大原美術館 大原孫三郎と児島虎次郎、そして倉敷のまち
11月5日で90周年を迎える岡山県倉敷市の美観地区にある大原美術館に行ってきました。
大原美術館は実業家大原孫三郎と洋画家児島虎次郎の出会いによって生まれた、日本で最初の西洋画を中心とした美術館です。
毎年1回は訪れるのですが、最近まで休館していたということもあり、今年はなかなか機会がつくれず、やっと行くことができました。
とても書きたいことを削った割には長くなったのですが、大原美術館について書くには、孫三郎と虎次郎、倉敷についてはどうしても外すことができず、
①児島虎次郎という画家
②大原孫三郎という実業家
③倉敷というまち
の3部構成で書きました。
文章上手になりたい。
①児島虎次郎という画家
大原美術館は現在、入場制限があり、1時間待ちの整理券をもらいました。
小一時間、暇を潰したあとでロダンに迎えられ本館にへ。
企画展があるときも過去にありましたが、基本的にはコレクションを少しずつ入れ替えるという感じです(たぶん)。有名なモネの睡蓮やルノワール、ゴーギャン、アマン・ジャン、フジタ、キリコ、モディリアーニなど印象派〜の西洋画が幅広く見ることができます。
また、大原コレクション唯一のバロックであり、目玉であるエル・グレコの「受胎告知」は、今では日本にあるのが奇跡と言われるほど貴重な作品です。
これらを蒐集するために海外を飛び回ったのが、児島虎次郎です。虎次郎は白馬会に所属し、東京美術学校で黒田清輝や藤島武二らに学んだ岡山出身の洋画家です。虎次郎は大原奨学会の奨学生で、大原家に援助を受け、3度海外留学をします。
虎次郎は日本の洋画界のために、同時代の西洋画を集めることを進言し、孫三郎は虎次郎に協力しました。そしてその蒐集した作品が、現在の大原コレクションの基盤となっています。
大原コレクションにおける初期の蒐集は、同時代の西洋画でした。そのため、ルノワールの絵は、絵の具がかわかないうちに持ち帰った、など興味深いエピソードがあるのも魅力のひとつです。
大原美術館は成長し続ける美術館を理念としており、コレクションは、基盤となった西洋画に加え、地元の洋画家や現代美術なども加わり、洋画コレクションは充実していっています。この辺りは、肌で西洋美術の需要性を感じていた、孫三郎の息子である総一郎の影響が強いです。
また児島虎次郎の作品を集めた部屋もあります。虎次郎作の3枚の「朝顔」は、印象派の巨匠たちに影響を受けたからでしょうか。とてもきらきらした作品となっています…!
マイヨールのトルソーがあるのも私的にはポイント高いです。
本館の洋画を堪能したら、東洋館・工芸館、分館に行きましょう〜!庭をぐるりと囲むようになっています。柳宗悦と交流のあった民芸運動メンバーの作品などが見られます。孫三郎は東洋美術が好きでした。
一通り見終わったら、美術館の横にあるミュージアムショップに行ったり、カフェ・エル・グレコで休憩です。濃いお茶とチーズを頂き、飲み終わったらカップに白湯を入れて薄茶にするというおしゃんな飲み物でした…
②大原孫三郎という実業家
整理券と一緒に大原別邸の割引券をもらいました。
入館までの時間を過ごしたのが、こちらの大原本邸です。最近まで大原さんの住まいだったそうです。
大原家歴代の言葉に迎えられます。現当主の方が選んだそうです。大地主であった大原家は孫三郎の父、孝四郎の代で紡績業を立ち上げ、実業家となります。孫三郎は7代目当主にあたります。
大原家当主と関係のある人を年代ごとに並べたモニュメント。浦上玉堂や満谷国四郎など岡山の画家が沢山いて15分くらいぐるぐる見ていたらお姉さんがいらいろ教えてくれました。楽しかったです。土田麦僊がいました。
孫三郎は晩年を京都で過ごしたため、日本画家の土田麦僊とも交友がありました。大原コレクションのスザンヌは、もともとセザンヌが好きだった麦僊がパリから持ち帰ったものが、巡り巡って大原コレクションとなったそうです。写真の本は麦僊との思い出について孫三郎が記しており、とても良い関係だったことが感じられました。
8代目大原総一郎の蔵書の一部とカフェ。
③倉敷というまち
白壁の美観地区。
美観地区に来たら、大原美術館に行き、喫茶店やイタリアンで休憩し、古本屋へ行くのが私のルーティンです。蟲文庫には児島虎次郎の地元にある高梁市成羽美術館のポスターが貼ってありますね…!古典の読み方の親切そうな本を買いました。
大原家の興した紡績業は現在ではデニムがとても有名です。孫三郎は工場の労働条件を良くしたいと考え、研究所をつくり、現在は大原記念労働科学研究所とっています。
また、桃やぶどうは岡山の名産となっていますが、これも孫三郎の農業研究支援の成果だと聞くと驚く人は多いのではないでしょうか。その他にも貧困問題や食料問題、病院、孤児院など幅広く社会事業を展開しています。
孫三郎は虎次郎の誠実な人柄を尊敬し、パロトンであっただけでなく生涯の友人であったといいます。孫三郎の支援を受けた虎次郎は生涯、絵を売る必要が無いまま、制作に取り組むことができた幸運な画家でした。
そんな虎次郎は47歳の若さで過労で倒れて亡くなります。蒐集された絵は度々、各地で展示をされていましたが、虎次郎の死をきっかけに、孫三郎は虎次郎の名を冠した美術館をつくり、彼が集めた絵と彼が描いた絵を展示することを決めました。結局、周囲の意見から美術館の名前は‘大原美術館’となりましたが、虎次郎の亡くなった翌年に大原美術館が生まれることとなります。
倉敷は民芸や農産を始めとした、地元の魅力が溢れるまちですが、それも含めてこのまちに尽力した孫三郎の功績を含め、大原美術館の魅力ではないでしょうか。また、彼がいなければ大原美術館は生まれなかった虎次郎の存在は、孫三郎の中でとても大きかったのだと感じます。
こんな時期ではありますが、機会があれば倉敷のまちとともに大原美術館を楽しんでみてください。
次は幸野楳嶺展か陽明文庫です〜!