雑誌編集者への憧れと挫折とストーリーテラーとしての今
雑誌文化にどっぷり浸かった学生時代
――田中圭子さんはインフォバーンのコンテンツディレクターの中でも、「編集者」というイメージが強いですが、ずっと編集系のキャリアを歩まれていたんでしょうか?
いえ、もともと雑誌編集者を志望していたんですけど、新卒のときに出版社は落ちてしまったんですよ。最初は小売系のまったく違う仕事をしていました。
――昔から雑誌が好きだったのでしょうか?
「雑誌をめくる匂いが好き」というくらいに大好きです。初めて「雑誌って面白い」と気づいた時のことは鮮明に覚えていて、中学生だったと思います。マガジンハウスさんの雑誌『anan』で「紅茶特集」があったんです。今ならインターネットで紅茶の情報でもなんでもたくさん手に入りますけど、その当時は紅茶文化について掘り下げた情報なんて見たことなかったんですよ。
「いつもティーパックで入れているあの紅茶を、こんな風に淹れて、セッティングしたら素敵だなあ」「紅茶って、こんなにいろんな種類があるのか~」って感動して。小道具にまつわる話とか、イギリスの文化とか、そういうしたコラムも載っていて、何か生活を豊かにするもの、私の知らない文化が雑誌には詰まっていると。「文化の発信地」という感じで、本当に面白かったんです。
ーーわかります。「紅茶について知りたい」と買って読んだわけじゃなくて、一つの雑誌からカルチャーが飛び込んできた、という感じですよね。
そうです。ただ、紅茶の美味しい淹れ方を学ぶだけなら、そこまで感動しなかった気がします。道具とか、器作家のエピソードとか、それに付随するカルチャーも含めて伝えてくることにすごく感激したんです。当時、愛読していたのは『anan』とか『Olive』とか『BRUTUS』ですが、本屋さんやコンビニの棚をいつもチェックして、手当たり次第雑誌を読んでました。
『Olive』は、オザケン(小沢健二さん)のコラムを楽しみに楽しみに待っていました。たまに「90年代のあのキラキラってなんだったんだろう?」って思うことがあります。思い出すだけでもワクワクするんですよね。
ーー豊かな学生時代を過ごされていて、羨ましいです。
文化にどっぷり浸かってよし! みたいな。そんなにインターネットも普及してなかったので、やっぱり雑誌を通して文化に触れる時代だったような気がします。
――愛読誌がアイデンティティになるような。
そうそう。私はオタク気質なので、古雑誌を漁りに神保町とか中野とかの古本屋に行ったりしてましたね。
編集者からデザイナー、そして再び編集者へ
――編集者としてのキャリアは、どのようにスタートしたのでしょうか?
やっぱり雑誌に関わりたい気持ちが捨てられなくて、新卒で入った会社はすぐに辞めて、人に紹介いただいて編集プロダクションに入りました。ただ、一回そこで挫折しちゃったんです。
そこは、大手出版社が発行する雑誌の制作を担っている編プロで、憧れの仕事だったし、楽しいこともたくさんあったんですが、正直かなりハードな働き方でもあったんですよね。締め切り前に徹夜は当たり前で。とにかく「やって覚えなさい」という職場だったので、何をして良いかもわからないのに撮影現場を任されました。結果、秋に出る特集なのに、夏の陽の強さを感じさせるような撮影をしてしまったりとか…。今思い出しても、お腹が痛くなります(笑)。
「こんなにハードな仕事をずっと続けられるのかな」と不安になって…。そのころ、祖母が癌で余命が半年と知った時期と重なり、「最後の時間を大事に過ごしたい」と思い、退職しました。そこからは、ゆっくり仕事をしようと、派遣社員としてWebサービスのカスタマーサポートの仕事をしつつ、デザインの学校に通いました。
――編集ではなくデザインというのは、またなぜですか?
雑誌制作って、ライター、編集、カメラマン、デザイナー、スタイリスト、いろんな人が関わっているなかで、それぞれの方が何をやっているのか、学生のころは深いところまでは理解してなかったんですよね。「面白い」と感じる理由がテキストによるものなのか、写真によるものなのか、あるいはデザインの力なのか、まったく区別できていなかった。ただトータルで「雑誌が好き」っていう思いだけが強くて。
でも、読まずにレイアウトを眺めているだけで楽しい雑誌ってあるじゃないですか。「もしかしたら、私に『面白さ』を感じさせるものはデザインなのかな?」と考えて。その時期がWebメディアが出てくる時代にも重なって、次第にWebデザインをやってみたいなっていう思いが強くなってきたんです。もともと絵を描くのが好きで、PhotoshopやIllustratorを使ってデザイン的なことを趣味でしていたので、そこにちゃんと触れられる仕事に就きたいなと思っていました。
――そこから実際にWebデザイナーに?
