザを取得できた。
その2週間後。仕事を控えている私は、ひとまず妻を日本に残してアメリカ合衆国ウエストバージニア州へと旅立った。
そして問題は入国審査で起こった。
出張の時は「サイトシーン!」と言ったりして面倒を避けていたが、今回はビザを見せるので「ビジネス!」と言わざるを得ない。覚悟して、審査官の元へ向かう。
するといきなり審査官はこう言った。
入国審査官「紹介状はあるか?」
私は焦った。というのも、紹介状を預け荷物に入れてあり、入国しないと見せる事が出来なかったのだ。
私「えっ、預けた荷物の中です。」
入国審査官「ハァーッ。」(審査官が首を振りながらため息)
まさか、入国審査で必要だったとでも言うのだろうか。そのような事は、会社から聞かされてはいない。厳しい米国の入国審査。無事アメリカ合衆国の土を踏むことができるのだろうか。心臓が高鳴り始めたのがわかった。
私「すみません。紹介状は預けた荷物の中です。今見せる事が出来ません!後日持ってきます!」
焦った私を睨みつけながら、入国審査官はあからさまに怒っていた。
入国審査官「そんなの認められるはずがない。今見せるかどうかだ。」
ここまで来て米国へ入国できずに日本に帰されるなんて、恥ずかしくて誰にも言えない。大体、会社には何と言い訳すべきなのだろう。そのような事を考えながら、沈黙しながらPCを操作する入国審査官を30秒ほどじっと見ていた。
そしてその手は急に止まった。
その瞬間私は呼吸をするのを止め、聴覚に全神経を集中させた。
入国審査官「特別に今回は認める。次から気を付けなさい。」
入国審査官は、突如として入国を認めてくれたのだった。内心「なぜ入国しても良いと判断したのだろうか。」と疑問を持ったが、恐らくそれは日本人の信用力が活かされたのだろう。というのも、日本のパスポートは世界的に見ても最高ランクに位置する。2013年時点、日本が国として認めている195か国のうち、事前審査がほぼ不要でビザが取得できる国、ビザ不要で入国できる国は、計180国以上もある。日本という国は、我々が思っている以上に世界からの信用を得られている国なのだ。
そして私は無事米国に入国。シカゴ・オヘア国際空港の中ではあるがアメリカの大地を踏みしめた。ここからは国内線。リッチモンド国際空港へ向かうこととなる。
既に暗くなった遠くの空を見ながら、海外への思いを振り返っていた。
海外での生活は確かに憧れではある。しかし、米国に、しかも仕事目的で滞在するというのは正直なところ不安だった。というのも、中国と違い、米国への渡航歴がなかった私には米国子会社で頼れる人物がほぼいないのが現状だ。そして、英語の話せない私には米国人を頼るのも簡単ではない。さらに、日本との時差は13時間、本社の仲間に助けを求める事も容易ではないのだ。
その様な中、気概をもって遥々やってこれたのは、与えられたミッションに関する分野の経験や実績に自信があったからだだろう。不安な気持ちを紛らわすために、このような事を考えながら自分自身を鼓舞させていた。
現地に到着したのは午前4時。ウエストバージニア州にある田舎の空港は非常に閑散としていた。しかし、そこにはアメリカで私と入れ替わりで帰国する予定となっている技術部出身の鏑木さんが迎えに来てくれていた。
鏑木「はじめまして。」
こんな時間だと笑顔も作りにくいであろうが、彼は優しく微笑んでくれた。鏑木さんは弱冠28歳。アメリカ駐在は4年目になるベテランで、結婚もし、現地で子育てまでしているという自律した男である。本社でも有名なこの年下の男を突然目の当たりにして、私は少し緊張した。
というのも、もし迎えに来るとしても、それは別の人物だと思っていたからだ。その人物の名は村田、28歳男性。私の経営企画部時代の後輩である。彼には管理会計の基礎や原価計算の仕組みを教えた事もあり、曲がりなりにも私に義理があるはずなのだが、村田は基本的に頑張らない若者であり、こんな朝早くに迎えに来るはずもないのであった。
対する鏑木さんは、私とは初対面にも関わらず、このような時間に空港まで来てくれており、さらに腰は低く柔らかい口調で私の心を和ませてくれたのだった。
そして彼は、会社が用意してくれたアパートまで私を送り届けるだけでなく、数時間休んだ後買い物に連れて行ってくれるという。疲れた体に染み渡る優しさだ。
アパートに到着した私は、さっそく何もない部屋でゴロッと横になり、カバンを枕にしながら外でフクロウが鳴くのをそっと聞いていた。他に物音一つしない田舎のアパート暮らしをスタートさせた私は、若干の寂しさを感じながら、朝方ゆっくりと眠りについたのだった。
その数時間後、間違いなく睡眠不足に陥っている鏑木さんは、何も持たない私のために親切にも買い物へと連れ出してくれた。
この日は土曜日。ショッピングセンターやフードセンターなどは非常に賑わっており、我々も『フードライオン』なるスーパーに立ち寄る事とした。ここでの私の目的は納豆を入手する事。
しかし・・・、想定していた通り販売されていなかった。
その代わりという訳ではないが、バケツ程の容器に入ったマーガリンやアイスが並んでいた。アメリカサイズ、桁違いだ。
その後鏑木さんは、納豆を発見できなかった私のために、小さな個人商店に立ち寄ってくれた。陳列されている商品を見渡すと日本の食材ばかりである。おそらく日本人駐在者向けに特化したサービス形態でニッチを独占しているのだろう。ひとまずおかめ納豆を発見し値札が付いていなかった事から、店のマスターに値段を聞いてみた。
私「こんにちは。日本の食材、たくさん揃ってますね。」
マスター「君たち日本人の事を想って用意してるんだ。誰だって故郷の味は恋しいもんだからね。」
私「そうですね。あっ、1つ教えてほしい事があるんですが、この納豆は1ついくらですか?」
マスター「それは3.5ドルだよ。」
私「ホ、ホワット?」
マスター「3.5ドルだ。」
私「・・・。ありがとう。参考になりました。」
市場を独占しているからなのか、値段が高い。日本の3倍以上だ。しかし、付近の日本人駐在者は皆この価格で納豆を購入しているのだという。その様な中、私はまだ日本食が恋しいとは感じていなかった事から、現地の安い冷凍食品ばかりを選んで購入した。
ちなみに、日本から海外へ駐在員を出す会社では、日本食や雑誌などを提供している通販サービス会社と提携している場合が多い。そして送料も会社が負担してくれるのが一般的だ。しかし、当然のことながらその価格は日本で購入するよりも高いのだ。私も同様のサービスを利用することはできたが、貧乏性ということもあり、利用せずに2年を過ごすつもりでいた。
