「思い」と「想い」
以前、第6話についてこんな記事を書きました。
この記事を改めて読み直していたのですが、ふと「思い」と「想い」って違うのかな?と疑問が生じました。
字面はもちろん違いますが、果たしてその意味するところも違ってくるのだろうか?と考えたのです。
日本語というのは、曖昧な言語です。
英語のように「まず初めに主語が来て... 」なんてありません。
それどころか、日本語は主語を省いたって、言葉として意味が通ってしまうのです。
例えば、「この間の、見た?」でも通じます。
(「この間の何なのか」が双方分かっていれば、ですが...)
要するに、「伝わりゃあいいじゃん」なのです。
日本語という言語の難しさや面白さが分かりますよね。
脱線してしまいましたが、「思い」と「想い」についてはどうでしょうか。
まず、「思」を使った熟語を考えてみましょう。
思考、思慮、思案...
そんなところでしょうか。
では、「想」を使った熟語はどうか。
想像、想起、想定...
これらを比べて、分かることはあるでしょうか?
...
あまりないですね。
では、何か明確に違いがあるのか、適当に調べてみましょう。
こんなページを見つけました。
ここで書かれていることによれば、「単に頭で考えること」が「思う」で、「心で対象をイメージすること」が「想う」なんだそうです。
なんか、個人的には微妙な違いと言いますか、「んなもんどうでもよくね?」となるような違いですね。
これを普段から意識して使い分けている人は、ほぼいないでしょう。
要するに、程度の問題なのです。
「思う」は弱くて、「想う」は強い。
その程度でしかありません。
...その程度でしかないけれど、これを天王寺璃奈というキャラクターに落とし込んで考えてみましょう。
彼女のソロ曲に「ドキピポエモーション」というのがありますが、その冒頭は
思いを伝えることって難しい
です。
ビビビのビー。
「想い」ではなくて「思い」が使われていますね。
つまり、「単に頭で考えていること」です。
一方、「たくさんの人と繋がりたい」と願うのは「思い」というより「想い」ですね。
色んな人格を持った人達と接し、語り合い、その中で仲良くなりたい、繋がりたい。
それは、まさしく「心で対象をイメージすること」に他なりません。
もう一曲引用しますが、「テレテレパシー」という曲の冒頭は
想いよ届け 笑顔を繋いで
です。
この曲ね。
こちらは「想い」となっています。
ここで言う「想い」と言うのは、先ほども申し上げた通り、「たくさんの人と繋がりたい」と言う願いと考えることが出来るでしょう。
冒頭に載せた記事でのキーワードは「表情」でしたが、これは天王寺璃奈という存在そのものに対してのキーワードでもあります。
表情を作ることが苦手な璃奈にとって、たくさんの人と繋がるために「笑顔」を大切にするというのは大変難しい問題です。
しかし、以前の記事に書いたように「自分が持つ強みを活かして苦手な部分をも武器に変える」ことが出来たならば、そのハードルは必然的に低くなるわけです。
「自分自身を変えることが出来た」という第6話における天王寺璃奈についての事実。
それは、「表情を作ること(単に頭で考えていることの表れ)=思い」を「たくさんの人と繋がること(心で対象をイメージできることの表れ)=想い」に変えることが出来た、そう捉え直すことが出来るのかもしれません