卒論公開〜ブータン王国🇧🇹をテーマに〜
こんばんは🌕
ちょうど1年前は、卒論の提出期限日が間近に迫ってきており、焦りながら正月を過ごしていました。
以前に結論部分のみを載せたことがあるのですが、今回は全体を載せたいと思います。
見返していたら、また論文というかレポートを書きたくなってしまいました。(笑)
今度はまた全く違うテーマで、ブータンについてまとめてみたいな。
約3.5万字程あるので、少しずつ読んでみてください。
それではどうぞ☕️
2021年度
卒業論文
21世紀のブータンにおける情報化の影響と人々の意識
-インターネットの普及と外国文化の流入をめぐって-
要旨
本論文では、近年のブータンにおける情報化による社会の変化と人々への影響について検討する。その社会的変化とは、具体的には近代化やそれに伴うモータリゼーション、都市化、情報化、グローバリゼーションなどの現象による変化のことを指す。本論文では、それらの変化の中でもインターネットやテレビの解禁、スマートフォンをはじめとしたモバイル端末の普及を含む情報化による一連の現象について扱う。そして、情報化による一連の現象はブータン社会の人々の意識や価値観、社会生活に大きな影響を及ぼしていると推察する。近年のIT革命、世界中でモバイル端末が市場を席捲していることは、ヒマラヤの小国ブータンでも例外ではない。こうした近年の変化に対する人々の意識の実像を明らかにすることを本論文の一つの目的とする。
ブータンではこうしたモバイル端末による変化は他の国々と概ね同じタイミングで生じた。しかしながらブータンは、同様の情報化と呼べる変化である“テレビ・インターネットの解禁”のタイミングは世界で最も遅れた、もしくは意図的に解禁を避けようと模索した結果、他国よりも数十年遅れで解禁することとなったという経緯がある。
ブータンにおいて、テレビ・インターネットが解禁されたのは1999年で、これはほかの国々よりも群を抜いて遅いタイミングであった。その背景としてテレビ・インターネットを国内で解禁することによって、海外の文化に触れた国民に変化が生じ、既存の伝統的な独自の文化が顧みられなくなるなどのネガティブな影響を被ることを避けようとしたといった事情があった。ブータン政府は情報化の解禁に対して葛藤しながらも最後まで抵抗を続けていたが、国民の知る権利をそれ以上抑圧したままでいることもまた困難であった。
このように、独自の近代化・情報化の過程を歩んできたブータンにおける変化は、一般的にほかの国々よりも短期間で急激なものであったということができる。外界とほとんど隔絶されていた国が、およそ20年のうちにテレビ・インターネットの解禁だけでなく、スマホの普及といった世界的な変革も経験したわけである。このような現象がブータン国民、とりわけブータンの若者の意識・価値観、考え方にどのように作用し、どのような変化が確認できるのかをこの研究で明らかにしていきたい。
研究を進めていくうえで、書籍やネット上の文献にくわえ、ブータンの人々へのインタビューを試みた。ブータンにおける地方と都市を比較したうえで人々がどのような都市観をもっているのか、海外の文化への興味は抱いているのか、伝統的な価値観への信頼はあるのか、交友関係、情報技術への考え、GNHについての考え、などについても調べたい。
<キーワード>
ブータン、情報化、近代化、インターネット、外国文化
序論
研究背景、問題意識、論文の目的
本研究テーマを選んだ理由としては、情報化という現象が近年とりわけここ十年でも明らかな加速をみせ、世界中を席捲している現象だからである。インターネットの普及は以前から進んでいたわけであるが、その普及を絶対的なものにしたのがスマートフォンをはじめとする小型のモバイル端末の登場である。
また、研究の舞台としてヒマラヤ地域の小国ブータンをとりあげたことには二つの理由がある。一つ目は、ブータンが幸福や精神的な豊かさを軸とするGNH¹という国民総幸福を国家理念の軸として掲げている国であるという点である。国民のほとんどが幸福であると回答した国勢調査によって一躍「幸福の国」として有名になったが、そのブータンという国が情報化という新たな段階に直面したとき、社会問題が生じないということはあり得るのだろうかという問いも生まれた。もちろん、それまで多量の情報というものに無縁の社会が情報化によりひとたび門戸を広げたら、社会的なアレルギー反応のような問題が生じることは容易に推測できる。もう一つは、ブータン社会自らが本格的な工業化を経験していない状態の社会であるという点である。現在、情報化が進行するほとんどの国では、ある程度の工業化を経験している。一方、ブータンでは1960年代頃から近代化政策が行われてきたことは事実であるが、いわゆる先進工業国のそれとは比較にならない。
こうした背景のうえにブータンを舞台とした近年の情報化による社会変化を批判的な視座に立って、捉えなおす必要があるのではないかという問題意識が生まれた。インターネットやスマートフォンの登場によって、生活が便利になることは紛れもない事実であるが、そうした変化すべてに対して無条件に迎合すべきという姿勢は、あまりに無防備であると考える。まずは、今起こっている変化に対してひとりひとりが意識的になることが重要である。そして、その変化に対して複眼的な視点から社会に与える影響・インパクトを検討するという作業が必要であると考える。昨今の周囲の環境が急速に変化する時代において、この情報化という現象によって、ブータンの社会やそこに住む人々にどのような変化が生じているのか、という問いに対して、一定の結論を出すことが目的である。また、大国の「周縁」としての小国であり、世界で最も遅くテレビ・インターネットを解禁した国であるブータンを研究の対象としていることが本研究の意義である。
問い、扱う範囲、資料と方法、議論の進め方
第一節ですでに触れてしまったが、情報化という現象によって、ブータンの社会やそこに住む人々にどのような変化が生じているのか、というのが本研究の問いである。それまで情報化とは無縁だったいわば「無菌状態のプリミティブな社会」があるとき突然、海外からの情報や文化に触れたことによって、社会全体としてひずみが生じるのではないか、ということである。また、この言説と同時に、情報化による海外からの情報の流入が啓蒙であったり、社会の偏執を減らすことがあったりするのではないかという言説に対しても後の章で検討したい。
あらゆる社会問題はその他の複数の要因によっても生じている。しかしながら、本論文ではあくまでも「情報化」という一つの要因に範囲を限定して、問題を検討したい。扱う資料としては、書籍やネット上の文献、オンラインを用いたブータン人に対する直接のインタビューを考えている。
本論の進め方は次のようにしたいと考えている。まず、インターネットの解禁、スマートフォンの普及によって外国の情報・文化・価値観の流入に至るまでのブータンの情報化の経緯を概観する。そして次に、そうした一連の情報化現象がブータンに住む人々の意識や価値観へ影響を与えているということについてまとめ、近年の急速な情報化による情報の氾濫や海外文化の流入が、若者を中心とする人々の意識・価値観の変化につながり、さらには首都ティンプーを中心に変化が生じている、ということを論じていきたい。そのうえで、現在のブータンの実情とそれに対する政府の対応・対策を調査し、検証する。
第1章 基本情報の確認
第1節 世界的な情報化の流れ
人は古くから物理的な光や音を用いた遠距離の通信を行ってきた。電子機器による情報化よりも、さらに広い意味での情報化と言えるだろう。具体的には、鐘や笛、太鼓、狼煙などが挙げられるだろう。ただ、これらの伝達手段では伝えられる情報量や内容は限られてしまい、高度な通信手段ではなかった。しかしながら、ガーナやセネガル、ナイジェリア周辺地域などの西アフリカ諸国において用いられていたトーキング・ドラム²という楽器に関して言えば、言語を操るかのように複雑な音色が奏でられ、詳細なメッセージが遠方まで伝達される。さらに、いくつもの文から構成されたそのメッセージは、一時間を待たずに村から村へとリレーのように伝達され、160㎞以上も遠くへと運ばれたという。このトーキング・ドラムの起源については確かなことはわかっていないが、ヨーロッパにおいて視覚的な遠距離通信が始まった18世紀よりもずっと前の年代まで遡るという。トーキング・ドラムの音は口語から直接的に編成されたものであり、その理由としては、この西アフリカの地域の言語が書き文字をもたないものであったということが挙げられる。
ブータンも同様に多くの地域で書き文字をもたない言語が話されているが、こうしたトーキング・ドラムのような交互に代替する通信手段は発達しなかった。その背景には、地形が平らで発された音がスムーズに遠くまで届くアフリカの地域とは異なり、ほとんどが山岳地帯で急峻な地形となっているブータンにおいては、音声による遠距離の通信手段はアフリカの地域ほど適したものにはならなかったのだと考えられる。
視覚信号を用いた伝送の技術に関しては18世紀の時点にはすでに確立されていたが、社会的なインフラとして認められるまでには至らず、広く普及することはなかった。その時代においては、遠距離の通信技術が社会に多くの利益をもたらすとは考えられておらず、持続的なネットワークの構築を支持する機運は高まらなかった。18世紀の末頃には、クロード・ジャップによって、腕木通信機³が発明された。腕木通信は当時のフランス政府によって軍事用の通信手段として採用され、約190㎞にわたって通信網の建設が開始された。19世紀前半になると、腕木通信はヨーロッパ各国、エジプト、ロシア、インドなどの国へと広がりをみせた。さらに、通信産業は国家によって管理されるべき発明として評価されるようになり、通信網の整備が推し進められていくようになった。ブータンにおける腕木通信のような視覚的な通信手段については、ネット上の資料や文献からは確認できなかった。(藤原,2020,p.60)