この日の夕方、私は他の日本人出向者達を紹介してもらい、その中の一人が私を含む6名をアパートに泊めてくれる事となった。聞くところによると、このアパートの家賃は日本円で10万円以上との事。ただ値段の割に建付けが悪く、壁と床の間に「バッタ」も入れるほどの隙間がいくつも空いていた。実は私も中級層が住む家賃10万円以上のアパートに住ませてもらっているが、窓を閉めてもハエが入れる程の隙間ができる。どうやら日本とは建物に対する価値観がまるで違う様だ。
その後、アメリカのキッチンにはポピュラーな「オーブン」を使って、買ってきた冷凍ピザをこんがりと焼き、夕食会が始まった。しかし私は渡米1日目。言い出せなかったが、時差ボケで非常に眠かった。というのも日本との時差13時間。私は前日のフライトで日本からここへ来たばかりなのだ。しかし、1人帰る訳にもいかず、夕方6時から朝方まで飲みながら現地での生活について話を聞かせてもらうこととした。
そして夜も23時を回った頃。
先輩駐在者A「こんな田舎だけどストリップが見れるバーがあるんだ。」
一瞬で眠気が吹き飛んだ。東海岸の田舎という事もあり、この類の刺激は無いものと思っていたが、思いがけず耳よりな情報を入手することができた。
私「ど、どの辺りにあるんですか?おいくらですか?」
先輩駐在者A「入場料は20ドル。あとは酒をその都度カウンターで買って飲むのさ。」
鏑木さん「みんな1度は行きますよね。武田さんも行ってみるといいですよ。」
私「あ、いや私はそんなんじゃないですから。」
私は意味の分からない受け答えをする程度に興奮していた。しかし、興奮よりも眠気に負け、その後すぐに雑魚寝で眠りについたのだった。
そしてその翌日、いよいよ初出勤。鏑木さんに送迎してもらい、初めて米国子会社を目の当たりにした。
私「(・・・案外小さいんだなぁ。)」
これが第一印象だった。というのも、製造している製品の種類は少なく、工程もそれほど複雑ではないからなのだ。しかし、色々な肌や髪型の人が仕事をしており、中にはボブマーリーの様なヘアスタイルでヒップホップの動きをしながら生産ラインについている黒人がいたりと、まさに中学校で習った「人種のるつぼ」という表現がふさわしい、アジアとの違いを強く感じた光景だった。本当に世界は広い。
そして、始業時刻寸前に私の上司になる女性が出勤してきた。信じられない程の巨尻女性だ。彼女は最高の笑顔で私に声をかけてきた。
サンディ「初めまして。私はサンディ。よろしくね。あ、ジーパンはダメよ。それは作業者が着用するものだから、私達と彼らは違うの。いいわね?」
私はこの日ジーパンで出社していた。というのも、私は勝手ながらアメリカ人が皆ジーパン好きで、違和感なく皆に溶け込めると思ったからだ。しかし、日本人が思うよりアメリカ人はジーパンに何かしらの意味を感じている様子であった。アメリカ東部、保守派の多い地域性もあるかもしれない。
その翌日、私は1人ワシントンに来ていた。理由は、社会保障番号を取得する際に提出する証明書をもらうためだ。
道中私は不安だった。というのも、英語も大して話せない私が、片道400キロ超の道のりを一人で、しかも左ハンドルの社有車を運転していたからだ。
道中、ウインカーとワイパーを39回間違えた。
事故を起こした場合の対処を想像すると恐ろしかったが、そのような緊張感を常時持っていた事もあり、なんとか無事目的地にたどり着くことができた。
首都ワシントン。想像に反して非常に美しい街である。具体的に言うと、建造物の高さはパリ同様に制限が設けられており、首都とは思えない程に上品かつコンパクト、そして色々な文化の匂いが漂っていた。内心、スミソニアン博物館や日本食材の豊富なHマートなど行こうかとも思ったが、用件が済み次第、すぐ会社に戻る様指示されていたため、泣く泣くこの日はとんぼ返りすることとなった。
私「(今度は休日に自分の車で来よう。)」
その後私を待ち受けている過酷な運命も知らずにそう思ったのだった。
翌日、本格的に仕事を開始することとなった。まずは鏑木さんの業務を引き継ぐところからスタートである。だが、私は引き継ぎを受けながら大きな違和感を感じていた。というのも、技術部出身である鏑木さんの仕事を引き継いでいたのだが、
鏑木「この仕様を満たすために、こう溝を付けてラジアルを・・・」
彼の話は文系の私にとって断片的にさえも理解できなかった。何が分からないのか分からず、質問することさえもできない状況なのである。確かに本社では、現地に駐在している日本人の仕事を引き継ぐよう言われていたが、「物理有識者」かつ「図面の読み書き」ができなくては務まらない内容だとは一言も聞いていない。しかし、熱心に教えてくれる彼にいったん耳を傾け、出来るところまで学んでみる事にした。私は次第に知恵熱が出てきているのを感じていた。
週末、私はFordのディーラーに来ていた。中古車を買うのだ。実は、アメリカの郊外は歩道のない場所ばかりで、路肩を歩こうにも時速100キロ位で走行する車も多く大変危険なのだ。私の住んでいるアパート周辺も車生活前提で街づくりがなされており、徒歩での生活は考えられない。
仕事が順調とは言えない私ではあるが、この時ばかりは気持ちが昂ぶっていた。なにせ日本にいる時からどの車種がいくらで売っているのか、近辺の中古車販売店のHPを片っ端から調べ尽くしていたくらいである。
それもそのはず、日本では維持費を払えないほど排気量の大きい外車に乗れる良い機会になるからだ。アメリカでは自動車税や車検といった車の維持費がほとんど掛からない。その様な理由から、実際にビッグサイズの車を所有している日本人駐在者は非常に多かった。話は逸れるが、日本では当たり前に加入する自動車保険にさえ入らない人も一定数いるというのには驚いた。
ここで数台試乗したが、実は日本にいる時から乗りたい車は決まっていた。黒のBMW535iだ。価格は日本円で約200万円ほど。既に15万キロほど走行していたが、アメリカの中古車は、どれもこれも走行距離15万キロを超えたものばかりであり、それほど気にはならなかった。また、売却時についても、走行距離によってそれほど値崩れがないことから、人気のあるBMWは短期駐在の私にとって適した自動車であると言える。
ちなみにセールスマンからは、「トヨタRAV4やカムリもいいぞ」と勧められた。ただ、日本車は丈夫で壊れにくいことから人気が高く、結果として非常に高価となり、日本で40~50万円程で買える中古車が200万円も出さないと買う事ができないのだ。日本人としてうれしく思う反面、アメリカまで来ておきながら、高い金を払って日本車を買う気にはならなかった。
購入車種を決めた私は、さっそく北米系金融機関SUNTRUST BANKの口座を開設した際に受け取った真新しい小切手を使って、BMWの支払いを行う事にした。この日のために練習を重ねた筆記体のサインを今ここで披露するのだ。
(サラサラサラッ。)
