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文化の交わる場所

今回のメインの写真は「酒津の秋」
児島虎次郎の作品です。

酒津は児島がベルギー留学後、結婚しアトリエを構えた場所です。これは作品の一部分で、真っ赤な紅葉が目に飛び込んできたかと思うと、画面下にほんのささやかな大きさで妻の友と長男の虓一郎であろう親子が描かれています。この親子の存在に気付いたとき、この絵がお気に入りの1枚になりました。






ベルギーと日本
光をえがき、命をかたどる





こんにちは。
高梁市成羽美術館に行ってまいりました。

安藤忠雄設計の高梁市成羽美術館


以前、大原美術館の記事で紹介した通り、児島虎次郎はわたしの大好きな画家のひとりです。


この高梁市成羽美術館は、郷土作家の児島虎次郎の調査研究をしています。高梁市成羽美術館にはモネのジヴェルニーの庭から株分けされた睡蓮が咲いており、館が児島虎次郎を大切にしていることが感じられます。今回は成羽から児島虎次郎について書いていきたいと思います。


会場入口から見えるジヴェルニーの庭の睡蓮


この展覧会は洋画家の児島虎次郎を調査研究している高梁市成羽美術館、同じく洋画家の太田喜二郎を初めとして滞欧米期の画家の作品を収集している目黒区美術館、彫刻家の武石弘三郎を地元収蔵作家としている新潟近代美術館の共同開催で、既に目黒区美術館での展覧会を終えています。

この3人は、芸術家たちが留学先としてフランスを選ぶのが主流だった当時、ベルギーに留学した共通点のある芸術家です。この3人をきっかけに近代ベルギーの美術が如何に日本に受容されていったを見ていきます。

メインビジュアル

ベルギーというとボスやブリューゲルなんかをぱっとイメージするのですが、近代というと作家や作品がすぐに出てこないのでどんな内容なのだろうと少しわくわく。

今回はとてもボリュームのある主題であるため、大好きな児島虎次郎とそして今回印象に残った太田喜二郎のふたりがベルギーでの学びを通して何を得たのかということに焦点を置いて書いていきたいと思います。 





光をえがいた人びと



19世紀末はアカデミーから解き放たれた様々な芸術が、各地で生まれた時代でした。印象派や新印象派、そしてその影響を受けた近代ベルギーの画家たちは白馬会の紹介を通して知られるようになります。白馬会は、ラファエル・コランから外光派を学んだ黒田清輝や久米桂一郎らを初めとする画家が率いる洋画団体です。洋画家を目指す児島虎次郎と太田喜二郎は、東京美術学校に入学し、白馬会で彼らの薫陶を受けたのでした。

しかし、黒田らは印象派をあくまでも技法のひとつとして捉え、否定的な立場だったようです。同時代の日本画家にとっても西欧留学や印象派たちは憧れだったことをよく耳にするので、洋画壇の黒田らがそういった立場にあったことに少し驚きました。いやもう勉強不足。

黒田清輝や久米桂一郎も出ていたのですが、観るのに夢中であまり写真を撮っていませんでした……


「窓辺の夫人像」
太田喜二郎(1911-1912)
京都府(京都文化博物館管理)


そんな黒田は、大人しく温厚な性格の太田に、卒業後の留学先として当時主流であったフランスではなくベルギーを勧めます。太田はフランス語を学んだあと、卒業後の1908-1913年のあいだ留学しました。



「和服を着たベルギーの少女」
児島虎次郎(1910)
高梁市成羽美術館


一方、児島は大原の奨学生となりフランス語を勉強する傍ら、東京美術学校に入学します。そして研究科2年のときに黒田に勧められた勧業博覧会の出品で無名にも関わらず一等を受賞し、それを喜んだ大原孫三郎に留学許可を得て1908年から5年間留学します。