文書を用いた通信は、近代に入ってから“郵便”という形態で制度化されていくようになり、1840年にイギリスにおいて近代郵便制度が成立した⁴。その特徴としては、均一料金郵便制度と世界初の郵便切手が発行されたという点が挙げられる。英国において国営による郵便事業の運営は、そこから遡るここと2世紀、17世紀半ばの時点ですでに開始されていた。ところが、その時点での郵便事業は利用者によって料金体系が異なり、さらに国の財政事情によっても料金が変動する不安定なものであった。19世紀の前半には制度存続の危機を迎えていたのだが、ローランド・ヒルという人物によって制度の改革が進言され、一定の重量別による全国均一料金で文書を郵送するシステムが構築された。こうして英国における近代郵便制度は一定の評価を受け、重要な社会的インフラとしてヨーロッパ各国へと広まっていった。同時に、イギリス統治下のインドにおいても1850年代には導入が始まり、全国的な郵便網の整備が進んでいった。ブータンにおける郵便制度は、イギリスやインドにおける制度の導入から約100年後の1962年に導入されるに至った。制度の内容としては、1850年代時点のインドのものがそのまま導入されるかたちとなった。ブータンでは、郵便制度の導入以前から、飛脚制度によって行政文書などを伝達するしくみが出来上がっていたため、流通網は以前からのものがそのまま利用されることとなった。なお、ブータンにおける住所は現在に至っても厳密な住所の登録が進んでいない地域が多く、郵便の配達には私書箱が用いられている。
電信・電話などの電気通信は18世紀の時点ですでに技術開発が進められていたが、実用に至るまでにはならなかった。電信が技術開発の段階から実用化へと動き始めたのは、イギリスにおいて電信の特許が出願された1837年のことであり、その後、電信は一気に世界各地で普及していった⁵。1860年にはイギリスからインドまでが電信線で結ばれた。しかしながら、ブータンにまで電信網が通されるようになるには、さらに100年以上遅れてからのことである。ブータンにおいては、電信網とほぼ同時に電話網も整備されたため、相対的に電信の重要性は低くなった。その用途としては、多くが周辺の国からブータンへの打電などの国際通信であった。世界的には、電信はあくまでも行政の道具としての認識が強かったのだが、フランスではしだいに商工業や一般の電信利用が用途の多くを占めるようになり、民間への解禁が進んでいった。
19世紀後半の1876年には、アレクサンダー・グラハム・ベルによって、電話が発明され、音声による直接伝達が可能となった。この発明によって、伝えられる情報量はより多くなった。当初の電話利用者はアメリカ、イギリス、フランスなどにおける都市のビジネスマンに限られていたが、やがて個人の家庭や別荘でも利用されるようになった。20世紀に入って間もない頃は、仕事や家庭の用事を伝えるというのが主な使用用途であったが、電話が農村地域へも普及するようになってからその状況に変化が生じ始めていた。農村地域では主に、プライベートの日常会話に使用されることが多かった。電話が電信と比較して大きく異なる点は、都市郊外や農村地域へと利用が広がった点である。その背景にあるのは、電話を利用する際のハードルの低さである。電信では、記し、符号化し、熟練の媒介者によって打電される必要があったのが、電話では、ただ発話するだけで利用できたのである。この気軽さによって、子どもでも扱うことのできる道具となった。ブータンにおいては、固定電話の全国的な通信網の整備が片付いたとほぼ同時に携帯電話サービスが始まろうとしていたため、一般家庭に広く固定電話が普及することはなかった。
ラジオについては、20世紀初頭のアメリカにおいて、多くのアマチュア無線愛好家が試験的な放送をしていくようになる。ラジオ放送に早い段階から公共性を見出したアメリカのウェスチング・ハウス社によって、商業放送が始められた。その後3年のうちにアメリカ国内に150ほどのラジオ放送局が新設されたものの、その収益をどのようにして賄っていくかという議論も同時に沸き起こっていた。やがて、収入源を広告収入から賄うというスタイルが確立されるに至った。
音声に映像もついてくるテレビジョンの技術開発については、ラジオ放送が動き出した1920年代にはすでに進められていた。イギリス人のジョン・ジョジ-・ベアードは、1925年に世界初のテレビ放送事業を扱う会社を設立し、翌年には公開実験の成功に至っている。BBCがテレビ放送を開始するのは、それから少し時間を置いた1936年のことである。日本においても、1920年代後半にはテレビジョンの公開実験が行われていたのだが、激化する戦争の影響を受けて、開発はいったん中断される。日本においてテレビの本放送が始まるのは、NHKと日本テレビによる1953年の放送開始まで待たなければならない。
ブータンのテレビ放送はインターネット通信サービスの開始時期と同じ1999年にスタートしており、諸外国における経緯と必ずしも一致しない。その内実としては、国営放送1局だけでなく、世界各国の数十チャンネルがほとんど同じタイミングで放送が開始されている。よって、国内テレビ放送に加えて海外テレビ放送、さらにはインターネットが利用可能なものとなり、国民の選択できる情報メディアはそのときを境に一挙に解禁された。これにより特殊なメディア環境が形成されたと言える。
コンピュータ開発については、1960年代にはすでに大型のコンピュータ同士を結ぶネットワークが形成されつつあった。1969年には、アメリカ国防総省によって、コンピュータを結ぶネットワーク同士をさらにそれぞれ結び付けることで作られるひとつの大きなネットワークが構築され、インターネットの前身であったとされている。このネットワークはARPANETと呼ばれ、大学間や研究機関のあいだなどでの小規模なネットワークであったが、次第にその規模は拡大されていった。一方で1970年代に入ると、通信規格を統一しようとする動きが活発になり、世界規模の相互接続によるインターネットの構築が提唱され始めた。さらに1980年代後半から、1990年代にかけて民間のインターネット通信事業者が相次いで参入し、インターネットの商業化はより一層進行した。同時にヨーロッパ各国においても独自のネットワークの形成に向けた動きがあったが、1980年代後半にはアメリカのネットワークに代替され、世界共通のネットワークの形成が大きく進んだ。1990年代半ば以降になると、Yahoo!やGoogle、Facebook、Twitterなどのインターネットを主な事業とする巨大企業が次々と誕生した。
第2節 ブータン王国の概要
(1)地理と地勢
ブータンは南アジア地域のヒマラヤ山脈東部の南斜面に位置している。北側・国境線を中国のチベット自治区、南側はインドの西ベンガル州およびアッサム州、東側はインドのアルナーチャル・プラデッシュ州と接している。ブータンの西側とネパールとの間にはインドのシッキム州が位置している。このようにブータンは四方地続きの内陸国である。北の中国との国境は封鎖されている一方で、南のインドとの経済的なつながりが強い。近年は、インド文化の影響も多分に受けているが、元来ブータンは北に位置するチベットの影響を強く受けており、ブータンの文化の基層を成しているのはチベット仏教をはじめとするチベットの文化である。
チベット自治区と国境を接する北部には標高7000メートル級の山々が聳え立っており、南部との標高差は7000メートル程にもなる。ヒマラヤ山系から流れ出る川はブータン国内を急流となって駆け下り、やがてインド平原のブラフマプトラ河に合流し、ベンガル湾へ流れでる。ブータンの国土面積は3万8400平方キロメートルで、東西の幅は約300キロメートル、南北の幅は約160キロメートルとなっている。人口の多くが切り立った山々に囲まれた谷や丘陵地帯に集中している。国土の大半がモンスーンによる降雨が作り上げた急峻な山岳地形となっており、平野は極端に少なく、小さな渓谷や平野が国中に散在している。こうした地形であることから、季節や場所によって気温と降水量は大きく異なる。
(2)ブータンの言語・民族⁶
ブータンの言語は、「谷ごとに言語が変わる」という表現があるほど非常に多様であり、細かいものも含めればすくなくとも20以上あるという。国語・公用語はゾンカであり、ゾンの言葉(Kha)という意味である。ゾンは僧院・行政・軍事の機能を併せ持つ城砦という意味である。ゾンカ語は言語学の観点からみるとチベット語の南部方言として位置づけられており、基本的な文法や単語には共通しているものが多い。ところが、東部の主要言語であるシャルチョップ語は、チベット語とはまったく異なる言語と考えられている。
西部のゾンカ語、東部のシャルチョップ語のほかに、ネパール語、英語も広く使われている。英語は今では教育現場でも使われており身近な言語となっているが、主に読み書きができるのは若い世代に集中している。その他には、シッキム語、ケン語、バンタワ語、ザラ語、リンブー語、クルテップ語などがある。
ブータンの民族は大まかには、チベットから移住してきたチベット系住民であるガロン、主に東部に居住する先住民族であるシャチョッパ、ネパール系住民であるローツァンパ、その他チベット避難民やシッキム系等に分かれる。
(3)国の体制・人口
1907年の時点でいったん世襲王政が成立するものの、旧領主勢力や法曹界の抵抗も根強く、その体制が本格的に安定したのは第三代国王の時期からである。初代国王となるウゲン・ワンチュックは1907年の12月17日に多くの官吏や当時のイギリスの支持を受け、王に選出された。その後、ワンチュック王朝はブータンを代表する王朝となったが、それでも支配体制としては脆弱であった。依然として各地方にそれぞれの勢力が地方主権として残っていた。国王は1963年から68年の間に、土地所有政策、政略結婚、政治的役職の任命、五か年計画による権力集中などの政策により中央集権化を図っていった。