小切手と契約書には、ミミズが這った様な独特のサインが残った。内心、これはさすがに書き直しを求められるかと思ったが、特に指摘はなかった。
納車については、『タイトル』と呼ばれる、日本で言うところのナンバープレートを入手でき次第となり、それまでにディーラーが点検を完了させるという流れを取ることにした。
早くこの広い大地でBMWをかっ飛ばし、Mr.BigのTake Coverを聞きたい、そんな小さな夢を密かに叶えよう、そのためにも月曜日からまた気合を入れて仕事をしようと思った。
そして渡米三週目の月曜日、私は体調不良に陥った。また理解の及ばない話を聞き、それを自分の仕事として受け入れなければならない事を考えると吐き気がしたのだ。しかし、これまでの人生幾度となく困難を乗り切ってきた自信もあったためか、この1週間も前向きに学習しながら、夜は自宅で1日百通ほど受信する原価計算に関する英文メールをチェックし、自分が返信すべき10件程度について、慣れない英文で返信する、そんな作業を夜24時位まで行っていた。週末には、少し眩暈を感じ始めていた。
その週末、私の歓迎会が催された。しかし、来ているのは日本人だけ。米国人はディナーと称する飲み会を開催して、職場の仲間と懇親を深めるという文化は無いらしい。(米国ではもっぱらランチがその役割を果たす。)この時、私はアメリカらしく大きなステーキでも出てくるかと思ったが、オーガニックの野菜料理やスープが中心で、あとは若干のスペアリブが出てくる程度だった。しかし、体調不良が続いている私にはちょうどよく、何とか食べきることができた。
そして結局私は周りと会話する気力がわかず、しばらく止めていた煙草を買い、何度も外に煙草を吸いに行ったり、またはトイレに行ったりと、誰にも関わらない様に時間を潰した。無能な自分に優しい言葉をかけてくれる同僚の顔を見るのが辛かったのである。
私「(海外赴任で自殺って多いのかなぁ・・・。)」
実は、日本人が海外で亡くなるのは、年間5百人程度。うち、自殺は50人程度。(外務省「H24海外邦人援護統計」)在外邦人は120万人~130万人もいることから、海外で自殺する人の割合は、決して高くはない。
しかし、国内で既にでき上がったコミュニティに身を置く人に比して、海外で孤独や疲労と戦っている人のストレスは質が違うものを感じた。端的に言うと、気持ちの逃げ場が無いのである。
日本にいて会社で嫌なことがあっても、「もう会社行くのやめようかな。」と逃げの精神で自分を慰めながら会社に行くことが何度もあったが、海外にいると、自分の存在が会社に行くことで初めて確かなものとされている感覚に陥るのだ。つまり異国の地では「もう会社行くのやめようかな。」という発想になれないのだ。
このように、私の思考は芳しくない方を向いていたのだった。
その翌週、北米大手自動車メーカーと電話会議を行った。当然会議は英語で進められる。私は鏑木さんに翻訳してもらいながら話だけ聞いていたが、日本語でも全く理解できないものを、今後英語で顧客とやり取りしなければならない、その現実を目の前にしてついに心が折れてしまった。
会議後、周囲からの声掛けにも反応できなくなり、私はもぬけの殻の様になった。そして、その3日後、白山社長が私を心配して声を掛けてきた。
白山「大丈夫か?帰国するか?」
私は白山社長からの問いかけに対して、
私「限界です・・・。でも帰りたくありません。」
と、本音交じりで訳の分からない回答をしたところ、白山社長は少しイラッとした顔をした。評判の良い社長だったこともあり、そのような人が自分に冷たい態度を取ることに悲しさを感じた。そして、仕事を理解できかった責任は自分にあるんだ、そう思い込んでしまう要因にもなってしまった。
その後、数日にわたり白山社長は私と面談をした。その場面で私は、何度も「私には仕事の内容が全く理解できそうにない。」と伝えると、白山社長はこう返した。
白山「考えが甘い!」「死ぬ気で頑張れ!」「言い訳するな!」
およそブラック企業の発想である。私の心の中では、「じゃあ給与の高い理系学生の採用を辞めて、文系学生だけ採用して対応してみろよ!」「自分だって日本で時間を掛けて基礎を学ばせてくれていたらもう少しできたはずだ!」と思っていたが、言わなかった。何を言っても「言い訳するな」と返される。そして立場が上の人間が下の人間を黙らせる魔法の言葉が次々と繰り出されるのだ。
こうして、生産性のある会話にならないことが目に見えているため、説教に対する時短機能として沈黙が一番効率的なのだと私は知っていた。
その後、私は毎日罵声を浴び続けることとなる。その度に私は会社に対して、そして生きていることに嫌気が差してきた。
これまで私は、どれだけ無茶な会社の要求もこなしてきたつもりだ。どんな責任の重い仕事でも潰れずに乗り切る自信もあった。しかし、どれだけ精神力があっても、毎日未知の分野の話を聞き、罵声を浴び、頼る人もいない環境では、誰でも弱ってしまう。「もう楽になりたい。」そう思っていた頃、鏑木さんは私にこう告げた。
鏑木「少し無茶な引き継ぎじゃないかとは思っていたんです。」
その一言がとても嬉しく、生きる希望が一気に湧いた。自分の能力と与えられた仕事のミスマッチは、私だけが感じているものではなかったということだ。ちょっとした一言がこれほどまでに温かく、そして頼もしく感じたことはなかった。欲しい言葉一つで人の精神力を回復させることができる、そんな事を身をもって学んだ。
ただ、彼も帰国しなくてはならず、会社の指示に従って引き継ぎを行わざるを得ないのであった。
結果として状況は何も変わってはいない。そんな状態の私を長らく支えてくれていたのは、結婚したばかりの妻の存在だった。実は、心配かけないよう妻に具体的な事は何も伝えていなかったのだが、ある時電話でのぎこちない会話、長い沈黙で私の様子がおかしいという事に気づいた様子だった。そして妻は、電話で私にこう告げた。
妻「今から様子見にそっちに行く!」
着の身着のまま、妻は私の元へ来ようとしている様子だった。放っておくと自殺するとでも思ったのだろうか。
私「全然大丈夫。元気だから。」
と、私は妻が来る事に反対した。というのも、既に私はこの先の事、そしてお金の事を考えていたのだった。『この先』とは、次のようなシナリオだ。
私は日本に帰され、工場の製造ラインへ異動になる。そして、椎間板ヘルニアを患っている私の体が再起不能に陥った頃、会社から退職を勧奨され、やむを得ず受け入れて私は職を失する事になるのだ。
この手詰まり状態を回避するため、私は帰国後直ちに転職活動を開始する。
仮にすぐ転職が成功したとして、転職先から賞与を満額受け取れるのは約1年後。その時に備えて、今から少しでもキャッシュを残しておけるような行動へと舵を切る必要がある。よって、妻には申し訳ないが、渡米せずそのお金は貯蓄に回してほしい、というのが「全然大丈夫。元気だから。」に含まれる本音なのであった。
