Automationの系譜

この記事にたどり着く人間は皆同志である。

 同志諸君、今日も元気にAutomationしているだろうか。
 かく言う私は、3月のMHriseの発売までのつなぎである1月発売のディスガイア6発売までの時間稼ぎのつもりに年末に購入したswitch版『東方の迷宮』がまだまだ終わらず、ついにディスガイア発売に割り込んでしまうまであと数日であり、決してAutomationできていないどころか、積みゲーが増えていく始末である。
 なんなら東方の迷宮は過去にPC版で2度購入しており、今回swtich版で3度目の購入である。こんだけ素晴らしいゲームなのに作者の「3ペソ」大先生のtwitterのフォロワーは2000人足らずである。みんなもっと広めてくれ。

 さて、Automationに話を戻そう。
 我々は過去、minecraft 工業化modにより新時代の到来をその身をもって経験している。

あなたは、あのときの感動を覚えているだろうか?

 きっと我々の多くはゆっくり実況動画で工業化modの存在を知り、これまでのminecraftと大きく違うゲームプレイに驚き、これまでにない高揚感を覚え、build craftとindustrial craft2を見つけ出し、時にはforestory for minecraftに手を出し、数多の大地を更地にしてきたことだろう。数十、数百時間を費やし、ついには空をも飛べるようになったころには、Automationに飽きてしまった諸兄もいたかもしれない。
 しかし、気が付けば新たなワールドにGregの文字を刻んできた諸兄しかここには辿り着いていないことは百も承知である。
 こうして、これまで世界を救うため冒険の日々を過ごしていた勇者も、設置される爆弾を解除するために罵詈雑言を吐いていた軍人も、暗黒の時代に羊を食い畑を作り時には初心者プレイヤーにTRをかけていた指導者も、市民からの果てのないクレームに日々対処していた市長も、我々はAutomationという新たな世界を共に歩むことができるようになったのだ。
 はじめに神は工業化modを創造された。
 しかし、神は工業化modでは飽き足らず、勇者も、軍人も、指導者も、市長も、すべての人類は旧人類であったことを民に知らしめたのだ。

次に神はFactorioを創造された。

 エポックメイキングという言葉がある。文化人類史上、最古のエポックメイキングは紙の発明であろう。これは、Civの技術ツリーからも明らかであり、紙の発明なくしてはガンジーも軍事勝利を目指さなかったことだろう。 
 エポックメイキングであることは、その時代において最大の賛辞であるといっても過言ではない。まさしく新時代の到来を予感させる発明にこそ、エポックメイキングであると銘打たれるべきである。
 過去人類は幾度となく新時代を切り開いてきた。その陰には常にエポックメイキングたりえる発明があったことは言うまでもない。紙、方位磁針、火薬、活版印刷、蒸気機関など挙げだしたら、枚挙にいとまがない。記憶から記録に、陸路から海路へ。もちろん、紙の発明に至るまでの数多の発明や発見を無視してはならない。それらなくしては新時代は到来せず、それら先達の轍をもってエポックメイキングが生まれることに異論はないだろう。

 Factorioの存在が神の存在の証明である。
 読者諸兄にとっては釈迦に説法であることは重々承知であるが、Automationを語るにはこのことを語らざるを得ない。
 まさしくFactorioこそエポックメイキングである。
 神は存在する、そのこと自体を疑うものはいない。しかし、神はなぜここでFactorioをご創造なされたのか、時期尚早でないか。工業化modからFactorioへと時代が切り開かれたわけである。あまりにも大きすぎる飛躍。新時代の到来に歓喜こそすれ、嘆くことなどなけれども、Factorioの存在によってAutomaitonという世界が決定づけられたのは言うまでもなかろう。
 Factorioの誕生により、新たな世界が訪れた。それまでは1つのジャンルとして確立さえされていなかったAutomationの世界に、数多の泡沫Automationが生まれては消え、新陳代謝が繰り返された。我々も数多の泡沫Automationをプレイしては口をそろえてこう言うのである
 「Factorioでいいや」

 神はこの世を2つに分けられた。
 Factorioか、そうでないか、である。

 神は不完全である。不完全だからこそ、完全なる存在を求め、自らの姿を似せた人類を作った。しかし、人類は神よりも完全には程遠い。それはまるでFactorioに似せて作られた数多の泡沫Automationのように。
 こうして我々はFactorioに感謝をしながら日々を過ごしており、Factorioがあるからこそ今こうして日々を生きている。Factorioがなければ、スパゲティに苦しめられる日々もなかった。Factorioがなければ、中間素材のための中間素材のための中間素材の量産のための資材の量産のための生産設備の強化に悩まされる必要もなかった。しかし、Factorioがなければ、メインバスの多幸感を得ることもなかった。Factorioがなければ、ベルト輸送による閉塞からのbotによる解放感もなかった。
 もう一度言おう。今の我々はFactorioがなければ生きていないのだ。

 バニラで数百時間を費やしたゲームがどれほどあったろうか。数多のModにより多彩なゲームプレイが行われ、そのたびにFactorio2、Factorio3をプレイしてきた我々である。Factorioに感謝し、日々を過ごしている我々である。しかし、…しかし、人類は…罪深い。Factorioに日々感謝をしている我々であろうとも、やはり人類の業からは逃れられないのである。

 FactorioではないFactorioがやりたい。

 数多の泡沫Automationのことではなく、我々がプレイしたいのはFactorioである。しかし、Factorioではないのだ。我々はFactorioに生かされていることを知りながら、Factorioの支配から逃れようとしているのだ。実に愚かである。我々はFactorioに支配をされながら、数多の泡沫Automationをプレイしては「Facotrioでいいや」とのたまう愚かな人類である。しかし、これが人類を人類たらしめた『欲望』の力であろう。
 しかし、神は人類を見捨てなかった。

 次に神はdyson sphere programを創造された。

 新時代の到来を予感させるdyson sphere program。Factorioに囚われていた人類たちが口をそろえて言うのである。
 「これは次世代のFactorioである」
 果たして、dyson sphere programは数多の泡沫Automationではなく、新のFactorioになれるのか。新たな時代が訪れるのだろうか。

 これまでAutomationという世界は、ローグライク、メトロイドヴァニアのように『Factorio』で形容されてきた世界である。Factorioが一時代を築き上げ、Automationという世界を作り上げた、まさしくエポックメイキングであることは後世の歴史家たちが証明する。その歴史書に工業化modが刻まれ、Factorioが刻まれることに疑問はない。Factorioから、新時代のFactorioの誕生までの間に、数多の泡沫Automationの存在を匂わせる記述になることにも疑問はないだろう。
 『dyson sphere program』は新時代のFactorioとして刻まれるのだろうか、それとも数多の泡沫Automationとして時代の波に埋もれていくのだろうか。

 我々は、極めて幸福である。
 長い、長い人類史の中で今この時代を生きているのは我々のみである。
 工業化modの誕生をこの目で見てきたのは我々のみである。
 Factorioの誕生をこの目で見てきたのも我々のみである。
 後世に伝えることのできなかった数多の泡沫Automationの名前を知っているのは我々のみである。
 そして、今、1つのAutomation『dyson sphere program』の行く末を見つめることができるのも我々のみである。

 歓喜しよう。

今、この刻を生きていられることに。

 感謝しよう。

今、dyson sphere programがプレイできることに。

 祝福しよう。

今、人類がこの時代を生きていられることに。

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