ブータンにおける王政は何度も困難な時期を経験してきた。王位を継ぐ嫡男の定義が曖昧で、世襲制の正当性を問われてきたのである。この問題は2008年における憲法改正によって明確に嫡男に関する規定が明文化されることによって、大きな改善がみられた。
人口は世界銀行データベースのサイトによると2020年時点で、771,612人であった⁷。
これは、2021年時点での新潟市の推計人口に近い値である⁸。
( 4 )宗教
ブータンにおける国教であるチベット仏教の分布は幅広く、チベットを中心として南のネパール、シッキム、ブータン、北にはモンゴル国、中国東北地方、東は中国の雲南、四川、甘粛、西はラダック地方にカシミールと、広範な広がりをみせている。そして、2021年現在ブータンは、チベット系大乗仏教の一派であるカーギュ派の中のドゥック派を国教と定める世界で唯一の主権国家である。ブータンにおいては、このチベット仏教が人々の価値観や社会的な倫理の源となっている⁹。
第2章 ブータンにおける情報化の経緯と現在の状況
第1節 情報化の過程Ⅰ 近代情報通信技術 導入期 1950~1990年代
ブータンにおいて情報化の発端となったのは、近代化が本格的に始動する少し前の1950年代に郵便制度が導入されたことまで遡る。世界で初めて郵便制度が導入されたのは1840年代のイギリスであり、ブータンではそこから遅れること約100年ではじめて導入されたことになる。なお、ブータンでの郵便制度はいわゆる英国式の近代郵便制度とは多少の差異があり、郵便切手代わりに、収入印紙が利用されていた。それまでのブータンでは、主に中央政府からの公的なメッセージを伝えるための伝達者が各地域に存在していた。
第一次五ヵ年計画(1961年~1966年)の際に、近代郵便制度の本格的な導入が始まった。その第一次期終了までに、ブータン全国に合わせて15の郵便局の設置が完了した。道路交通網の広がりとともに、郵便ネットワークの構築は進められ、各地に郵便局が置かれていった。ただ、道路整備の進んでいない地域では、以前から続けられてきた伝達者による配達という形が残っていた。
そして、1969年には万国郵便連合〔Universal Postal Union:UPU〕への加盟を果たし、国際的な郵便ネットワークにブータンが加わった。後の1982年にUPUの下部組織であるアジア太平洋郵便連合〔Asia Pacific Postal Union:APPU〕へも加盟した。さらに1993年には、Express Mail Servise〔EMS〕による国際スピード郵便の取り扱いを開始するに至った。このように、ブータンにおける郵便制度は徐々にそのサービスを拡大してきた。こうした郵便事業は最終的に1996年のときに、政府内の郵便・電信庁〔Division of Posts Telegraphs〕から独立・公社化し、Bhutan Postとなった。
郵便網の拡大とともに第一次五ヵ年計画内で進められてきたのが、電話・通信網の建設である。第一次五か年計画に次いで進められた第二次五ヵ年計画(1966年~1971年)の終了までには、首都ティンプーから玄関口プンツォリンを通り、インドの西ベンガル州シリグリまでを結ぶ電話交換・電信局が設置された。こうした電話・通信網の建設はインドによる管理から始まったが、1970年代ごろから徐々にブータン政府による管理へと移行した。そして、第五次五か年計画(1981年~1987年)の終わるころには、ティンプー-プンツォリン間だけでなく、西部ネットワーク、ブータン中央の中部ネットワーク、そして東端の東部ネットワークがそれぞれ各地域を結び完成した。ところが完成したネットワークはヒマラヤ山系から流れる河川沿いに東部、中部、西部と大きく三本に分断されていた。これらのネットワークどうしを繋ぐ通信は、電話交換手を介しインド経由の国際通信を用いる必要があった。なお、こうした通信網は主として政府機関が外国と公文書などをやり取りする際に用いられたものであり、民間での利用は観光業に携わる一部の者くらいであった。
1989年にそれまでの通信設備の老朽化も鑑み、全国ネットワーク網の整備をめぐり「電気通信開発計画〔Bhutan Telecommunications Development Plan〕」がITU(国際電気通信連合)からブータン政府に提示された。この計画が提示されたことを受け、日本政府によるODA無償資金協力プロジェクト(1991年~1998年)が立ち上がった。そのプロジェクトによって、ブータン国内の主要都市を網羅するデジタル通信方式の固定電話回線網の整備がスタートした。8年間のプロジェクト期間は1994年と1995年の間を境として大きく2つに分けられる。前半の1991年から1994年までの4年間で中部及び東部地域、またそれらの地域と首都ティンプーをつなぐ「国内統一通信網整備計画」が実施された。次いで後半の1994年から1998年までの4年間で、西部地域の通信網もデジタル規格に刷新された。
第2節 情報化の過程Ⅱ メディアの勃興 1960~1990年代
次にブータンにおけるメディアの黎明期を紹介していく。ブータンで初めてのメディアとして登場したのはKuenselという新聞が発行される1967年まで遡る。ただ、これは正確には新聞と呼べるものではなく、国家開発事業としての五か年計画の進捗状況等を伝えるものであった。発行頻度は月に2,3回程で、政府官報として始動した。
ラジオが始まったのは、1973年のことでNYABと称する若いアマチュアの有志らによって週に1回の放送がティンプーにおいて始められた。その内容は休日に娯楽としての音楽を届けるというものであった。その後ラジオ事業は、ブータン政府によって情報通信省の管轄下に入れられ、以降、国営放送事業の一部として運営されていくこととなり、放送の頻度も週に3回と増えた。その後1986年にKuenselとNYABの公社としての企業化に伴い、両社は次第にマスメディアとしての性格を帯びるようになっていく。次いで1992年にはそれまで公社であったKuenselとNYABは第4代国王の勅令によって政府から分離・独立した。そうした背景にはブータンにおける言論の自由度の向上や、プロ意識の醸成、社会から求められる責任を十分に果たすことなどであった。ただ、依然として政府からの補助金が支給されるなど公社の体質を残す形となっている。(同,p38)
こうしてみてきたように1990年代までのブータンは、小規模な新聞とラジオ、そこに人々の噂話が加わるという状態が続いており、口コミも重要な役割を果たしていた。一方、1999年に解禁されるテレビ放送は、1989年の時点で「電気通信開発計画」において言及があり、将来を見据えた放送解禁への準備が着実に進められていたと考えられる。
ブータン初の包括的な情報化計画として1996年に「コンピュータ化マスタープラン」という計画がブータン政府によって発表された。その計画の主な目的は、政府関係機関を中心とする国内各所におけるコンピュータの導入と、それを扱える人材の育成、さらにはLAN〔Local Area Network〕及びWAN〔Wide Area Network〕を用いた中央省庁のネットワーク化などであった。この計画は、1999年のインターネット通信サービス解禁に向けた下準備として有効なものであったと考えられる。(同,p.40)
第3節 情報化の過程Ⅲ 現代情報通信技術 解禁期 2000年代 前半
これまでも述べてきたように1999年という年はブータンにとって、極めて大きな転換点であった。とりわけ情報通信については、それまで通信手段の主流であった電信・電話からインターネットへと移行することで、それまででは考えられなかったほどの膨大な情報が海外から流入してくるようになった。しかしながら初期に限っては、利用料金が割高であったことによって民間人に広く普及することはなく、学校や政府機関などの公的な場所への普及に留まっていた。それでも子供たちや教員、政府関係者などを中心に新しいテクノロジーに触れる機会が増え、ブータンの社会は大きな変化をみせていく。
2003年の11月には、「携帯電話通信サービス」がBhutan Telecom傘下のB-Mobileによって始められ、各家庭へ急速に普及が進んだ。これによって、依然として普及が進んでいなかった固定電話はその時点でそれ以上浸透する可能性は低くなった。このサービスは2004年時点の人口普及率5.9%がピークで、それ以降は減少傾向が続いている。こうした状況の最たる要因には、山岳国家のブータンにおいて固定電話の設置費・維持費より携帯電話のコストのほうが比較的に安かったということが挙げられる。
インターネット通信については、2006年までにブータン国内の20県すべてで各県の行政・教育機関のLAN化が実施され、ネットワークを円滑にできるようにするための教育が推進された。そして、首都ティンプーでは省庁とそれに関連する企業らを結ぶ広域ネットワーク〔Thimphu WAN〕の整備が着々と推進された。そのほかに、インターネットカフェ35店舗、情報通信関連事業45社、民間情報通信教育機関19社が同じ2006年までに立ち上がっている。
さらに同じ年に、公社のBhutan Telecomが単一で運営してきた情報通信関連事業が民間企業にも解禁された。その結果、インターネット・サービス・プロバイダ事業〔ISP〕に、Samden TechとDruk comの2社が参入することとなった。なおこの両社が提供しているのは一般回線ではなく、ティンプー市内における企業への専用回線である。