しかし、お金の話で忘れてはならないのが、購入したばかりのBMWの事だ。これほどまでに納車が待ち遠しくないのは初めての経験だ。念のため購入をキャンセルできるかディーラーに確認したが、やはり出来ないとの回答だった。
渡米から3週目の土曜日、私はBMWのオーナーとなるため、後輩の村田と共に車を引き取りに行った。
事務所の前にはピカピカと黒光りしているBMWが私を待ち構えていた。
営業マンは私を見つけるなりこう言った。
営業マン「さぁ、今からお前はこのクルマのオーナーだぞ!」
私の状況を知る由もない販売員。こちらを見てニヤニヤしている。私は「人の気持ちも知らずにニヤニヤしやがって!」とも思ったが、普通の人には『ニヤニヤ』ではなく『ニコニコ』と見えるのだろう。気持ちが荒むと、同じものでも見え方が違うのだ。そんな気持ちを抑えつつ、BMWのエンブレムが埋め込まれたキーを受け取った。その瞬間、頭の中にある風景がよぎった。
場面は合コン。私はLUIGI BORRELLIのシャツを着こなし、胸ポケットからBMWのエンブレムが目立つようキーを出している。
妄想上の女性1「今度ドライブに連れて行ってください。」
妄想上の女性2「えーっ、ズルい。私も!」
妄想上の私「仕方のない子達なんだから。もう。」
その時である。
私「(そんな妄想に浸っていられる状況にないんだ!しっかりしろ!)」
自分に喝を入れて何とか我に返る。
そして周りを見渡すと、スタッフが数人と村井が、魂の抜けていた私をじっと見ていた。
黙って妄想しているところを見られた恥ずかしさはあったが、一応格好よくこの場を去りたいという気持ちも捨てきれない。そこで、とりあえず私は柄にもなくスタッフ達に右手で『GOOD』サインを出して颯爽とBMWに乗り込もうとした。すると・・・
『ゴツン!』
勢い余って私はドア枠に頭を殴打した。ここまで醜態を晒すと、格好悪いどころか最早気味の悪い日本人にみられている事だろう。
しかし、この程度の事は日常茶飯事。すぐにこの場を去ってしまえばリセットできるレベルの精神的ダメージでしかない。
殴打した箇所は死ぬほど痛かったが、私は表情一つ変えず、ギアをパーキングからドライブへ切り替えようとした。
その時。
視界の端で私のズボンのチャックが全開だった事実を捉えた。
私「(いつから・・・。)」
その瞬間私の精神は崩壊し、意識が遠のき、身体の力が抜け、足がアクセルを深く沈め込んだ。
「ドゥーブォーン」
その地響きの様なエンジン音により意識は瞬時に回復。私はエンジン音に救われたのだ。そして、気付けば村田はちゃっかりと助手席に座っていた。
私「(すごい!エンジン音からして高級だ!)」
そう心の中だけで呟き、BMWは進み始める。良い滑り出しだ。
自分のアパートに向かって軽快に走り、5分が経過した頃。信号待ちをして、再び発進しようとしたその時だった。
「ガタガタガタッ・・・」
オートマチック車にも関わらずエンストした。私は村田に、「外車ってオートマでもエンストするのかな?」と言いながら再びエンジンを掛けようとするも、「キュルルルル」とセルモーターが空回りするだけで、一向にエンジンは掛からなかった。
後ろを見ると10台程の車が列をなしており、私はパニックに陥った。
後輩の村田に情けない声で、
私「ヤバいよこれ。どうしよう。アメリカにJAFあるの?」
と聞いたが、村田は何故か大爆笑。私は腹を立てる余裕もなく、今度はアクセルを踏みながらエンジンスタートを試みた。
「ドゥーブォーン」
エンジンが掛かった。
その後信号で停止することはなく、何とかアパートまで帰ることができた。
「ハァー・・」
安堵と不安と疲労のため息が漏れた。買った車が、家にたどり着く前に壊れたのだ。当然だろう。
村田が車を降り、私も車から降りようとした瞬間、AT&Tで買ったばかりの私の携帯電話に珍しく着信があった。本社からだ。電話に出ると、私にアメリカ行きを命じた忠村経営企画部長の声が聞こえてきた。
忠村「ビーエムの調子はどうだ?」
今の状況を見ていたかの様なタイミングだ。そして、これから大事な話になる、私はそう察した。今まさに話題性十分な出来事が起きていたことから、その事実を話してみるか一瞬迷ったが、私はひとまず「ええまぁ」と軽く返事をするに留めた。
忠村「そうかぁ。おまえよぉ・・・もうよぉ・・・。」
忠村「・・・帰国しろ。」
忠村部長は思ったことを直接伝えるタイプであるが、今回は少し言いにくそうにこう切り出した。
私「は、はい。」
私は、出向を命じられた時と同様に答えた。
そして忠村部長は続けた。
忠村「経営企画部には戻せないぞ。分かってるな?その上で聞く。配属先の希望を言え。」
意外な展開だった。会社が私をこの様なポジションに出向させた事に対する謝罪の意味なのか。または、その他の意図があるのか。いずれにしても、私の答え次第で私の運命は大きく変わる。そう思った。
私「少し時間を下さい。」
私はひとまず猶予をもらう事とした。
私はすぐに妻へこの事を伝えた。それに対して、アメリカ生活を心から楽しみにしていた妻の第一声は「よかったー。無事に帰ってきてね!」と、私の事を第一に考えた言葉だった。
結婚した直後から心配ばかり掛けて、終いにはこの様な結果になってしまい、私は妻に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。そしてこの先の夫婦生活、一生妻に頭が上がらないだろうが、もはやそれも本望である。
それと同時に、この先日本に戻ってどのツラ下げて出勤したらいいのか、1番自分が傷つかない方法を考え始めた。というのも、アメリカ行きの公示が出た後、沢山の人が私に惜別の声を掛けてくれたのが、私の心を押し潰していたのだ。
そのため、帰国後すぐに退職することも考えていたが、妻とその家族に心配を掛けないようにするため、転職先が決まるまで目立たない様にキッチリ働こうと決めた。
1番自分が傷つかない方法とは何か。
それは会社内で知り合いに合わないことだった。私を知る人がいない場所で静かに時間が経過するのを待ち、ほとぼりを冷ますのだ。このようにして、出来るだけ会社の敷地の端の目立たない所で事務作業でもして働くのが、現時点で自分のメンタルを安定させる最良の方法であると判断した。
結果、私は仕事内容ではなく場所的要素から技術部の製品開発部門を配属希望として上申する事にした。
さっそく翌朝、忠村部長に電話をかけ、希望を伝えると、「それしか無いよな。」との返答。
忠村部長の話を聞く限り、私が原価計算の仕組みを製造技術の成り立ちから理解し、さらには今回アメリカで引き継げなかった部分の知識を身に着けたい、そんな前向きな事を考えたと思ったらしい。
