回想録 17才まるで野戦病院
17才
戦後すぐに建てられた、当時はモダンな鉄筋住宅。このあたりで一番古く、また高い。
駅裏の目立たぬ場所にある3階建てで病院にあるような屋上が付いていた。
まるでここは野戦病院。ここだけは聖域であるという、たなびく旗がみえるようだった。
ふた部屋が向かい合わせになっているタイプの造りで、唯一の向かいの部屋には借金とりが頻繁に来ていた。怒鳴り声は筒抜けで、うちのドアも凹むほどには何度か蹴られた。
(まだ病院や学校の保護がある段階で、なぜこんなところに住んだのか疑問だろうし自分でも面白すぎるのだが。部屋を借りることが出来たのはそのお陰だ。それ以上、だれになにをしてもらえるわけでもないし、逆にこれくらいのところじゃないと身を置くことができなかった、そぐわなすぎて。家賃は手渡しで、2万円台だったと思う。わたしだけ、少し割り引いてくれていた)
ポストには、前の住人宛ての年賀状が1枚届いていた。
大家さんの話によると、彼は写真家だったみたいだ。「この部屋に住む人は出世するのよ」とも付け加えてくれた。
モノクロの写真に、元気ですか?と書かれたそれを、わたしは御守りのようにしばらく持っていた。縁起がいいから、とかじゃない。もの悲しい、近しいなにかを感じたからだ。
壁一面がボタボタと結露することを始めて知った。壁に触れたものはぐしょぐしょで、床だって伝ってそうだった。
洗濯機を置くサンルームはあるけれど風呂はない。そんなことはどうでもよかった。
使ってもいい水がある、台所がある、洗濯機がある。眠ってもいい場所があって鍵がある。
通院するという条件付きで。
部屋を借りてひとりで暮らすことになったわたしは、予想に反して、なおさら眠れなくなっていた。
ほそーーーーーーい糸の上でのバランスを、ふれてしまわないように。ふれてしまったら、戻ってこれるかわからなかった。
だからわたしは。
夜のあいだ中、ずっと玉ねぎを炒めていた。
切っては炒め、炒めては切っていた。
玉ねぎはすばらしい。比較的安価で、何時間でもいためていられる。そして消えそうなほどになる。こえていけ。こえていけ。このとてもあやうい時空間を現実として。
本当に、朝までずっと。
そして森永のガトーショコラを食べていた。
6個入りの箱なのだけど、『魔法のポケット』の歌みたいに、いつも絶対に増えていた。
(もはや幻覚だっていい)
ここを出ることが出来るのは、まだ人のいない、朝日が昇る直前だけだった。そして必ず始発に乗った。
そうでなければ。もう扉は開かないからだ。
そのわずかな瞬間を、逃さないことだけいのちをかけた。
乗車する駅が近くに変わったから、降車駅の駅員さんにはキセルだと思われていた。(お前わかってるんだからな!)という目で、長いあいだ睨まれた。
声をかけられた同級生には「引っ越したんだ、ひとり暮らし」と言ったけど、みんな「冗談〜〜またまた〜〜」なんて笑うから、わたしも一緒に笑っていた。
本当のことなんて。別にわからないものなのだ。その人が信じることが、本当になるだけなのだ。
みんなが文句を言いながら食べるお母さんの作ったお弁当の肉切れに、目を奪われてたまらなかった。
肉なんて好きじゃないのに。危機を察した本能の発動なのか。わたしって動物なんだなと思った。
教室には、もう入れなくなっていた。
あまりに世界が別すぎて。