携帯電話は、それまでの主流なメディア媒体であった新聞・ラジオ・テレビなどと比べても普及・浸透するスピードは圧倒的であった。この携帯電話の普及速度の早さの背景には、特定の言語や識字能力・リスニング力を必要とするそのほかのメディアと違い、通話の相手と会話さえできれば利用できるという機能の特性が関係していた。文献の記述によると、2007年時点においては携帯電話の使用用途の79.9%が通話と他の使用用途より群を抜いて高かった。通話の他には、メッセージ38%、ゲーム27.5%、音楽25.4%、カメラ23.3%、ラジオ22.8%、と続く。携帯電話もインターネットと同じように、2006年に民間の参入が解禁され、同年11月にはTashi InfoCommLimited〔TICL〕傘下のTashi Cellが営業ライセンスを取得した。こうした携帯電話・インターネットの登場がもたらした影響に比べ、電話・電信・郵便といった近代情報通信技術の影響は軽微なものであったとみることができるだろう。
携帯電話登場の一方でテレビの登場もブータンのメディア環境を大きく変えた。テレビの放送事業はラジオ同様BBSが担うことになり、1999年の解禁から間もない時期は一日2時間のみの放送から始動した。2006年の2月には放送時間が1日5時間まで拡大し、国内44か所で衛星中継が始まった。放送言語は主に、国語であるゾンカ語と英語が用いられている。国民の間におけるテレビの普及は少しずつ進み、国内の所有台数は2003年時点で約35000台、2007年の時点で47125台と推移した。また、2007年時点での都市部での所有率は79.4%、農村部では19.8%と大きな差が生じていた。
テレビの登場によって、新聞もより即効性を求められるようになり、Kuensel紙は2005年から週に2回の発行となった。新聞業界も民間の新規参入が促進され、2006年には民間のBhutan Times紙、Bhutan Observer紙が参入するに至った。
ブータンのテレビ放送において特に注目すべき点は、一気に世界中のメディアに接触できるようになったということである。この背景には、初期段階からケーブルテレビ方式を導入したため、インドをはじめとした30以上の外国チャンネルを視聴できるようになったという経緯がある。2000年代初頭のブータンメディアは、テレビ・ラジオはBBS一局のみ、新聞はKuensel紙のみと独占状態であったものの、実質的にはこのように世界の情報に触れられる窓口は広く開かれていた。
BBSによるラジオ放送は、テレビの導入以後の20世紀においても引き続き重要な役割を果たすメディアであり続けている。2021年現在に至るまで、国語であるゾンカ語に加え、英語、東部ブータンの主な言語であるシャルチョップ語、南部ブータンで多く話されているネパール語の4言語で放送を続けている。放送時間も少しずつ拡大し、2000年時点で一日9時間の放送で、2003年には一日12時間、2004年には1日15時間にまで拡大した。ラジオ受信機の数も徐々に増え、1997年時点で約37000台であったが、2006年の時点では約88000台まで普及が進んだ。とりわけ、農村部での所有率は62.8%となっており、都市部以外の地域では、依然としてラジオが主要なメディアであると思われる。そんなラジオも2006年には民間の参入が解禁され、最初にkuzoo FMというラジオ局が新規参入した。そのラジオ局では、Rigsarと呼ばれるブータンで独自に発展したダンス音楽や、西洋のラップ、ヒップホップ音楽をよく流したり、ラジオDJのくだけた言葉遣いを流したりして、新しい若者文化を発信する拠点となっている。(同,p.44)
次に、ブータン政府による情報化政策の変遷について述べていこう。2003年に情報通信省が設置され、ブータン政府の大きな方向性を示した「ICT政策〔ICT Policy for Bhutan〕」が発表された。そのなかで、次の五つの点を重点領域として定めている。新規産業の創出、コンテンツサービスの提供、情報通信のインフラ整備、ICT人材の育成、効果的な政策立案、の五点である。さらに、この発表の主眼として、ICTの持つ利点をうまく活用したうえでGNHを最大化するための効果的な手段としていくことが示された。
また、同年に「情報社会の展望〔Vision for Information Society〕」の発表がなされた。その発表の中では、情報社会をITやメディア、さらには文化までを包摂する広義の社会として捉えており、その社会を俯瞰した政策と計画の立案が目的とされている。ブータンらしいユニークな点としては、人々の間の口頭伝承すなわち噂話などの口コミを重要な伝統文化として保護するべきであると謳っている点が挙げられる。その中には神話や民話、伝説などの語り伝えられてきた説話も含まれている。
そして、同発表では、映画や出版などのコンテンツ産業に対して、価値基盤の形成に有効的な役割を果たし、読み書き文化の発展に大きく寄与すると高く評価している。その一方で、新しいメディアであるテレビとゲームは、若者を中心に人々に悪影響を及ぼし得るコンテンツとして警戒感をもって評価をしている。この時期から、現代情報通信技術の解禁によってもたらされた新しいテクノロジーのネガティブな側面での文化的影響が懸念されるようになってきた。そうした懸念はテレビやインターネットの解禁前から予見されてきたことではあるが、この時期になり問題が顕在化するにつれ、ブータン政府は対策を求められるようになってくる。(同,p46)
第4節 情報化の過程Ⅳ 現代情報通信技術の普及期
携帯電話はサービス開始当初、固定電話に代わる家庭用電話として一家に一台ずつ普及した。一方、インターネットの場合は家庭への普及は当初あまり進まず、ほとんどの利用者は学校や職場からのアクセスによるものであった。つまり、学校や職場においては比較的早い段階で通信環境の整備が進み、インターネットへのアクセスが可能となっていったわけである。人口普及率で言うと、インターネットは2008年の時点で1%にも満たない程度に留まっていた。その状況が変わり始めたのが、モバイルインターネット通信が少しずつ利用されるようになってきた2010年頃である。その頃から普及は加速し、2017年12月の時点で人口普及率93.1%にまで達した。モバイルインターネット通信が普及する一方で、同時点において世帯別のコンピュータ保有率は全体で17.7%、都市部では35.4%、農村部では7.9%に留まっていた。このことから、ブータンでは各家庭におけるコンピュータの普及はあまり進まなかったといえるだろう。
携帯電話については、2006年まで続いていたB-Mobileの独占状態がTashi Cellの参入によって解消され、2021年現在に至るまで、2社による競合状態が続いている。2009年12月の時点における人口普及率は47.9%であり、シェアはそれぞれB-Mobileが80.1%、Tashi Cellが19.9%であった。2013年の時点では、人口普及率が74.3%、そのうちB-Mobileが74.7%、Tashi Cellが25.3%、2017年の時点になると人口普及率が93.7%、B-Mobileのシェアは65.1%、Tashi Cellのシェアは34.9%となっている。(同,p.48)
2003年に始まった携帯電話サービスは、開通当初は2G回線が用いられており、3G回線が普及するようになったのは、2010年頃からである。この頃になると、ブータンにおける全国ネットワークはほとんど完成した。さらに2015年には、首都ティンプーで4G回線による通信サービスが開始された。これは、わずか10年ほどで諸外国の通信速度に追いついたということである。
ブータンの携帯電話端末の主な輸入元はインドであるが、2000年代ではNokiaやSamsungも流入していた。2010年代に入ってからは、Micromax、Intex、Lavaといったインドの携帯電話メーカーが台頭してきている。(同,p70)
これまで述べてきたように、多くの先進国と言われる国々が2世紀もかけて進めてきた情報化を、ブータンは半世紀ほどの期間で同様の水準まで達しようとしている。西アフリカの地域でトーキング・ドラムを操っていた人々が携帯電話を利用し始めていたように、ブータンをはじめとする第三世界の多くの国では、いくつもの中間の段階を飛躍して、ある時を境に最先端の通信技術を利用する人々が現れ始めている。こうした国々では、すでに外の世界において研究開発によって確立された技術が流入してくる、あるいはその情報通信技術を積極的に輸入するかたちで吸収していったという点が先進国とされる国々の歴史とは異なる点である。第三世界の国が独自の過程を歩んでいたところに、ある時から外部の技術が入ってくるという状況はどのような社会をかたちづくっていくのだろうか。
第5節 工業化なき情報化社会-リープフロッグ型の発展-
ここまでは近代情報通信技術の導入から現代情報通信技術の普及までのブータンの情報化の過程を振り返ってきた。ここからは、その歴史的過程が諸外国のそれとどのような点で特異であるのかを紐解いていきたい。近代化の過程は一般的に、道路交通網の整備や電化等の基礎インフラの整備が先行し、その後に電信や電話、そして最後にインターネットや携帯電話網の通信インフラ整備が進行する。しかしながらブータンにおいては、2021年現在に至るまで自動車道路網の整備が行き届いていない村や集落が存在している。同時に郵便の全国ネットワークも未だに完成をしていないというわけである。一方の通信については、電話や電信の普及率を飛び越えて、携帯電話の村落カバー率は100%を達成している。
これは、現代情報通信技術が郵便や自動車道路網、固定電話などの近代に生まれたインフラに先行して発展する逆転現象が生まれており、いわゆる「リープフロッグ型」の発展に当てはまると言えるだろう。「リープフロッグ型発展」とは、既存の社会インフラが整備されていない新興国において、最先端のテクノロジーが先進国の歩んできた技術発展を飛び越えて一気に広まることを指す¹¹。ブータンにおけるリープフロッグ型発展は、工業化を経ずに情報化すなわち現代情報技術の普及が進んでいる状態としても捉えることができるだろう。