その理由であれば自分の希望も叶い、会社で無下に扱われることもないと考えられるため、その勘違いは正さず放っておくこととした。
帰国が決まってからの生活は妙に楽しかった。と言っても、ドライブや飲み会、ショッピングモール巡りなど、日本でも出来るような事ばかりの生活である。おそらく精神的な安定が気持ちを昂ぶらせたのだと思う。帰国後の事は一旦置いておき、生きている事を心の底から楽しんだ。
ただ私の中でクリアしなければならない課題が二つあった。
一つ目は車をどう処分するかだ。まずはこの様な車を売りつけたディーラーに修理させ、帰国まで乗った後、引き取らせる、これがベストな対処だ。
二つ目はストリップバーに行きたいということだ。
一緒に行ってくれる人は誰か。私には今このような話をできる程打ち解けている仲間が村田と鏑木さんの二人しかいない。しかし、既に私は沢山の人に迷惑を掛けている。
そんな自分が、「あのぅ、ストリップに連れて行ってくれませんかぁ?えへへ。」というフザけた話題を持ちかけるのは、どれほど気心知れた相手であっても気が引ける。よって、成行でこの話題になるのを待つしかない。
さて、まずは一つ目の課題だ。私は車の販売員の名刺を見てメールを送ってみた。
私が送信したメール「車が故障した。無償で直してくれ。当然だろう、買って家にたどり着く前に壊れたのだから。または引き取れ。」
これに対してすぐに返事があった。
営業マンから受信したメール「契約書には現状で渡すと書いてある。直さないし引き取りもしない。」
価格を査定する前に引き取りを拒否している辺り、故障していることを知ってて販売したのがうかがえる。アメリカというのは想像以上に恐ろしいところなのかもしれない。ディーラーでもこの対応だ。本当に文句があるなら訴訟してくれたらいい、その程度にしか考えていないのだ。
だがこれは至極合理的な発想でもある。いちいちクレーム対応で心をすり減らして時間を無駄にする事はない。訴訟は弁護士に任せておけばいいのだ。
と、感心したところで、私には訴訟をするほどの時間は残されていないし、英語力もないし、カネもない。
困り果てて、鏑木さんに相談していたところ、パーテーションを挟んで隣に座っている現地採用の日本人、ミカさん(推定45歳?)から声を掛けられた。
ミカ「英語に自信がないなら、私が直接行って交渉の通訳してあげようか?」
仕事の内容が全く違うこともあって、これまで一度も関わりを持つ事はなかったが、窮地に陥った私を哀れに思い、手助けをしてくれるというのだ。
さっそく渡米から4週目の土曜日の朝、恐る恐るBMWのエンジンを掛けてディーラーに向かおうとした。
その時。
キュルルル、キュルルル。
エンジンが掛からない。これではディーラーに車を持っていく事さえできない。私はミカさんに電話をした。
私「エンジンが掛からなくてディーラーに車を持っていけそうにありません。」
そう伝えると、
ミカ「うーん、それでも交渉だけしてみようか。とりあえず今から迎えに行くね。」
と頼もしい一言が返ってきた。
迎えに来てくれたミカさんが乗っていたその車の名は『トヨタカローラ』。どうやら現地に長くいると、日本人でも故障の少ない日本車に乗りたくなるようだ。思い起こせば駐在員でも長期滞在者は日本車が多かった。もし次回このような機会があれば迷わず日本車にしよう、そう思った。
さっそくディーラーで販売員を呼び出し交渉開始。
迷わず即座に買取を申し出た。が、他に持って行ってくれの一点張り。理由は「うちでは必要のない車種なんだ。」と販売したクセにつじつまの合わない事を言い出す始末。結局裁判しかない、それが結論だった。あっさりしている。
ミカ「じゃ、私の知ってるお店に行ってみよう。」
途方に暮れる間もなく、ミカさんは自分の車を買った小さな中古車店へ私を連れて行ってくれた。狭い店の入り口から、ハルクホーガンの様な店長が顔を出す。
ハルク店長「やあミカ、元気かい?車を探しているのかい?」
ミカ「実は買い取って欲しい車があるんだけど見てもらえない?」
ハルク店長「OK!車を見に行こう。」
とさっそく私の故障したBMWを査定しに行ってくれた。
約2時間後、査定結果が出た。
ハルク店長「車に積んであった書類を見る限り、君の前の持ち主はニューヨークのブルックリンに住んでいた様だね。きっとリッチマンが乗っていたんだろうね。」
と、少し勿体つけながら話し始めた。
ハルク店長「君が数週間前に買った価格は$18,000だったね。それはぼったくりだ。故障部分が多すぎて、部品を取る以外に使い道は無いよ。もし僕がこの車を買い取るとしたら、ミカの友達だし、$9,000までなら出せるかな。どうする?」
私は安心した。まずは車を処分できる。そしてゴミ同然ではなく、一応商品価値はあったのだ。時間が無い中での最良の結果を得られたと思う。
私「ありがとうございます。買い取ってください。」
私は彼を信頼して即座に決断した。
手続きも全てミカさんが手伝ってくれたこともあり、スムーズに完了させることができた。
私はお礼を申し出たが、ミカさんは「社長になって戻ってきてくれればいいよ!」と冗談を飛ばし、ディナーをご馳走することさえも不要と断られた。
そして渡米から4週間経った4月23日、私の帰国日は決まった。
5日後の4月28日、日本で言うところのゴールデンウィークだ。いよいよ引っ越し準備に入らなければならない。とは言っても、家財道具はまだ船で太平洋を横断しているところであり、また新しい家具なども何一つ購入していなかったため、溜りに溜まったゴミを捨てる程度だった。楽な引っ越しだとは思いつつも、改めて自分の短い米国生活を思い出してみると悲惨な状況だったことに気が付く。
布団もない。買いに行く時間もない。買い物に行くための車もない。さらに言えば、買いに行く精神力もない状態に追いやられていたのだ。たったの一ヶ月弱で心がこんなにボロボロになれるものかと身を持って知ることができた米国生活であった。
帰国前に米人を含む同僚達とランチに出かけた。行先は、西部劇に出てきそうなバーガーショップ。板張りの両開きドアが印象的だった。私の車の事が話題に上った。
同僚の一人「おまえの車、壊れたんだってな。車種はなんだったんだ?」
私「BMW5シリーズですよ。」
同僚の一人「なぜ日本人なのに日本車にしないんだ。故障しない最高の自動車メーカーばかりだろ?」
真顔で突っ込みが入った。日本にいると日本車がスタンダードということもあって、その素晴らしさはわからない。そのような話をしながら食事をしていたところ、製造現場の責任者であるジョーの携帯電話が鳴った。
ジョー「はい。え?スカンクが工場に侵入?わかった。ひとまず戻るよ。」