児島は黒田同様ラファエル・コランに指導を受けます。しかし児島は腸チフスにかかり生死の境をさまようなど憧れだったパリに馴染めず、パリ郊外のグレー村で療養したあと、太田を頼ってベルギーのゲントへ向かいます。既にゲント王立美術学校に入学していた太田の紹介で児島も入学し、ふたりはエミール・クラウスに指導を受けます。

ふたりはここで近代ベルギーのルミニスムを学んだのでした。



「フランドル地方の収穫(部分)」
エミール・クラウス(1904)
姫路市立美術館


ルミニスムの指導者、エミール・クラウスはもともと写実主義の影響を受けていた画家でした。しかしパリを訪れたことをきっかけに、モネら印象派の戸外の光を描くことを意識するようになり、ルミニスムグループ「生命と光」を結成します。ふたりはこのクラウスを尊敬し、熱心にルミニスムの技法を学びました。

色が綺麗で部分ばかり拡大して撮っていて、全体写真がない痛恨のミスです〜すみません〜。もともと記事を書くつもりがなくて図録買うからいいやと思って……図版じゃ確認できない筆致をお楽しみください。



お次は今回の展覧会、お気に入りの一枚です。

「連馬」
ジョセフ・デルヴァン(製作年不詳)
大原美術館

大原にあるということは、児島が気に入って持ち帰った作品なのでしょうか。

ジョセフ・デルヴァンはゲント王立美術学校の校長で馬を主題とした作品を多く残しています。ふたりはデルヴァンに特にデッサンを習いました。デルヴァンは前衛美術集団の「二十人会(レ・ヴァン)」の創立メンバーであり、「自由美学」にも参加していました。


クラウス、デルヴァンとの出会いは太田と児島の芸術に大きな影響を与えました。児島はデルヴァンから指導を受けたことをきっかけに筆致を残す描き方に変えたと言います。

ふたりの日本の留学生とふたりのベルギーの師との交流は生涯続きました。



またデルヴァンは児島と太田が絵の批評を受けた際に「西洋の技術を得るだけでなく、長い美術の歴史のある国に生まれたことは君たちの特長なのだから失わないよう用心すべきだ」と伝えています。

クラウスも遠からぬ意見をもっており、西洋画を描きながら東洋的なモチーフを含んだ作品を多く残した児島にとって印象に残る言葉でもあったことでしょう。

ベルギーは1830年にオランダから独立した若い国でした。異文化を尊重した指導者の寛容な言葉は、長い歴史を持つ東洋の島国との関わりの中から生まれた言葉かもしれません。そうしたベルギーでのかかわりのひとつひとつが児島や太田を変えていったのでしょう。






光の中のふたり




左:児島虎次郎 右:太田喜二郎


児島は東京美術学校で太田の1年先輩でしたが、留学前のふたりの関わりを知る資料はほとんど見つかっていません。しかしながら、児島の日記等残った資料を見る限り、留学中に仲を深め、親しい間柄であったことは確かなようです。


「川辺の風景」
児島虎次郎(1909)
高梁市成羽美術館
「明治四十二年八月十七日リス河岸
ジュヤ君と太田君    作虎」

この絵は長く太田のアトリエに保管されていたことから、児島から太田に送られたものと考えられています。太田は他にも複数児島の絵を所持していました。


太田喜二郎旧蔵 児島虎次郎作の板絵


左上:エミール・クラウス
左下:ジョセフ・デルヴァン
右上:太田喜二郎のモデル
右下:児島虎次郎と太田喜二郎


これらの写真は児島が撮った写真です。児島は写真をアルバムに貼って大切に保管していました。妻の友が疎開の際にアルバムが大きすぎたため、アルバムから剥がして疎開先に持って言ったそうです。





留学のそのあと




「赤い傘」
太田喜二郎(1912)
新潟大学

太田が滞欧期に描いた「赤い傘」は帰国後、第2回東京大正博覧会で2等賞受賞となります。モデルは「窓辺の婦人像」と同様のマデレンでした。マデレンは太田の下宿先の娘でガールフレンドでもあったそうです。

