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やきもの探訪③in有田
肥前旅行の最終日、佐賀県立九州陶磁文化館
を目指し有田町へ。
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中に入るとあらゆるものが有田焼でかわいい。
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お財布を出しつつ受付に向かうと「きょうは特別展がないので無料なんです」と言われて面食らう。絵画に比べれば保存修復にお金がかからないからなのか……有田焼は儲かっているからなのか……
第一展示室へ向かうと、プロジェクションマッピングがお出迎え。磁器を彩る所蔵品のデザインが浮かび上がる。
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第一展示室では日本磁器の歴史や特徴ある有田焼について広く紹介。
日本で磁器生産が始まったのは江戸時代初期の1610年頃。文禄・慶長の役の際に朝鮮陶工を連れ帰ったことで、各地に陶磁器産地が興る。有田もその一つである。有田焼は金ヶ江三兵衛らの朝鮮陶工集団によって創始期が担われた。
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従来の日本陶器窯より生産効率が良い
有田焼の創始期は陶器と磁器を同じ窯で焼いていたようである。癒着した磁器と陶器からは、波佐見焼同様、磁器と陶器の生産と同時に行われていたことが分かる。
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泉山磁石場の発見により佐賀藩は皿山代官を設置し、窯場の整理や技術の統制・保護を行った。1637年頃には磁器生産のみとなり、1640年代には中国技術に倣った、色絵製品が発展する。
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焼成時に底面を支える3点の「ハリ」が確認できる。初期の有田焼は薄い皿を作るのが難しく当時の工夫が伺える。
有田焼には代表的な様式がふたつあり、これらは日本磁器を代表する。これらを持って日本磁器は完成したと言ってもいいだろう。
そのひとつは「柿右衛門様式」と呼ばれる。
伊万里商人の東嶋徳左衛門が「しいくわん」という中国人に礼銀を払って色絵を習い、初代酒井田柿右衛門とされる喜三右衛門が技術改良をしたと言われている。このことは喜三右衛門の赤絵始まり「覚(おぼえ)」に記されている。
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「柿右衛門様式」は「典型的な柿右衛門様式」と「広義の柿右衛門様式」の二系統に分けられる。
「典型的な柿右衛門様式」は柿右衛門家を中心に作られ、「濁手(にごしで)」と呼ばれる青みを取り除き、釉薬薄く施した乳白色の素地に、余白を活かしつつ赤、緑、青、黄、黒、紫、金などを使った繊細な和風の文様を描く。形は薄い皿や鉢、六角壺や瓶などがある。
一方「広義の柿右衛門様式」は青みが強く、中国磁器風の染付が用いられたものや余白の少ない製品が見られる。成形はろくろが用いられたものも多い。
柿右衛門様式はヨーロッパの王侯貴族や大名向けに民間の窯で作られた。
次に「鍋島様式」である。
「鍋島様式」は佐賀藩鍋島家によって、輸入が中断された中国・景徳鎮磁器に代わる製品として、将軍家に献上されるために開発された。
主に大小の皿や猪口などの食器が中心に生産され、均一な線で描かれた大胆な絵柄や幾何学模様が特徴である。
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民間の意匠や優れた職人を登用し、技術漏洩を厳しく制限したと言われる鍋島様式。
鍋島藩が藩の威信をかけて利益そっちのけでクオリティを追求したと言われるだけあって、意匠も絵付け技術も最高峰と言われるに相応しい。
鍋島様式は廃藩置県まで生産される。
国内で地位を得た有田焼に転換期がやってくる。ヨーロッパへの進出である。
「蒲原コレクション」ではそれを観ることができる。
明から清への政権交代の後、明の遺臣の勢力を削ぐための貿易制限で、中国磁器の輸出量は激減する。代ってヨーロッパから求められたのが、その頃中国磁器に劣らない品質になっていた有田焼であった。
ここではヨーロッパ市場向けに作られた柿右衛門様式や赤や金で多彩に彩られた金襴手様式の製品を観ることができる。
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有田焼の製品はドイツのマイセンで1709年に焼成に成功するまで東インド会社などを通して高級品として取り扱われた。
マイセンでの焼成成功により、海外輸出が衰退すると、有田焼の市場は国内へと変わっていく。町人文化の発展する江戸中期には高級品から安価なものまで、様々な日用品が作られた。
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高価な製品の中には大名や豪商向けに作られた絢爛豪華な意匠のものなどもある。
