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大月桃太郎伝説⑥


 「大月桃太郎伝説」第6弾です。

 今回は由来の書き換え、付加について考えました。
 どういうことかというと、大月市周辺にある桃太郎伝説ゆかりのモノ(地名を除く)は、最初から桃太郎伝説に由来するモノがあるわけではなく、本来持っていた由来が桃太郎伝説の内容に合うように書き換えられた、あるいは付加されたモノがあるということです。
 特に「鬼の杖」、「鬼の立石」の由来の書き換えは重要で、狂歌から物語の形式を持っていく「大月桃太郎伝説」の成立に深く関わっていると考えます。
 このことについて詳しく述べていきたいと思います。

「大月桃太郎伝説」に関連するモノについて、分からない方は下記のご参照をお願いします。

 これまで、そもそも初期の「大月桃太郎伝説」は狂歌で、1980年以降に内容が整えられていったということを見てきました。

 「大月桃太郎伝説」に関係するとされるモノについて調べていくうちに、1980年以降に内容が整えられていく過程で、本来持っていた由来が桃太郎伝説の内容に合うように書き換えられたモノが存在していることに気づきました。また、新しく桃太郎伝説の内容に合うように由来が与えられたモノも存在しています。

 以下、書き換えられた由来と新しく由来が与えられたモノについて見ていきます。

【鬼の杖】
 まずは「鬼の杖」です。
 石井深の『郷土の民話』「岩殿山の鬼退治」(石井1980)を見ると、

「(猿橋から)大声で「岩殿山の鬼よ、これから桃太郎が貴様を退治しに行くぞ」と叫んだら、昼寝をしていた鬼は眼をさまし、大いに怒って左手に持っていた石の杖を猿橋の方へ向かって投げつけた。左手だったので、杖は猿橋まで届かず、途中の畑へ地響きを立てて突きささった。その辺り一帯に地震が起きたので、ここを「石動」と呼んでおり、石の杖を「鬼の杖」と呼んでいる。
やがて西の方へまわった桃太郎が、又、「赤鬼めー覚悟しろー」と叫ぶと、鬼は物凄い唸り声をあげて、右手に持っていた石の杖を桃太郎へ投げつけた。今度は勢い余って、びゅーんと杖は、桃太郎の頭上をとび越して、笹子の白野と境に突きささった。これを今でも「鬼の立石」と呼んでいる。」

と書かれており、岩殿山の鬼の左手に持っていたのが「鬼の杖」、右手に持っていたのが「鬼の立石」であり、両方とも桃太郎に投げつけたので現在の場所にあるとされています。

 次に1925年に刊行された『北都留郡誌』の「第三十三章 故事傳説 第二節 昔話」に書かれた「笹子の立石」(山梨県北都留郡誌編纂會1925)を見ると、

「笹子村白野組と原組の境界付近に立石坂といふあり、其坂の中央の傍に長二間巾三尺位の立石あり、坂の名も葢しこれによりて出づ、里人相傳ふこれ往古山姥某杖づき來りしものにして中途にて折れしかば、其一片を此塲に棄て、一片は岩殿山麓(賑岡村字岩殿の東方畑地に在り 里人又これを鬼の杖と稱せり)に投棄せしなり、と。」

と書かれており、「立石」は山姥の折れた石杖の一片であり、もう片方は賑岡村字岩殿の東方畑地に投棄したとあります。そして、賑岡村字岩殿の東方畑地に投棄した一片を地元では「鬼の杖」と呼んでいたことがわかります。

 また、土橋里木『甲斐の伝説』の「石の伝説」「鬼の杖」(土橋1975)を見ると、

「大月市岩殿。むかし岩殿山に赤鬼が棲み、常に両手に石杖を持っていた。右は太く長く、左は細く短かった。ある日鬼は何かに怒って、両手の石杖を天高く投げ、その落ちる響きは雷のごとく、大地は地震のように震えた。いま山麓から1キロメートルばかり東の石動と呼ぶ地の畑中に、柄の方を西に向け突き立っているのが赤鬼の杖で、これを「鬼の杖」という。…中略…右杖は、遥か西方の笹子峠に近い白野の原に立っていて「立石」と呼ばれている。」

と書かれています。土橋の『甲斐の伝説』には、「立石」の紹介もありますが、内容は『北都留郡誌』のものと内容はあまり変わりません。笹子では山姥の石杖、岩殿では岩殿山に棲んでいた鬼の石杖として伝えられていたようですが、互いに互いの存在を知りながらも、伝えられてきた伝説が異なることが分かります。
 しかし、どちらの話も桃太郎に関連する話ではないことが確認できます。