これまでの多くの研究では情報化の問題はポスト工業社会を舞台として取り扱われてきたが、ブータンを研究の対象とした場合、その例から外れることになるというわけである。ブータンと日本などの先進国を比較すると、それぞれの国や地域における技術の導入過程は大きく異なっている。先進諸国において、現代の若者より上の世代が常に工業社会を経験してきたことに対して、ブータンにおける上の世代は本格的な工業社会を経験してきたわけではない。よってこのことから、工業社会から情報社会へと発展していく流れは必然的なものではなく、数ある社会発展の流れのうちのひとつであると言える。すなわち情報社会の前段階として、工業社会が成り立つという流れは絶対的なものではないということをブータン社会が例証したわけである。長い年月続いていた農耕社会あるいは牧畜社会に突如としてデジタル技術が登場して一気に浸透するということもあり得る。実際にブータンでは、「デジタル技術が生まれた時から当たり前のように存在する人々」という意味を持つ「デジタルネイティブ¹²」にあたる世代が近年誕生してきていると言える。
また、多言語国家であるブータンの多くの地域では、文字を持たない言語が使用されている。さらに印刷技術による活字文化の普及を待たずしてインターネットが普及した珍しいケースである。これは、マーシャル・マクルーハンが描き出した「グーテンベルクの銀河系¹³」をとばして、おおむね文字を待たない社会からマニュエル・カステルによって描き出された「インターネットの銀河系¹³」へと飛躍したと言えるだろう。マクルーハンは、「活字」の発明がヨーロッパ社会に世界観の革命ともいわれるインパクトをもたらしたことを明らかにした。ここで重要なことは、言語はそれ自体が「紙」や「電話」などと同じメディアの一種であり、音声か筆記か活字かといった言語の性質によって情報伝達の在り方も大きく変わってくるということであった。この点は、メディアがテレビやインターネットとなっても同じことが言えるだろう。つまり、ブータンの多くの地域では文字を持たない文化であったところにテレビ・インターネット、スマホなどの情報メディアが普及したというわけである。もちろん学校教育によって、文字を持つ国語であるゾンカ語や英語を若い世代は学んでいるが、ゾンカ語圏以外の地域では普段の会話に文字は伴わない。こうした環境に「グーテンベルクの銀河系」を飛び越して、「インターネットの銀河系」がもたらされたことによる影響は極めて大きかったと言えるだろう。
第3章 2つの映画からみるブータンの情報化
第1節 『ブータン 山の教室』
作品情報 製作年:2019年
上映時間:110分
製作国:ブータン
原題:Lunana: A Yak in the Classroom
配給:ドマ
監督:パオ・チョニン・ドルジ
あらすじ
ブータン北部のガサ県にあるルナナという実在の村を舞台に、若者の教師である主人公と子どもたちや村人との交流を描いたブータンの映画。ルナナは標高4800mの高地にあり、そこでの生活はブータンの首都であるティンプーと一線を画す。ティンプーでは、近代化によって現代的な生活環境が整いつつあった。一方のルナナの村は、電気はソーラー発電による軽微なもので賄われ、電波は通じない僻地であった。主人公の若者はそのギャップに戸惑いながらも、豊かさや生きるうえで大切なことについて学んでいく。もともとは、オーストラリアでミュージシャンになることを夢見ていた主人公であったが、長官からブータンで最も僻地にある学校へ赴任するよう言い渡され、彼はルナナへ向かうこととなる。一週間以上かけてたどり着いた村には、新しい先生と学ぶことを心待ちにしている子供たちがいた。
考えられること①
・夜のバーに集う若者たちは、賑やかな雰囲気で流行りの歌を歌い、楽しそうに語り合う。
・最近の若者は夜遊びして、昼は寝てばかり。(外国文化)
・若者の教員の離職率の高さ→公務員<ミュージシャン
・海外志向
・信仰心を持つ上の世代と持たない若い世代
・電波の届かない僻地 リープフロッグ型発展
この映画の冒頭は、主人公の祖母が「最近の若者は夜遊びして、昼は寝てばかり」と嘆くシーンから始まる。続くシーンで夜のバー・ディスコに若者たちが集って騒いでいる様子が描かれている。そこで歌われているのは英語による西洋風の曲である。これらの描写から学校教育による英語の浸透、海外のポップカルチャーの普及、街で夜遊びをするという習慣の定着が読み取れる。世界中の都市でみられる光景がブータンの首都ティンプーでも同様にみられるというわけである。
ここからは映画の内容からは飛躍するのだが、これまでもみてきたように近代化・情報化というのは中心である首都の都市部から始まっていく。その変化に伴い、若者たちがドラッグや犯罪に巻き込まれていくという流れは、ブータンの都市問題を語る際によく言われることである。その若者たちのルーツはどこかというと、多くは首都ティンプーではなく地方の農村である。首都のきらびやかにみえる生活は、テレビやスマホを通して、よりリアルで身近な世界として地方の若者たちの目に映る。都市の「魅力」は若者たちを惹きつけ、都会への人の流入を後押しする。こうした新しく首都に流入してきた若者たちに付随して語られるのは、就職難である。都会に移住したものの、職が得られずドラッグや犯罪に巻き込まれるという構図はよく社会問題として映しだされる。ブータンでは、インド人の出稼ぎ労働者が数多くおり、建設業を支えている。同時にブータンの若者は建設業の肉体労働をしたがらないというのは有名な話である。肉体労働をするくらいなら無職のままでいいというのが多くの若者の意見である。この無職のままでも気にしないというのは、ブータンの国民性と言えるかもしれないが、それが「就職難」を助長しているとも見ることができるだろう。
再び話を映画の内容に戻す。教員である主人公の海外志向や離職したいと思っているという設定は、実際のブータンの実情を反映したものである。それだけでなく、この映画は全体を通して、監督のパオ・チョニン・ドルジ氏がブータン国内を巡って見たことやそれぞれの地域の住民から聞いた説話が盛り込まれている。ドキュメンタリーとは言えないが、リアルの要素によって数多くのシーンが構成されているのである。よって、若い教員の離職率が高いことや海外志向が高まっているということも実際の事情を反映している。このうち、海外志向の高まりについては、海外の情報が多く入ってくるようになり、多くのことを知ることができるようになったことが関係していると言えるだろう。
次にこの作品から読み取れるリープフロッグ型発展について触れていこう。主人公である若者の教師が赴任を命じられたのは、「世界一の僻地にある」と作中において言われた学校のある辺境の村である。この村の子供たちは作中でも実際でも車を見たことがないという。作中で主人公と案内人がバスで一日、歩いて山を登って六日間かけてたどり着いたわけであるから、もちろん自動車道など整備されていないのである。主人公は村に着くまでに標高5240mのカルチュン峠を越える。ブータン国内でも多くの村に自動車道が通いつつあるが、目的地のルナナ村はブータン最北部のガサ県にあり、ヒマラヤの急峻な地形がその開発を阻んでいる。そこで昨今、その村へと物資を運んでいるのはヘリコプターである。これは映画の内容の外の話であるが、映画の撮影クルーが村を後にするのと入れ違いでやってきたのは、電波塔を建てる作業員たちである。その機材を運ぶ役目を果たすのが自動車ではなく、ヘリコプターである。この出来事は、固定電話を待たずに携帯電話、自動車道の開通を待たずに空からの輸送という二重の意味において、リープフロッグ型発展と言えるだろう。
第2節 『ゲンボとタシの夢見るブータン』
作品情報 製作年:2017年
上映時間:74分
製作国:ブータン・ハンガリー合作
原題:The Next Guardian
配給:サニーフィルム
あらすじ
ブータン中央部ブムタン県の伝統ある寺院の家族の物語。代々受け継いできた寺院の住職を務める父とその後継ぎとして一方的に期待を寄せられている長男のゲンボ、トランスジェンダーでありサッカーに救いを見出しているゲンボの妹であるタシが主な登場人物である。ゲンボは父から寺院を引き継ぐよう言われ、戒律の厳しい僧院学校に行くことについて思い悩む。妹のタシは彼女にとって唯一の理解者である兄に、遠く離れた僧院学校に行ってほしくないと願い、また厳しい戒律を受け入れない道もあると兄に助言する。父はゲンボとタシにそれぞれ、仏教の教えを守ること、女の子らしく生きることで将来苦労することなく暮らせると諭す。近代化の加速する現代のブータンにおいて、自分らしい生き方を模索する思春期の子どもたちとその子供たちの将来を案じる親の想いがぶつかり葛藤する様子がリアルに映し出されていく。
考えられること②
・スマホの普及
・Facebookで恋人探し
・廃れゆく僧院
・僧院教育ではなく現代教育を選ぶ子供たち
・家業を継ぐかどうか
・男根像文化 仮面舞踊
・娘に家の仕事をさせようとする父
・トランスジェンダーの娘
・サッカー文化
冒頭のシーンでスマホを巧みに操る兄ゲンボと妹タシが描かれている。舞台であるブムタン県の村は、首都でもなければ都市部でもない中央ブータンの一地方である。このことから、携帯電話が津々浦々まで普及していることがみてとれる。
長男ゲンボが友達とFacebookで女の子を探す場面も描かれた。また、ゲンボは妹のタシからもネットで恋人を探すことを提案されていた。これらの描写からブータンの社会では、思春期の男女の恋愛においてインターネット・Facebookが浸透していることが伺える。ゲンボの友達は、クラスメイトの女の子がネット上とリアルでは態度が全く違うことを指摘している。リアルの世界とは別にネット上の世界で別のアイデンティティ・人格を有しているということが読み取れるので、インターネット社会がいかにブータンに浸透しつつあるのかが伝わってくる。
第4章 外国文化の流入と情報化の影響
第1節 外国の情報・文化・価値観の流入