そうです。派遣先の会社がとても雰囲気の良い会社で、社員に採用いただいたのですが、諦められなくて。同僚のデザイナーの方が立ち上げた会社に入れていただき、Webデザインの仕事をするようになりました。当時はまだWeb制作の分業も進んでいなかったので、構成を自分で考えて、デザインして、コーディングまでしていましたね。
その会社には7年ほどいました。前半はデザインが業務の中心でしたけど、社員が増えて会社の業務が拡大していくうちに、「田中さんは文章を書ける人だから、書いて」と頼まれて、徐々にコンテンツ制作の仕事に比重が移っていきました。最後はディレクター業務をしつつ、自分でも取材して、撮影して、記事を書いてという、今インフォバーンでやっているコンテンツディレクターのような仕事をしていましたね。
クライアントのお客さまの取材をしたり、企業サイト制作では社長から社員の方々まで話を聞いたり、メルマガに掲載するワインにまつわるコラムなんかも書いていました。私、ワインは飲めないんですけど(笑)。
ーーなるほど。編集者やコンテンツディレクターになる流れには、本当にいろいろな形がありますね。
そうですね。ただ、キャリアとして紆余曲折はあっても、雑誌に憧れていたころから変わらず「何かコンテンツをつくりたい」という気持ちは常に根底にあった気はします。だからこそ、コンテンツをつくるなら、本格的にやっていきたいという気持ちになっていって、インフォバーンに転職することにしました。
転機となったBtoB企業との仕事
ーーそこでインフォバーンに転職されたのは、なぜでしょうか?
インフォバーンから出ていた『MYLOHAS』という雑誌が、すごく好きだったんです。ヨガが今のように広まる前から、バンクーバーのヨギー二を特集したりしていて、めちゃめちゃ面白かった。それと、編プロ時代にもWebコンテンツ制作をした経験が少しあって、それもインフォバーンと関わりのある仕事だったんです。だから、縁があるなと。
ーー実際に入社してからの日々はどうでしたか?
もう10年以上前で入社当時のことはあんまり覚えてないんですが、ひたすら記事をつくる忙しい毎日を送っていましたね(笑)。当時と比べたら、今は確実に働きやすくなったと思いますよ。
そういえば入社してまだ2週間くらいのときに、先輩社員と4人で上高地に行ったことがありました。「山に行きたいね」という話が出て、「私も興味あります」と言ったら、「じゃあ、今週の金曜日に行こう!」と、まだ人となりすら知らない私も誘ってくれたんです。夜にみんなで会社を出て、車でちょっと寝てから、夜中の3時に星空を見て、朝から歩いた想い出があります。そういうフットワークの軽い人がたくさんいるイメージで、面白い会社だなと感じていました。
ーー業務上で、それまでと違いを感じることはありましたか?
感覚の差のようなものは特に感じなかったです。ただ、前職ではとにかく制作だけに集中していて、仕事を外注することもほとんどなかったので、予算管理とかはあんまりやったことがなかったんですよ。だから、インフォバーンでは、しっかりと予算を組んで、ここに使うのは何パーセント、ここまでの自分の稼働率はどれくらい、と原価管理がちゃんとしていたことが印象深いですね。
ーー案件としては、どんなことをご担当されていたんでしょうか?
インフォバーン歴の前半は主にBtoCのメディアを担当していました。でも、目の前の仕事に追われている感じで、自分自身で振り返っても、「本当にこれでいいのかな」と迷いがある状態だった気がします。それが変わったのは、担当案件がBtoCからBtoBに移ってからでした。
初めて担当したBtoB案件は、その会社の考え方や業界の最先端の動向を発信して、ソートリーダーシップ(※特定の分野で革新的なアイデアを出し、その分野における先導者となること)を醸成するメディア制作でした。世の中のマインドから変えていこうとするコンテンツ制作が新鮮で、その案件を担当して1年くらい過ぎてから、少しずつ仕事に自信が持てた感覚があります。
ーー何かきっかけがあったんですか?