作品は文展や帝展で受賞を重ね、順調なように見えた太田ですが、点描表現には「西洋画の一技法」とした洋画壇の態度もあり、珍しいものとして正当な評価を受けられず、太田は1917年以降、点描表現を放棄してしまいます。

留学時代、あんなにも眩しかったルミニスムは当時の日本では受け入れられなかったのです。


太田がルミニスムの技法のみを持ち帰ったのであれば、太田が受けた厳しい批評通りでしょう。しかしそうではありません。太田は光を描こうとしルミニスムを身につけるに至った探究心をベルギー留学から持ち帰ったのです。



左 「朝顔」大原美術館(1916-1918)
右「登校」高梁市成羽美術館(1906)


こちらのはがきはわたしがもっている児島虎次郎のはがきのなかでもお気に入りのものです。

ぱっと見て画風がかなり違うことがわかりますね。これはちょうど児島の留学前と後の作品です。

右の「登校」は東京美術学校の卒業制作で外光派らしい戸外の光を意識した作品です。左の「朝顔」は3枚の連作のうちのひとつで、小さなはがきでもわかるくらいの眩しさが表現されています。どちらも児島の代表作ですがベルギーの留学は児島の画風にこのような変化をもたらしました。

先述の通り児島は、留学前に勧業博覧会で一等を取りましたが、審査員・受賞者とも白馬会員が多数を占めていたことや児島の評価に不満について太平洋画会から連名の意見書が上がりました。太平洋画会はもともと明治美術会であった外光派(新派)の白馬会と袂を分かった脂派(旧派)と呼ばれる団体でした。

これらのできごとや帰国後の太田の評価、大原の名を受けた美術作品の収集などもあり、児島は画壇から離れて活動するようになります。

そんな活動のなかで児島はフランスのサロン・ナショナルの正会員の資格を得ます。私にはどれくらい凄いことなのかわかりませんが、当時のフランスの画家たちがなりたくてもなれるものではなかったそうです。その後もパリの美術館で作品が買い上げになるなど成果を上げていきます。

児島は明治天皇の壁画製作の途中に亡くなるまで、生活の心配をすることのない画業を送っためずらしい画家でしたが、西欧留学をした日本人画家たちが、作品の受容に苦心する中、児島は正当な評価を受けた画家でもありました。





光のゆくえ





「酒津の庭」
吉田苞(1927)
岡山県立美術館

壁画制作は児島の意志により、弟のように可愛がっていた吉田苞に引き継がれます。先程掲載した児島と太田の写真は、はがきとしてふたりの寄せ書きとともに吉田に送られたものでした(「仏国にいるより余程愉快なり」と描いてあります)。

点描表現は当時の日本では受け入れられがたかったという現実がありました。一方で南薫造や青木繁など一時的に試みた画家はいたようです。


そして展覧会は「光をえがく」から「命をかたどる」へ。ふたりと交流のあった彫刻家武石弘三郎、ベルギーの彫刻家ムーニエの受容、そして児島によるベルギー美術の紹介等の「伝える・もたらす」と章は続いていきます。


「農業」「商業」「工業」「交通」
齋藤素巌(1931)
小平市
《言葉と絵》『シュールレアレストの革命』
ルネ・マグリット(1929)
個人蔵


この展覧会は児島と太田についてだけのものではなく、戦前の近代ベルギー美術の日本受容や異文化理解等のとても大きなテーマを有しています。わたしには大きすぎるテーマのため、特に印象に残った児島虎次郎と太田喜二郎のベルギー留学を中心に書かせていただきました。


機会がありましたら、展覧会でも関連施設でも訪れてみてください。高梁市成羽美術館の会期は〜8月27日(日)まで、新潟近代美術館は9月16日(土)〜11月12日(日)までとなっています。




参考文献
・ベルギーと日本 光をえがき、命をかたどる 図録(2023)
・児島虎次郎 もうひとつの眼 図録(2020) 

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