なぜスカンクが侵入した事で騒ぎになるんだろう、そう思っていたところ、鏑木さんはこう教えてくれた。
鏑木「スカンクは敵に臭い液を放つんですよ。もし工場内で興奮させたらその液が飛び散って、その日は工場を停止させなくてはならない、それ位ひどい匂いなんですよ。」
不謹慎ではあるが、私はスカンクを見るためにジョーと一緒に会社へ戻った。しかし、私が会社に到着した時にはもうスカンクはおらず、代わりに安堵の表情で腕を組んだ白山社長が工場出入口シャッター付近に立っていた。
白山「おう、武田か。今スカンクのやつが工場に侵入してたんだ。危ないところだった。今あいつにやられたら納品間に合わないからな。」
私「そんなにすごいんですか。」
白山「まぁな。そうだ、お前帰国前に飯でも行くか。」
意外な展開だった。白山社長には、完全に嫌われていたものと思っていたが、この日の夜、思いがけずディナーを共にする事となり、鏑木さんに運転手をお願いしつつ3人で食事をすることとなった。
白山社長に連れられて、たどり着いた先は日本人が店長・経営者をしている海鮮焼きの高級店。
私「(これは今日の手持ちでは払えないかも。)」
そう思いながらドキドキしながら暖簾をくぐる。
すると一人の日本人がカウンターの向こうから白山社長に挨拶をした。
海鮮焼き屋の店長「おっ、白山さん。久しぶりだね!」
白山「おう店長。お任せで3人前頼むわ。」
軽く挨拶と注文を済ませ、我々はカウンターに並んで座った。
目の前にはキンキンに冷えたグラスに日本のビールが注がれる。ここは内装も食事も匂いも日本そのものだ。長期滞在していると、このような和風に和食の誂えた光景をたまに見たくなるのだろう。多少の安心感に包まれながら、白山社長は自分の過去の経験などを赤裸々に語ってくれた。
その話では、仲間がプレス機に挟まれて死亡したことなど、本人にとってショッキングでセンシティブな内容が多く、私に心を開いて接してくれているのはわかったが、私はこの数週間、白山社長が自分に対して冷たく厳しい態度で接してきた事に対して、どうしても恨みの気持ちが拭えなかった。
そのような気持ちもあってか、対話する気持ちにはならず、私は白山社長の話に対して「はい」「ええ」「そうですよね」ばかりを繰り返し、隙を見計らってはエビ・イカ・アワビなどの焼き物をひたすら頬張っていた。そうして2時間が過ぎた頃、少しの沈黙の後、白山社長が口火を切った。
白山「何か思い残したことはあるか?」
私は喉元まで「ストリップ」と言いかけた。しかし、曲がりなりにも迷惑を掛けた自分が卑猥なお願いをするのは憚られたため、「いえ、特にありません。」と答えた。が、すかさず鏑木さんは「せっかくだしストリップを見ておいた方がいいんじゃないですか?」と宇宙一気の利いた一言が飛び出した。
白山社長は私に「あんなもん見たいのか?」と問いかけたため、私はすかさず「え、ええまぁ。」と答えた。多少考えたフリをした白山社長は「連れてってやるよ。」と我々に告げると、そっと3人分のお会計$500を何事もなかったかのように済ませたのだった。
「私も出します。」と年下の鏑木さんが言ったため、私も「わ、私も。だ、出します。」と、ほぼ空っぽの財布を開けるふりをした。鏑木さんは真面目だ。本気でお金を出すつもりでいるのだろう。対する私は、$1も出したくない気持ちが挙動不審の態度となってれた。どちらが年上なのか、本当に情けなく感じた。だが、何を思っても私の財布の中身はほぼ空っぽなのだ。挙動不審にもなるだろう。
ドキドキしながら白山社長の言葉を1秒程待った。結局白山社長は「いらん。心配すんな。」と想定した通りの返答で、私は心の底から「御馳走様でしたー!」を元気よく言ったのだった。
そこから約10分ほど車を飛ばし、街唯一の『ストリップバー』なるところに到着した。
看板を見る限りは普通のバーである。が、この中では金髪の美女があられもない姿になっているのだろう。期待を膨らませてさっそくオープンザドア。
受付がある。そこで1人の中年のアメリカ人が、「やぁいらっしゃい!まずは入店前に年齢を確認できるものを提示してくれ。」と私たちに言った。
私「(えっ、年齢を確認?そんなのいるなんて聞いてないよ!)」
と心の中で叫んだ。
そう、薄毛であろうとも日本人は海外で若く見られてしまう。そして、どうやら州の法律では20歳未満のバーへの立ち入りが禁止されている様だ。
必死でカバンを漁った。どこかにパスポートがあるはずだ。しかし、どこにも見当たらない。私は再びカバンを漁るが、やはりどこにも見当たらない。しかし、私はカバンの中で何かが私に訴えかけているのを微かに感じ取った。
『国際免許証』だ。
私「(もしかするといけるかも・・・。)」
スタッフに国際免許証を提示してみた。暫し悩んだ様子のスタッフ。結果は…
スタッフ「OK。じゃ、$20ドルを払って入店してくれ。」
胸をなでおろす。
さて、お目当ての金髪美女は何処にいるのか。薄暗い通路を闊歩し、右側にある両開きの扉を開けると、目の前には花道付き円形ステージがあった。
まぁまぁ広い。小学校の教室を2つ繋げた程の会場に、直径8メートルほどの円形ステージが中央にある感じだ。ステージはまだ薄暗く、そのステージを囲むように客が10人程度まばらにいる状態だ。シラフで同僚らとストリップ、というのもアレなので、まずは脇にあるカウンターでジントニックを$5で購入。それから我々はステージに向かって左側の場所を確保した。
その瞬間。エディット・ピアフ『愛の讃歌』が大ボリュームで掛かり、スポットライトが花道を照らす。
白山「来るぞ!」
白山社長が唸った。花道の入り口にあるカーテンからガウンを羽織った女性が出てきた。金髪じゃない、アジア系だ。ここまで来てアジアか。と少し肩を落としていたところ、2人目が入場してきた。
私「(き、金髪だ!)」
新婚の私はそっと心の中で叫び声をあげた。
アジア系女性と同じくガウンを羽織っているが、こちらはアジアンと違い、たわわな実がしっかりと実っており、観客は皆その部位を注視した。多分。
私「(これがアメリカンドリームか。)」
私は以前北海道に出張した際、ススキノでストリップを見たことがあった。その時は、古都京都を連想させるような純和風音楽が掛かっていた。そのせいだろうか、芸術を眺めているような気持ちになり、エロさはほとんど感じなかった。しかし、バラードのシャンソンはジワジワとエロさを感じる。かのエディット・ピアフにはその意識は全くないのだろうが、ベッドシーンで気分を盛り上げるのにも効果的な音楽だろう。アジア人の裸体には合わないが・・・。
さて、私がストリップに来たかったのは、単純に金髪美女の裸を見たかったからではない。いや、見たかったのは事実であるが、本当の理由はもう一つある。それは、『金髪美女は下も金髪である』という噂が事実かを実際に拝見したかったということだ。
