検索エンジンを捨てて、まあ一杯やる
かつて、まだパソコンが一般的でなく、ファミコンが普及し始めた頃の話です。
僕たちオタクな小中学生は、それまでよくやっていたシューティングやアクション、スポーツなどのゲームでなく、ロールプレイングゲーム(RPG)という革命的なゲームがある事を知りました。
ドラクエ。家族がパソコン持ってる友達はウィザードリィとか。
それでもゲームなどおいそれと買ってもらえなかったので、代わりにゲームブックというのを読んでました。
それは文章の途中、戦う、逃げるなどの選択肢があって、戦うなら25ページ、逃げるなら30ページへと飛ばして読み進めるものでした。
今から考えると涙ぐましい発想ですが、それでも、パソコンが無くてゲームを作れないオタクな僕らは自作のゲームブックも作って楽しんでいました。
それからいくらか年月がたち、ハイパーテキストなんていうものによって、コンピュータ上で文章や絵が扱えて、さらにボタンひとつでゲームブックのように別のページへジャンプできるようになるのだと知り、ネットがまだ未来だった僕らは感動を覚えたものでした。
いま、現実も、ネットの世界も、少し息苦しくなったように思います。
人が溢れモノが溢れ情報が溢れルールが溢れると息苦しくなります。
ここではその原因を探して責めたてるつもりはありません。
そうではなく、もし息苦しいならこう考える事ができます。
検索エンジンを捨てて(ネット)サーフィンしよ。
かつてネットサーフィンという言葉がありました。
ネットで気のままハイパーリンクをたどって紡いでいく、
夜更けの物語。
料理を作るのが好きな人はこちらへ
ピアノを弾く人はこちらへ
サッカーが好きなひとはこちらへ
そんな分岐を気のおもむくまま辿っていくのがネットでした。
それがいつの頃からか検索エンジンが台頭し、ネットが、それぞれの思いを紡いでいく物語から、単なる辞書、データベースになっていった気がします。
辞書を読み物とする人もいますが、一般的には辞書は辞書です。
自分のメインストリートを行くべきです。
自分の好きな事だけではダメというのはまだ、犬に当たる棒が数本だった時代の格言です。
新聞やテレビ、本やアートや友達の、自分の想像していない刺激は大変結構なんです。
でも、ネットで調べ尽くす、SNSをあたり尽くすというのはちょっと違う気がします。
疲れちゃう。
好きな波に乗るサーフィンは楽しい。
興味のある内容の、名もなき人(でもこだわりを持って続けている人)のブログ( note もね )にはまだそんな楽しみが残っている気がします。
令和2年8月2日 8月なのに少し涼しいなつ