本当に個人的な体験でしかないんですけど…。その案件の取材で、海外イベントに行かせていただいたんです。日本にはまだ上陸していなかった最先端のWebサービスを体感したり、世界中の方が集まる熱気を感じたりと、とにかく刺激的でした。
イベントでガツンときていたうえに、その後に有給を取って寄ったロサンゼルスもまた面白くて。ちょうどミュージカル映画の『ラ・ラ・ランド』を観たばかりで、「もう絶対にあの場所に行くぞ」と思って寄ったんです。
ーーああ、オープニングのシーンで、車が渋滞している高速道路とか。
まさにその高速道路を通って、ロサンゼルスに入りたくて(笑)。映画のストーリー的にも、あの高速道路からロサンゼルスに入るのが礼儀だと。だから、空港からホテルに向かう時に、Uberの運転手の方に「遠回りしてお金がかかってもいいから、あの道を通ってください」って、たどたどしい英語でお願いしました。
そのころは、Uberのサービスがまだ日本に来る前で、配車アプリも初めて使ったんです。担当メディアで取り上げたことはあったので、「これがUberか」って思いながら、「英語通じるかな」とか「アプリで示す以外のルート行ってくれるのかな」とか、不安を感じつついざ乗ったら、めちゃくちゃ楽しい体験になりました。
運転手の方がゆっくり話してくれたし、ドジャースファンで野球の話もいっぱいして。もちろん目的の高速道路も通っていただけたので、すっかりUberが気に入って、その後1日で6、7回乗りました。
ロサンゼルス中のいろいろな場所に行って、運転手さんと話したり、乗り合いの方から「これからビバリーヒルズでパーティーがあるんだ」とか話を聞いたりしているうちに、なぜか「人生、どうにかなるな」ってパーッと視界が開けてきたんですよね(笑)。
世の中には知らないことがいっぱいあるし、私にできることももっといっぱいあるんじゃないかなって。……ほとんど仕事と関係ない、脈絡のない話で、すみません(笑)。
ーーいえいえ。それは仕事にとどまらず、人生を変えるような体験ですね。
本当に良い転機となったお仕事でした。そのころに学んだ経験を活かして働くうちに、徐々に「BtoB案件なら田中圭子に任せよう」と社内でも信頼してもらえるようになった気がします。そもそも私は、BtoBの仕事のほうが、BtoCよりも向いていたのかもしれません。
ーーその向き/不向きというのは、どういうところにあったのでしょうか?
BtoCでは新鮮な企画とか、インフルエンサーを起用するような企画とか、広くたくさんの人に読まれるコンテンツをつくるアイデアが求められる場面が多い一方で、BtoBはじっくりストーリーを練るコンテンツづくりをする傾向があるので、そこが私に向いていたのかなと。
たとえば、会社が持っているビジョンや理念を形にするときに、ただ直接そのものを宣伝するのではなく、それに関連したテーマで取材したり、対談企画を組んだりしますよね。そこで、識者の考えを会社のビジョンに結び付ける切り口を探したり、専門家同士を組み合わせた対談の想定シナリオをつくったり、BtoBマーケティングでは特にそうしたストーリーラインを考えることが多い。私はそちらのほうが得意なのかなという気がします。
インフォバーンは企業と読者をつなぐストーリーテラー
ーーインフォバーンのコンテンツ制作に関しては、どんな良さを感じますか?
クライアントの方と同じ船に乗って、コンテンツをつくることができるところでしょうか。一般的なメディアだと中立的な立場をとる必要もあって、そうしたコンテンツづくりはなかなかできないように思います。
企業としての状況とか、社内での交渉とか、部署同士の関係性とか、そうしたことまで共有していただいて、「じゃあ、この部署の方に登場してもらうには、こういう取材依頼書をつくって持っていきましょう」などと提案することもあります。もちろんクライアント企業が信頼してくださっているからこそなのですが、仲間として舞台裏に入れていただいているような感覚があります。
そのうえで、社会の潮流や読者の心理を想像して、企業と読者をどうつなぎ合わせるかを常に考えています。そのつなぎ合わせるものこそがストーリーだと思うので、インフォバーンはそのストーリーテラーの役割を担っている形ですね。それはBtoBの案件でも、BtoCの案件でも、同じことをしていると思います。
ーー最後にメッセージとして、どんな方がインフォバーンが向いているか、どんな人に入ってほしいか、ぜひお考えを教えてください。
柔軟な方ですかね。自分がやっていることに自信はあっても、「本当に正しいのかな」といつも自分に問いかけられる人。
ある程度キャリアを積めば、「このやり方でやってきた」という自信があると思うんですが、発想を変える必要がある場面も必ず出てくるじゃないですか。その思考回路のスイッチを、柔軟に変えることができる。「とりあえずそっちの考え方でもやってみようか」と切り替えたり、試してみたりできる柔軟性ですね。
あと、やっぱりコンテンツが好きでたまらない人。コンテンツが好きで普段から触れていないと、制作の引き出しが少なくなってしまうので。いろいろな記事、WEBサイト、本、映画、イベント、なんでもいいんですが、好きなコンテンツがたくさんあって、かつ、それらをアップデートし続けられる人は、インフォバーンの仕事も合うと思います。
だから、コンテンツが好きで、自分の「好き」や「強み」をインフォバーンの人に共有しつつ、他のメンバーが持っている「好き」や「強み」を吸収できるような柔軟性を持っている人が、来てくださると嬉しいですね。