しかし、その夢はすぐに叶わないことを知ることになる。
ゆっくりと音楽に合わせてガウンを脱ぎだした2人の美女、その体には下着が付けられていた。当然だろう。『脱ぐ』という行為そのものに付加価値を感じる男は非常に多いのだ。これから下着をゆっくりと脱いでいくアトラクションを男たちは楽しむのである。かくいう私はというと、即裸でいいという思想の持主であり、ストリップの価値の半分も味わえない男である。過程より結果を重視するタイプ?なのだ。
下着姿でポールダンスを踊るという、私にとってどうでもいい動きを経て、ようやく脱衣だ。まずは上の下着を外し、「ついにパンツを脱ぐのか?!」と思いきや、またもパンツははいたまま音楽に合わせ、どうでもいいダンスを踊りだす美女達。永遠とも感じた5分ほどのダンスを終え、やっとパンツを脱ぐか、というときに金髪美女だけがステージから去って行った。
私「(まさか下半身は条例違反か?)」
そう思った矢先に、美女はフラフープを持って戻ってきた。次はフラフープを使ったダンスが始まりだしたのだ。
私「(もう十分だ、イナーフ。)」
そう思いながら2杯目のジントニックを買いに行く。酒を作ってもらっている途中、音楽がさらにゆったりとしたものに変わったのがわかった。私は焦った。遠目で美女たちがパンツを脱いでるのである。
てんこ盛りのジントニックをグラスの中で揺らしながら、急ぎ足で自席へ戻り、ステージに目をやった。が、逆側の客席に向かって開脚している。代わりにアジア人がこちらに向いてくれているが、下の毛は芝刈り機で刈ったように短く、そして黒々としていた。このようなモノを見せられても困る。
私「(もう金髪美女はこちら側には来ないのか・・・。)」
そう諦めかけた時の事だった。金髪美女はこちらに向き、ゆっくりと体をくねらせながら近づいてきたのだった。
私「(見えた!)」
しかし私はそこで衝撃を受けた。
私「(な、無い!)」
なんと下の毛が無く、ツルっとしていたのだ。
私「(まさか条例か?!)」
文化なのか、条例なのか、私にはわからなかったが、簡潔に言うと私の目的は未達ということだ。確かにインターネットの時代、画像を見るだけなら簡単な話だ。だが、それでは意味がないのだ。
例えば、グランドキャニオンを想像してほしい。実際に訪れて見た者は「自分の悩みなどちっぽけだ。」と言うらしい。写真を見ただけではそこまで思わないだろう。つまり、実際にその場で見るのと写真を見るのとでは、全く次元の違う話なのだ。
もう私の人生にこのような機会は訪れない、そう考えると涙が溢れてきた。
そして、私はその場に膝をつき、震え、嗚咽を漏らした。
だが、ストリップに来た事自体、土産話の一つには出来るだろうということで、少しの満足感は得る事ができたのだった。
ステージは終盤を迎え、そろそろ美女たちは退場か、そう思った頃だった。何という熟語になるのかわからないが、『胸の谷間にお札を入れるタイム』がスタートした。私は「お金入れますか?」と言いながらふと鏑木さんの方を向くと、彼の右手には$5札が握られていた。
そして、真面目で家族の事を常に思っている彼の手に握られていた$5は、金髪美女の胸の谷間へと吸い込まれていった。次の瞬間、美女は鏑木さんに胸を差し出し、もっと顔を近づけろという。さすがに我々が見ている前でそこまでできないだろう、そう思っていたのもつかの間、彼は金髪美女の胸に1秒ほど顔をうずめ、その後ゆっくりとこちらを振り返った。
完全なる真顔だ。例えるなら、通勤途中のサラリーマンの様な表情だ。
確かに彼はしらふである。しかし、せめて「やっちゃいましたよー。」とニヤついた顔つきで振り返ってほしかった。何と声を掛けていいものか。白山社長も無表情でビールを飲んでいるだけである。その後も全員終始無言で、私は自分が乳に顔をうずめるための札を用意する気にもならなかった。
そして1時間程度のステージを見終え、帰りは鏑木さんの運転する車でアパートまで送ってもらうこととなった。車の中で鏑木さんは「楽しかったですか?」と私に聞いた。私は、「下の毛が金髪かを確認できなかったので・・・。」と喉元まで出かけたが、「あ、いい経験が出来ました!」と言葉をすり替え、この日は解散した。
米国での最終出勤日。
当然仕事はなく、日本人駐在者と米国人女性の上司にだけ挨拶をして、そのままアパートに荷造りに帰った。といっても、家具はある程度備え付けられたアパートだったため、小物を全てゴミ袋に入れて3つ分を捨てただけだった。この時米国に来てはじめてゴミ捨てをしたわけだが、驚くことに、燃えないゴミも危険物も何も分別がないことを管理人に知らされた。(注意:2013年時点)
このような経済大国で、環境を顧みない生活スタイルでは、次世代の教育にも悪影響だ。ぜひゴミへの意識を変えていってほしい。この日は心穏やかに、窓からの景色を眺めながら、妻に翌日の帰国便名をメールするなどして過ごした。
翌朝4時、空港に到着すると、鏑木さんと村田の2人が見送りに来てくれていた。迷惑ばかりかけてるのに、ありがたいやらいたたまれないやら。2人には深々とお辞儀をして早々にチェックインさせてもらった。帰りはワシントンで乗換を済ませた後、私は深い眠りについた。米国生活に心底疲れ切っていた様だ。
そのため、私には珍しく成田空港に到着するまでほとんど目を覚ますことはなかった。そして、妻の実家に到着したのは午後9時、私の帰りを待ってくれていた妻の親せき一同が笑顔で出迎えてくれたのが素直にうれしかった。
2 パワハラで起こった不幸(2013年)
さて、帰国した翌日からゴールデンウィーク11連休に突入。世間は行楽に勤しんでいるころだろう。この日から日本本社の技術部付となった私も当然休みに入った訳だが、忠村部長に呼びだされて会社に行くことになった。
これは、誰もいない日に技術部へ異動する準備をさせてくれるという忠村部長の優しさによるものだった。本社の経営企画部に預けていた私物を受け取り、技術部のロッカーに向かう。わかっていたが、建屋がボロボロだ。私と面識がある人間はたったの1人だけということもあって、今回の事件での気まずさを感じる事はない。まずは心機一転頑張ってみよう、そう思いながら、荷物をロッカーへ捻じ込み、気持ちを新たにした。
そしてゴールデンウィーク明け。緊張しながらも、初めての環境で簡単に挨拶を行った。
私「本日から技術部金型設計チームに配属となります武田です。よろしくお願いします。」
パチパチ・・パチ・。
朝礼で簡単に挨拶を済ませた後、さっそく技術部金型チームの一之瀬マネージャーから、自分が担当する仕事の説明を受ける。
一之瀬「お前の仕事は、プレス機で使う金型の図面を作る事だ。お客さんの製品図面がベースになるから、AUTO CADさえマスターすれば楽なもんだ。わからない事は向かいの席の前田に聞いてくれ。」