この節では、1999年のテレビ・インターネットの解禁を契機として、21世紀に入ってから外国の国や地域の情報・文化・価値観が流入してきた状況について記していきたい。かつては、主にインド製のものを中心として外国のビデオが流入し、レンタルビデオ屋がいくつも作られていた。しかしながら、昨今の外国情報の主な窓口はインターネットに取って代わられている。それに伴い、首都ティンプーを中心にインターネットカフェも数多くできた。
近年盛り上がりをみせているサッカー文化もブータンに浸透しつつある代表的な外国からの文化の流入の事例として挙げられる。サッカーは、テレビやインターネットの解禁に先駆けて流入した文化であり、サッカー文化をはじめとした西洋発祥の文化が着実に根付きつつある。そして、テレビなどのメディアは、サッカーを含む外来文化の浸透を後押しする働きをしていると言えるだろう。また、近年ではオリンピックの存在もブータン人にとって憧れの対象となりつつある。アーチェリーや柔道などの競技においてブータンの選手が東京オリンピックに参加したことは記憶に新しい。さらに、野球や柔道などの日本で馴染み深いスポーツの普及を目指す取り組みもあり、青年海外協力隊の隊員を中心に日本人による支援もお茶の水女子大や日本ブータン友好協会主催のブータンのセミナーにおいて確認されている。こうした事例からスポーツの普及は身体づくりや健康状態・栄養状態の改善を目指す理念によって進められていることも確認できた。スポーツ以外でも西洋のドラマや映画、韓国のKPOP、日本のアニメなども若者を中心に人気を博している。
よって、ブータンに流入してきている外来文化は西洋発のものだけでなく、アジアの周辺地域など多様化している。この現状を踏まえると、ブータンが一方的に西洋化していくことを案じ、外来文化の流入を食い止めようという発想すること自体がやや見当はずれの感を否めない。ただ、努力目標として他国の文化から良いものだけを選択し取り入れるということは目指す余地があるだろう。しかしながら実際には、流入してくる文化のひとつひとつを価値判断し、取捨選択するということは至難の業と言えるだろう。例えば、テレビというメディアを解禁するとしても、メディア媒体は選択できても入ってくるコンテンツをひとつひとつ選択することは難しい作業である。そのメディア媒体がインターネットとなれば、難易度はさらに跳ね上がり、コントロールすることは困難であるだろう。仮に、完全な情報のコントロールができたとしても、今度は国家による情報操作として国民に対する人権の問題が生じることとなる。
第2節 ブータンでみられる情報化の影響 概観
ブータンにおいて、情報化の波による影響と思われる現象や社会問題について概観していく。情報化や海外の文化の流入によって顕著に生じるのが人々の価値観や意識、考え方の変化だと考えられる。それまでの鎖国状態では考えられなかった外来の発想や考え方がブータンにも根付き始めるのである。その具体例をひとつ挙げてみる。
首都ティンプーを中心に男根像に対して羞恥心を感じる市民が増えてきた。ブータンに伝統的に根付いている男根像に対する態度の変化が首都を中心に確認されているというわけである。ブータンにおいては古くから悪霊退散のシンボルとして家の壁面に男根の絵が描かれてきた。ところが、情報化と同時に近代化が進行する首都ティンプーでは、このような男根画はめったに見かけなくなってきているようである。今でもブータンの地方では全国的にこのような男根画は多く残っている。それが首都においては消えつつあるということは、独自の文化・価値観を外部の影響から頑なに守り続けてきたブータンに大きな変化が生じ始めていることを示している。
ここでブータン社会における一つの変化の事例を紹介しよう。ブータンには、男根をめぐるある伝説が伝わっている。ブータンにおける男根文化の歴史はその伝説に起因している。その伝説の人物とは聖なる狂人とも呼ばれるチベット仏僧であり、名をドゥルクパ・クンレイ(Dulkpa Kunley)という。伝説によると彼は、15世紀から16世紀にブータン国中を放浪し、女性を誘惑する一方で悪魔と戦ったとされている。聖人としてブータンの人々から崇められているこの仏僧は空中浮揚や火吹きなどの奇術を使い、自分の男根を熱い鉄の棒に変えて女悪魔たちを撃退したという言い伝えが残っている。こうした言い伝えを踏まえて、地方部では家の壁などに悪霊退散や子孫繁栄などのために男性器の彫刻や絵画が今なお飾られたり、描かれたりしている。
先ほども述べたように首都ティンプーでは、こうしたものが近年ますます減っているというわけである。ショッピングモールやマンション、カフェやバーの建設ラッシュにより首都の景観は急激な変貌を遂げている。その都市部に住む人の態度は、近年顕著な変化をみせつつある。「近代化するブータン、男根像に『羞恥心』感じ始めた市民たち¹⁴」という記事によると、「ブータン研究センター(Center for Bhutan Studies)」の研究員ダショー・カルマ・ウラ(Dasho Carma Ura)氏は「ここの人びとは少し、恥ずかしさを感じるようになったようだ」、「都市の住民は、西洋において適切とされるイメージの方に、はるかに影響を受けている。こういったもの(男根絵)は他では見かけないですから」と発言している。
このようにそれまでブータン国内における価値観・考え方では、男根像やその壁画に対してネガティブなイメージは想起されなかった。ただ、外来の情報に触れることでブータン人自身の価値観や常識と海外におけるそれとの差異が誰でもわかるようになり、その違いは顕著に把握される。そして、自国の異質性や特異性を肯定的な観点より否定的な観点から捉えることが多くなったということが推測できる。本来、その国にしかない習俗やその国で独自に発展した文化というものは、それ自体として、評価されるべきものであり価値あるものとして尊重されるべきであると考える。
こうした海外の文化にコンプレックスを感じてしまう要因は何なのであろうか。伝統的な社会で古くから長い年月をかけて守られてきた価値観よりも、先に近代化を成し遂げた国からの現代的な価値観の方が価値のあるものとして映るということがひとつ考えられる。ただ、その伝統的な価値観と外来の新しい価値観の双方に対する態度は、世代や地域によっても異なる。もちろん是々非々で尊重するべきものと改めるべきものがあるのは事実だと考えられるが、全体的な傾向として海外からの現代的な価値観に大きく影響され始めるのは、ブータンの首都ティンプーという地域であり、そこに住む若い世代の者たちである。海外の情報や文化がまず初めに入ってくるのはその国の首都などの都市部であり、現代的な文化や新しいテクノロジーに難なく適応できるのは若い世代ということである。
第3節 情報化による社会の変化を首都ティンプーから着眼
ここで、先ほどから話に出てきた首都ティンプーに着目してブータンの情報化による社会的変化を論じていきたい。まず、ティンプー県の簡単な概要であるが、2021年現在の人口130,652人¹⁵で、面積は1,792㎢となっている。この広さは、日本における最小の県である香川県とおおよそ同じである。ティンプーを構成する民族は主にンガロンと呼ばれるチベット系の民族である。話されている言語は主に国語となっているゾンカ語である。ティンプーは近年急速に発展が進んでいるものの、一般的な一国の首都にみられる発展した都会のイメージとは大きくかけ離れている。北部には標高7千メートル級の峰々が聳え、季節移動型の牧畜業により標高5千メートル付近まで放牧地が広がっている地域もある。
ティンプーはブータンにおける政治・経済・文化の中心的な役割を担う地域であり、ほとんどの観光客は首都であるティンプーを目的地の1つとしている。ティンプー県の中央に位置するティンプー市の中心を走る通りの「ノルジン・ラム」には、大きなショッピング・ストリートが造られ、流行のファッションや食文化、音楽の発信源となっている。通りは南北に1.5㎞ほど伸びており、建物は高くても4階から5階建て程度となっている。また、すべての建物が伝統建築様式に則る義務があるなど今なお厳しい建築基準が敷かれている。こうした厳しい規制によって、昨今のように建築ラッシュが起きたとしても、街に佇むのはあくまでも伝統建築であり、独自の景観が保全されている。
ティンプー市の発展してきた経緯について最も重要な点は、その場所が本来人口の集中するような大都市ではなかったという点である。現在のティンプーの発展には、1955年の時点でブータンの首都としてティンプーが指定されたという出来事が大きく関係している。首都という役割を与えられた1955年以降、その役割を十分に果たせるよう戦略的に開発が行われてきたというわけである。1960年代に入ると、第一次五か年計画などの近代化政策と歩調を合わせるように発展してきた。西洋の技術による人工都市の形成という側面からティンプーを捉えると、ブータンの他の地域とは一線を画す計画された都市としての特徴が見えてくる。
情報通信技術の導入、情報化の歴史については先の章で詳しく記したが、ここではティンプーに着目して紹介する。情報技術が初めて導入される時点とその技術が全国各地に波及し実際に利用される時点とのあいだには大きなタイムラグが生じる。ブータンにおいて最先端の技術が真っ先に導入されるのは常に首都ティンプーである。1960年代に南部の国境を経由したインドまでつながる道路が開通して以来、物資や情報がいち早く届くのはティンプーであった。情報通信技術史には載らない裏の歴史として、1999年のテレビの“放送”解禁より前に映像受像機としてのテレビは1990年代の前半には出回り始めていたという。テレビ放送が解禁されてからはすぐにケーブルテレビが導入され、諸外国の数十のチャンネルの視聴が可能となった。
そして、携帯電話についても3G回線や4G回線を導入する環境の整備もスムーズに進められ、世界的なモバイルネットワークの水準に達していると言える。個人的な経験で言えば、2018年の東部ブータンを訪問した際に、行く先々でiPhoneなどのスマートフォンを所持している人々の姿が見られた。所持している人々は、主に観光ツアーのガイドや比較的若い世代であったと思われる。