【鬼の洞窟(岩屋)】
 鬼の洞窟(岩屋)は、岩殿山に棲んでいた鬼が棲家としていた洞窟だとされています(石井2005、名勝猿橋周辺地区活性化委員会2015)。しかしこれは明治8年に廃寺となった岩殿山円通寺の施設があった洞窟です。かつて新宮と呼ばれ、洞窟の中に堂宇が建てられ、中には十一面観音像が祀られていました。このことは江戸時代の『甲斐国志』をはじめ、江戸時代の境内絵図など、様々な資料によって確認できます。
 円通寺が廃寺となり、人々から新宮についての記憶がなくなってしまい、由来が分からなくなってしまったため、鬼の洞窟(岩屋)として「大月桃太郎伝説」に取り込まれた可能性を推定できます。

【船に乗り桃をもつ地蔵】
 船に乗り桃をもつ地蔵とは、岩船地蔵のことです。
岩船地蔵の信仰も、江戸時代の一定地域における一時期のブームであったため、由来が忘れられ、船に乗っていること、宝珠の形状が桃に見えることから、桃太郎にちなむ地蔵であると解釈され、「大月桃太郎伝説」に取り込まれた可能性を推定できます。

 以上が書き換えられた由来と新しく由来が加えられたモノ達ですが、特に「鬼の杖」、「鬼の立石」の由来の書き換えは、狂歌から伝説になっていく「大月桃太郎伝説」の変化について探るうえで重要なポイントになると考えています。

 なぜなら、狂歌の桃太郎は、お供を従えながら東京方面へ進んでいってしまいますが、「鬼の杖」、「鬼の立石」の由来を「岩殿山の鬼が桃太郎に投げつけた杖」とすることによって、これまで別個に存在していた「桃太郎」と「岩殿山の鬼」という両者を結びつけることができるからです。

 この由来が書き換えられた「鬼の杖」、「鬼の立石」が存在することにより、桃太郎の目指す先は岩殿山となり、「桃太郎は東京方面へ進んでいった、完。」とならずに、岩殿山を目指し、鬼退治をするという物語が成立することになります。
 また、新しく由来が加えられたものについては、「大月桃太郎伝説」の中に取り込めそうな要素を持っているものの中で、月日の経過により、人々の記憶から由来について忘却されてしまったものが対象になっている可能性が推定できます。

 こうしたことから、大月市周辺にある桃太郎伝説ゆかりのモノたちは、最初から桃太郎伝説に由来するものではなく、本来持っていた由来が桃太郎伝説の内容に合うように書き換え、あるいは付加されたモノであるということがわかります。特に「鬼の杖」、「鬼の立石」の由来の書き換えは重要で、狂歌から物語の形式を持っていく「大月桃太郎伝説」の成立に深くかかわっている。ということがいえます。

 最後に調べていく中で思ったことを記します。
 みてきたとおり、「鬼の杖」も「鬼の立石」も、賑岡では鬼の杖、笹子では山姥の杖、というように存在する地域で伝えられている由来が違います。お互いの地域でもう片方の存在を知っていながら、伝えられている由来が違うということは、そもそもこれらの由来が広範囲で知られたものではなく、小さな範囲でしか伝えられていなかった由来であると考えられます。

 何を言いたいのかというと、広範囲に知られた由来・伝説ではなく、小さな範囲で知られていた由来・伝説だったからこそ、「大月桃太郎伝説」の内容に合うように書き換えられた可能性があるということです。
 このことは、猿の出身地とされる猿橋には、猿橋の「架橋にまつわる伝説」が古くから伝えられ、様々な文献でも広く知られていたことが確認できますが、この伝説は「大月桃太郎伝説」の中で書き換えはされず、登場もしていません。
 桃太郎が対岸に渡るために猿が連なって橋となり、のちに猿橋の構造のヒントになった、などとはなっていないことから考えても、「鬼の杖」、「鬼の立石」は小さな範囲で知られていた由来・伝説だったからため、「大月桃太郎伝説」に合うよう書き換えられたと考えることができるのではないかと思いました。マイナーであったため書き換えが容易だったということです。

 いかがだったでしょうか。お読みいただきありがとうございます。

 次回は、「大月桃太郎伝説」の最終回として、これまで調べたことを総括したいと思います。


引用・参考文献
石井深1980『郷土の民話』(手作り冊子)。
石井深2005「桃太郎の伝説」『心に舞う2 岩殿』、日本ステンレス工業、pp.122-pp.123。
土橋里木1975『甲斐の伝説』、第一法規出版、pp.29。
名勝猿橋周辺地区活性化委員会2015『大月桃太郎伝説』(手作り小冊子)。
山梨県北都留郡誌編纂會1925「第三十三章 故事傳説」『北都留郡誌』(復刻版)、千秋社、pp.1119-pp.1133。

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