前田さんは、私と同い年の30歳。某帝大院卒、地頭は非常に良いものの、笑顔でキレたりキツイことを言う、どことなく苦手なタイプだった。
私はAUTO CADの使い方など全く分からないため、どうしても前田さんに教えを請う必要がある。仕方なく、勇気を振り絞って基本的な操作方法を聞くことにした。
私「あの、前田さん。お時間のある時で結構なので、AUTO CADの使い方を教えていただけませんか?」
すると前田さんは笑顔でこう答えた。
前田「あっ、いいですよ。今ちょうど時間があるので説明しますね。」
同い年の下で働くのは初めての経験だ。私はプライドが邪魔をして素直に言う事を聞けるか不安だったのだが、彼の協力的な態度に毒気を抜かれた。
そんな時、一ノ瀬マネージャーの怒鳴り声が事務所に響き渡った。
一之瀬「なんで材料が届いてないんだ!管理してるのは誰だ?」
どうやら高硬度の金型製作に必要な『なまし鋼材』を誰も発注しておらず、顧客納期を守れそうにない状況となってしまったようだ。
一之瀬「またおまえか!会社を潰したいのか?なんで発注してないんだ!」
延々と1時間は公開説教をされている。一体いつまで続けるのだろうか。
一之瀬「死んでしまえ、クソっ!」
と、一之瀬マネージャーが最後の一撃を放ち、説教は終わった。
岡本さんは顔が真っ白になってうつむきながら席に戻り、再びパソコンをカタカタと使い始めた。どうやら彼は一人で金型の生産管理をしながら在庫整理をしつつ、設備の入れ替えまでもこなしており、明らかに業務過多になっているようだった。
この日岡本さんは帰宅せず夜通し仕事をしていたが、翌朝出社してきた一ノ瀬マネージャーはその事に対して怒鳴り始めた。
一之瀬「おまえなぁ、勝手にこんな長時間残業していいと思ってんのか?俺が怒られるだろうが。何でそんなに仕事が遅いんだ!それにこの設備投資稟議、何を言いたいのかわからん。全然ダメだ!やり直せ!大体なぁ・・・」
労いの言葉もなく、一方的に罵り始めた。そして30分程それは続いた。終わった時、私は岡本さんに声をかけようと顔を見てギョッとした。顔に色が無く、頰は欠け、目が虚ろとまるで幽霊の様だ。あまりの見た目に声をかけられなかった。
技術部で仕事をするようになって約3か月が過ぎた頃。私は金型製作をしている現場作業者の労務管理を担当するようになった。メンバーは男性7名と女性2名の計9名。納期を守る事、そして彼らがなるべく残業せずに済むよう業務を分配していくのが私に課された新たな責務となる。
しかしながら、私が労務管理を担当するようになる前は、彼らにサービス残業を強いていたのが現状だった。なぜなら、会社は我々金型チームに残業時間を月平均10時間に抑えるよう強く指導し、これを守れない場合は部門評価を最低にする、つまり賞与を出さないという脅しをかけるといった背景があったのだ。
私が考えたのは、9名の能力管理、『タレントマネジメント』を行うことだった。というのも、金型製作はほとんどが職人技により成り立っている。しかし、全ての工程を全員が場当たり的に担当しており、次の工程を受け持つ作業者の歩留まり、つまり待ち時間が長い事がしばしばあったのだ。そのため、小型プレス機や切削・研磨、刻印、熱処理などを各自がどれ位のスピードでこなしているか、また適切なサイズの刃物や研磨ブラシを見極める手際などを点数化し、無理に苦手な工程を担当させず得意なことを伸ばしてみるよう生産体制を見直していった。
これによって、サービス残業させずに平均10時間の残業時間に収める事が出来たのである。ただ、ここで1つ大きな問題が発生した。それは、60歳のベテラン男性作業者の負荷だけが解消されていないという事だった。
理由は、切削のプロが彼一人であり、その工程が一番の難関で時間がかかる作業だからであった。そのため、9名いる作業者の内、このベテラン作業者の残業時間は50時間、残りの8名は5時間程度で、結果として平均10時間といった具合になっているのである。これではベテラン作業者が退職でもしたら顧客納期に影響が出るだろう。
そこで考えたのが、切削のプロを養成する事だった。私の見立てでは、28歳の女性作業者である『工藤さん』が適任であると感じた。それは、入社2年目にもかかわらず全ての工程を平均的にこなしていた器用さを持ち合わせていたからだ。
ある時、帰り際の工藤さんを捕まえて話をしてみる事にした。
私「工藤さん。ちょっといいですか?」
工藤「あ、お疲れ様です。なんですか?」
私「切削工程の負荷をなるべく分散していきたいと思っているんですが、手伝ってもらうことは出来ませんか?」
工藤「いいですけど、私、切削は遅いですよ。」
私「いいんです。練習の材料も用意しますんで。当然練習時間も残業代出しますから。」
工藤「え、残業代もらえるんですか?それならやります!」
基本的に金型チームでは、サービス残業が当たり前になっており、残業代をもらえるという感性で働いている人はいなかったのである。しかし、結果的に年度で見て『平均10時間』に残業を抑えられるなら文句はないだろうと私は考えたのだった。
翌日から私は工藤さんと一緒に残って切削の練習に付き添うこととなった。
私「工藤さんは経験者ですし、いきなりこの形状の切削からやってみましょうよ。」
工藤「失敗してもいいならやってみたいです。」
工藤さんは思った通り前向きに取り組んでくれた。また、残業代が出るというのは一般企業では当たり前のことではあるものの、ブラック企業ではモチベーションを上げるための良い施策になるのだ。
作業の合間、私たちは世間話で盛り上がった。
工藤「そういえば、武田さんは結婚してるんですよね。お子さんいるんですか?」
私「いや、いないですよ。工藤さん、残業お願いしておきながらアレですけど、お子さんいるんですか?」
工藤「女の子が二人います。親と同居なので多少遅くても大丈夫ですよ。」
私「そうでしたか。いやーすみません。今度何かお礼でもしますから。」
工藤「お礼なんていいですよ。でもたまには普通に飲みに行きたいなー。」
私「じゃ、これから行きますか?僕車通勤なんで送迎くらいしますよ。」
工藤「私だけ飲んでいいんですか?でも・・・そんな機会ないし、行きたいな。家に連絡するのでちょっと待っててください。」
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(後編:以下有料でございます。この先を読み、私の事を「知り合いだ!」と思った方へ再びお伝えしておきます。この作品は一応フィクションです。私とは絶対に知り合いでは・・・ございません。)
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