こうしたテレビ放送やスマホによるSNSの利用を通して、ティンプーにおいて生まれた音楽やファッションなどのポップカルチャー全国へと発信される。その際、通信設備が整い電波が通ってさえいれば、僻地であっても自動車道が十分に整備されていない場合でも、首都にいるのと同じようにポップカルチャーや流行についての情報を受け取ることができる。それによって、地方で暮らす若者のなかでティンプーという「場所」のイメージが形成され、そのイメージが若者を首都ティンプーへと引き寄せる力として作用する。同様に海外の文化も、映画や音楽などを通してテレビやスマホを利用する地方の人々に伝わる。それに付随して、地方に住まう若者には、そうした海外の文化や最先端の流行をリアルに享受できるのは首都ティンプーにおける生活であるということもデジタルを通した実感として伝わってくるというわけである。
次に紹介するのは、参考文献から引用する地方に住む若者の声である。2011年、ハ県で暮らす22歳の女性の回答者は、「テレビで見た商品を欲しいという欲望が湧くことがあるが、夢に過ぎない。テレビの中のことは全てフィクションだと思う」と語ったそうである。これは、テレビを通して受け取る生活の状況などの情報が、自己の周りの生活とあまりに乖離し、同じ線の上としては考えられないということだと思われる。それだけ、首都ティンプーや海外の状況と地方における社会的・経済的・文化的状況にはギャップがあるということである。
同様に参考文献からの引用であるが、次のコメントは首都ティンプー在住の37歳男性の回答者の言葉である。「テレビで見た商品を買ったことはない、買おうと思ってもそこに行けないから。」(同,p209)これは、首都ティンプーと地方の町とのギャップではなく、ティンプーあるいはブータンそのものと外国との比較・ギャップが軸になるコメントだろう。当時のインドやその他の“発展した”国から流れてくる映像は、同じ世界の出来事としては受け止められなかったと考えられる。しかしながら、別の世界あるいは遠い世界で起こっている出来事であったのが、昨今では同じ国の首都であるティンプーにおいての出来事なったわけであるから、より身近となった“発展した場所”に行きたいと思うようになるのは自然なことかもしれない。
第4節 外来文化とどう向き合うか
先述したようにテレビ解禁より一足早くブータンに流入してきた外来文化の代表的なものとしてサッカー文化が挙げられる。こうしたサッカーをはじめとした、外来の文化は着実にブータンに根を下ろしつつある。この流れに対して、「ブータン社会は一方的に西洋化していくのだろうか」という考えも、西洋的な視点からの発想なのかもしれない。いざ、閉ざしていた門戸を開けば、荒波のように押し寄せる外来文化に対して、「いいもの」だけを選択することは至難の業だろう。この抽出の作業は、努力目標としては取り組むべきかもしれないが、実際は「いいもの」も「わるいもの」も入り混じって流れ込んでくるというのが現実だろう。取捨選択の判断は、その場所に住まう一人ひとりの個人に委ねられるが、どのようなコンテンツが選択されるかは、その土地や情報環境に適応できるかどうかに依拠してくる。
新しいメディア技術がそれまでにはなかった場所に根付き始めるとき、その悪影響を案じる声というのは、どこの地域の事例でも聞かれる。例えば、2000年の日本では「IT革命」という言葉が流行語大賞なったが、新しい情報通信技術やそれまでなかったメディアの悪影響に対する懸念が当時大きくなっていたという。ゲームのやりすぎによって「ゲーム脳」になるといった言説もあり、デジタルゲームの賛否をめぐって議論が噴出した。さらに、「ネット依存症」という言葉も登場し、インターネットは孕む負の要素というものはたびたび取り沙汰されてきた。インターネットの前は、映画やテレビも同様にその都度、批判とそれに対する反論が巻き起こっていた。
この流れと同様にブータンにおいてもテレビなどのメディアを通して、伝統文化や独自の価値観に影響が出るのではないか、という言説は2000年代半ばころから国内外で盛んに囁かれるようになったようである。それは、新しい技術への懸念と諸外国における情報化の先例の事実が実際にあったことが大きく関係していると考えられる。ただ、こうした議論のなかで懸念は表明されるものの、テレビなどの情報メディアを再び禁止しよう、という結論には至らない。当然のことながら、それは非現実的な道であるし、元の状態に戻るということはほぼ不可能である。いずれにしても、テレビという新たな技術の導入は遅かれ早かれ避けられなかったことであり、肝心なことはその技術とどのように折り合いをつけていくかということである。こうしたメディアとの向き合い方は、ブータンの政府関係者や一般市民は暗黙のうちに合意していた、と考えるのが妥当だろう。
ソーシャルメディアがブータンに登場したときも、公務員が出勤したらまずFacebookを立ち上げるということが問題視された。この事態に対して内閣府が、業務時間中のSNS利用禁止令を出すまでになった。しかし、ソーシャルメディアの負の側面を避けようとする一方で、その恩恵を享受しようする方策も同時に考えられるようになった。The Bhutanese紙のHarnessing Social Media for goodという記事に、2016年に施行された「ソーシャルメディア政策」を練り上げる際の試行錯誤を以下のように記している。
民主主義と市民参加の時代において、政策草案は、政府がソーシャルメディアを使用して、政策、法律、公共サービスの形成への市民参加を増やすことを目的としています。 これは、情報を共有および配布するためのソーシャルメディアのより伝統的な使用とは別のものです。(中略)この政策のもう1つの側面には、ソーシャルメディアの使用に関する非常に幅広いガイドラインがあり、基本的に、ソーシャルメディアのユーザーとしての市民は、すべての法律に従い、人々の権利を尊重し、正確で、思いやりがあり、責任があり、透明性があることを求めています。
出典:Harnessing Social Media for good – The Bhutanese
このように、新たな技術を政策や法律、公共サービスなどの浸透に役立てようとしていることが判る。さらに、ソーシャルメディアを使用する際にモラルを守ることの重要性を説いている。こうしたメッセージは、情報技術を糾弾するのではなく、正しく使い、よりよい社会の形成に役立てようという積極的な姿勢が伺える。
また、イギリスのBBCニュースの「How social media woke up Bhutan」記事には、ブータンにおける新たな情報メディアがポジティブな変化をもたらしていることに以下のように言及している。これは、ラジオDJである女性がメディアについて語ったことである。
仏教徒のブータンは、異議や批判がほとんどなかった非常に保守的な国であった。しかし、ソーシャルメディアは、ブータンの若者が自分たちの見解を表明し、変化を促す機会を与えている。(中略)ソーシャルメディアは大きな影響を及ぼした-ほとんどが良い影響である。私たちは国の内外で何が起こっているのかを知るようになっている。たくさんの情報が届いている。(中略)私の世代はインターネットとテレビで育った、そしてそれは私をより創造的にすると信じている。(中略)私たちの社会は保守的な社会だが、ソーシャルメディアプラットフォームのおかげで、今では同性結婚やその他のデリケートな問題などの問題が議論されるようになってきている。
出典:How social media woke up Bhutan - BBC News
また、ジャーナリストの女性は、「私たちは反対することを学んだ。」と述べ、それまでには異議を唱える文化はなかったと説明している。彼女によると、若者はますます
ソーシャルメディアを使用してネットワークを構築しているようで、若者たちは社会的、政治的問題を取り上げ、議論に参加し始めたと述べている。
たとえば、ブータンのストリートファッションというページがあります。そのページは非常に人気があり、ブータンの他の主流メディアよりも多くのフォロワーがいる。(中略)このページでは、ファッションから社会問題、政治まで、あらゆることについて説明している。若い世代は、彼らの目的を宣伝するためにソーシャルメディアを使い始めた。ブータンでは、政府や政治家を批判することにまだ慣れていない。
出典:How social media woke up Bhutan - BBC News
このように説明し、Facebookなどのソーシャルメディアがもっている影響力の大きさを物語っている。ブータンにおけるソーシャルメディア世代の若者たちが西洋的な思想との向き合い方を模索しながら、情報化の加速する現代を生きているということがこの記事から読み取れた。
第5章 アンケート調査
第1節 意識調査・満足度調査
ブータンの友人を中心とした知り合いにアンケート調査を実施した。意識調査では、17の項目、満足度調査では、8つの項目をそれぞれ設けた。
・回答人数 45人
・世代 10代…10.6%、20代…38.3%、30代…27.7%、
40代…21.3%、50代…2.1%、60代以上…10.6%
・性別 男性59.6%、女性38.3%、ゲイ2.1%
・出身地 東部…51.1%西部…14.9%南部…19.1%中央…14.9%
・専攻 文系…60%、理系…40%
・職業 学生、公務員、会社員、電気技術者、軍人、教師、研究員、政府職員、専門職等
◇意識調査:17項目
・近いと思うものを選択
<選択肢>
1まったく重要ではない
2あまり重要ではない
3重要である
4とても重要である
◇満足度調査:8項目
・7つの項目について、同年代の他の人と比較して5段階に分けて満足度を選択
・8番目の項目では、他の人の状態と比較することなく、回答者自身の幸福感について聞いた
◇満足度の選択肢
1 非常に不満
2 不満
3 通常
4 満足
5 とても満足
第2節 アンケート結果からの考察
アンケート結果から、インターネットの環境や情報、コミュニケーション、テレビやラジオ、コンピュータやスマホ、科学技術についてほとんどの人が重要だと考えていることが分かった。これは、情報化社会に対する社会的ニーズの高まりを反映していると言える。
しかしながら、都市で暮らすことに対して重要だと考えていない人の割合は約7割にのぼった。地方でも都市と同様に情報にアクセスできる環境が整っていることも関係しているのではないか。
さらに西洋文化と海外のポップカルチャーを重要だと考えていない人の割合も約7割にのぼった。情報化の進んだ現在の状況としては意外な結果だった。
そして、家族や友人との関係、伝統文化、国家の象徴、宗教や信仰については、ほぼ100%の人が重要であると回答した。これは、情報化はおおいに進行したもののブータンの伝統的な価値観が今もしっかりと息づいていることを示しているのだろう。
幸福度については約78%の人が幸せまたはとても幸せと回答した。
結論
本論文の目的は、情報化という現象によってブータンの社会やそこに住む人々にどのような変化が生じているのか、という問いに対する答えを出すことであった。長らく鎖国に近い体制を保っていた歴史を持つブータンは、1999年のテレビ・インターネットの解禁を契機として世界で最も遅く、そして20年という短期間で情報化の道を歩んできた。その過程は諸外国とは異なるものであった。郵便ネットワークや自動車道路網の整備、固定電話の普及に先行して、スマートフォンの普及が進みインターネットへのアクセスが自由になった。北部の僻地では、固定電話を待たずに携帯電話、自動車道の開通を待たずに空からのヘリによる輸送が行われている。まさにリープフロッグ型発展と呼べる逆転現象が起こっていた。このブータン社会の事例は、情報社会の前段階として工業社会が成り立つという流れは絶対的なものではないことを示した。さらに多くの地域が文字を持たない文化圏であったということも重要な留意点である。
情報化によってもたらされた代表的な変化としては、若い世代を中心に海外のポップカルチャーが浸透したこと、街で仲間と夜遊びをするという習慣が定着したことが挙げられる。世界中の都市でみられる光景が今やブータンでも同様にみられるようになったということである。インターネットは海外のポップカルチャーを吸収する窓口であり、若者を都市へと惹きつける装置でもあると言えるだろう。そして、若い世代を中心に海外志向が高まっていることも、海外の情報が入ってくるようになり、より多くのことを知ることができるようになった結果であるだろう。さらに恋愛のツールとしてFacebookなどのソーシャルメディアが大きな役割を果たすようになってきているということも情報化による大きな変化と言えるだろう。
人々が外来の情報に触れることによって、宗教的に男根崇拝の文化が根付いていたブータンにおいて男根像に対し羞恥心を感じ始めるようになったということも注目すべき変化である。従来のブータンにおける価値観ではネガティブなイメージは想起されなかったということから、海外と照らし合わせたときに自国の特異性を否定的な観点から捉えることが多くなったと考えられる。
一方で、アンケート調査では伝統文化や国家、宗教や信仰などの項目に対してほとんどの人が重要であると答え、肯定的な結果が得られた。男根像の事例にように一部の側面では、自国の独自性に対してネガティブになっていることもあるが、基本的にはいくら情報化が進もうと伝統的な価値観への信頼は揺るがないということがこのアンケート調査によって判った。
また、科学技術やインターネット環境、インターネットの情報、テレビやラジオ、スマホやコンピュータに対してもほとんどの人が重要であると答え、肯定的な結果が出た。テクノロジーによって、多くの恩恵、ポジティブな影響がもたらされているということの結果であると考えられる。当初は、ネガティブな影響に注目が集まると予測していたが、それとは反対の結果となった。これは、ブータンの人々が情報技術を糾弾するのではなく、正しく使い、より良い社会の構築に役立てようという積極的な姿勢、態度をもっていることの証と言えるだろう。
また、興味深かったのが西洋文化に対して、「重要ではない」・「あまり重要ではない」と答えた人の割合が68.8%、海外のポップカルチャーに対して「重要ではない」・「あまり重要ではない」と答えた人の割合が73.3%にまで上ったことである。これは、文献や映画から得られたイメージと大きく異なっていた。アンケート調査の回答者の出身地の傾向によっても若干の偏りはあるかもしれないが、これは意外な結果であった。テクノロジーは重要であるが、西洋の文化または海外のポップカルチャーにあまり重点を置いていないということが言えるだろう。加えて先ほどの伝統的な価値観への信頼は固いという結果も踏まえると、ブータンはテクノロジーを取り入れつつ、ナショナルな価値観は守っていくという姿勢が見えてきた。5段階の幸福度の調査では「幸せ」・「とても幸せ」と答えた人の割合が77.8%に上った。対して「あまり幸せではない」と答えた人は、2.2%であり、「幸せではない」と答えた人は皆無であった。情報化によって幸福度が急落したと語る言説が昨今で回っているが、本研究を通して実態としては必ずしもそうは言えないということが判った。
ブータンに激しい変化が起きていることは事実であるが、人々はテクノロジーとうまく折り合いをつけながら、その恩恵を享受している。国内外でなにが起こっているのかをリアルタイムで知ることができるようになったり、クリティカルな思考を持ち合わせるようになったりと、いくつものメリットも受け取っている。ブータンの人々は、情報化によってもたらされたテクノロジーや外来の価値観、考え方との向き合い方を模索しながらも、変化の激しい現代を逞しく生きているということが本研究を通して明らかになった。
今後ブータンの社会は、ますます情報テクノロジーによって世界との繋がりを強め、その距離はさらに縮まってくると考えられる。ただ、テクノロジーによって支配されるのではなく、テクノロジーを上手く使いこなしていくのではないかと予測する。また、海外の文化に受動的に染まっていくということもないだろう。あくまでも主体的に取り入れるべきものを選択し、同時に伝統的な価値観を大切に守りながら、情報化社会の荒波をかいくぐっていくのではないだろうか。本研究を通して得られた情報化の推移を日本に落とし込んで考えたとき、我々自身も主体的な姿勢というものが、この情報化時代に求められるのでないかと考えた。今や、情報化社会の真只中にいるという点では、日本もブータンも同じなのである。現在に至るまでの発展過程に大きな相違点はあるとしても、互いに自由な通信ができるというのが事実である。現に本論文のアンケート調査もFacebookを用いて、ブータン人の生の声を集めた。まさに、この論文自体が情報化という現象のうえに成り立っているというわけである。テクノロジーの恩恵を受けつつ、そのメリットを最大限活用し、これからの世界の情報化という現象を考える手立てとしていきたい。
脚注
(注1)GNH,ブータンの第4代国王が提唱した国民総幸福量という理念
外務省: ブータン~国民総幸福量(GNH)を尊重する国 (mofa.go.jp)(2022年1月11日取得)
(注2)トーキング・ドラム, 声調と韻律を模倣して遠距離の通信や、音で口承を行う[1]、西アフリカの太鼓の奏法 トーキングドラム - Wikipedia(2022年1月11日取得)
(注3)腕木通信, 18世紀末から19世紀半ばにかけて主にフランスで使用されていた視覚による通信機 腕木通信 - Wikipedia (2022年1月11日取得)
(注4)近代郵便制度,1840年にイギリスで始めて導入された 郵便 - Wikipedia(2022年1月11日取得)
(注5)電信, 電気による有線・無線を含めた通信全体を指す 電信 - Wikipedia(2022年1月11日取得)
(注6)ブータンの言語, ゾンカ語 - Wikipedia, ブータン - Wikipedia(2022年1月11日取得)
(注7)ブータンの人口,2020年時点で771,612人 Bhutan | Data (worldbank.org) (2022年1月11日取得)
(注8)新潟市の人口,783,422人であり、ブータンの総人口の近い値である 日本の市の人口順位 - Wikipedia
(注9)ブータンの各種概要,宗教に関する詳細(2022年1月11日取得)
(注10)リープフロッグ型発展, 既存の社会インフラが整備されていない新興国において、新しいサービス等が先進国の歩んできた技術進展を飛び越えて一気に広まることリープフロッグ型発展 - Wikipedia(2022年1月11日取得)
(注11)デジタルネイティブ, 学生時代からインターネットやパソコンのある生活環境の中で育ってきた世代 デジタルネイティブ - Wikipedia
(注12)グーテンベルクの銀河系, マーシャル・マクルーハンの代表的著作The Gutenberg Galaxy - Wikipedia
(注13)インターネットの銀河系,マニュエル・カステルの代表的著作 The Internet Galaxy - Wikipedia
(注14)男根像に関するウェブサイト,近代化するブータン、男根像に「羞恥心」感じ始めた市民たち 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News(2022年1月11日取得)
(注15)ティンプーの人口, 2021年現在130,652人Thimphu Population 2021 (Demographics, Maps, Graphs) (worldpopulationreview.com) (2022年1月11日取得)
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