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有田を中心とする肥前の磁器は、伊万里の港(伊万里津)から船で全国に運ばれたことから、肥前磁器の総称として「伊万里焼」の名前が定着した。明治期以降は直接出荷したため「有田焼」と呼ばれるようになる。現在では江戸時代に作られたものを「古伊万里」と呼んで区別することもあるが、海外では「日本の磁器」として記録に残ってる。
歴史や様式の展示だけでなく、現在の制作過程やタッチパネルでデザイン体験で遊ぶことも。
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お皿の形と絵柄を選んで配置。
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さて、展示はまだまだ続く。
続いては、あらゆる時代の特徴を捉えた有田焼が揃う「柴田夫妻コレクション」
1610年代に始まった磁器生産初期の製品は素地が荒く厚みがあり、透明釉にもムラがある。これはこれで味があって良い。
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1630年代に入ると中国のやきものに影響を受けた意匠が登場する。1640年代からは赤や黄、緑などの絵付けが登場する。
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1650年代では成形技術が格段にあがり、薄い皿が作られるようになる。絵付けの線は繊細になり、ダミと呼ばれる藍色の塗り面の精度も高くなる。
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1670〜1680年代は江戸時代で最も優美な意匠の製品が作られた時期である。
素地の白さを活かした余白や正確な形とデザインが特徴。
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1690〜1720年代は江戸時代で最も豪華な意匠が生まれた。
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1730年代に入ると金色の線で縁取るデザインが流行する。染付では唐草文様が大きく描かれるようになり、たこ足のような唐草文様は1750年代から盛んに見られ、凸凹で文様を表す手法も登場する。
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1790〜1820年代には黄色の釉薬が登場。染付では呉須の背景を白抜きした意匠が流行する。
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1830年代〜1860年代の染付製品は全面を埋める繊細な唐草文様が、色絵の製品は赤地に金彩のシダの葉唐草文様が年代の決手である。
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1860年代以降は外国製のコバルトなどの絵の具の導入やウィーン万国博覧会時期には大花瓶などの大型製品が制作された。
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紹介したこれらはほんの一部だが、柴田夫妻コレクションは年代ごとの背景や流行りを感じながら有田焼の歴史を概観できる。技術やデザインも数えられない程に展開されていることが分かる。
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さらに次の展示室では「九州地方のやきもの」
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破綻ない幾何学模様に呉須の濃淡、さすが鍋島焼の技術よ……
そして最後に現代作家の作品。
第15代柿右衛門の作品も。
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この展示室を抜けると現代作家さんが磁器の成形、絵付けをしているところが見学できる。ここまで無料とは……!
そして最後はやはり、カフェ!
フレンドリーな店員さんに
「ケーキセットなら200年前の器と柿右衛門さんで出しますよ」
と言われ恐る恐る(?)注文したケーキセット。注意書きと解説も一緒にぽんと置かれる。
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フォークで傷がつかないか、落としやしないかケーキもコーヒの味も正直分からなかったがいい経験だった。しれっと出されたお冷の器も年代物なのか……?
佐賀県立九州陶磁文化館を後にし、有田の町をふらり。まずは柿右衛門窯元へ。
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現代の柿右衛門の作品展示と販売がされている。
「どうぞお手に取ってくださいね」と言われたが、カップひとつ10万くらい平気でするのでリュックを前にかけ、抱きしめながら眺める。
有田焼は衣装を凝らしたタイルが建築に使用されたりフレンチレストランにオーダーメイドの食器を提供したりするなどハイブランドなイメージがある。さすが日本磁器の最高峰。
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お次は泉山採石場。
磁器生産が始まった頃に金ヶ江三兵衛ら朝鮮陶工集団によって発見されたとされる。
現代ではもう採石されてはないが有田焼の発展の凄さが、この自然資源のスケールから十分に感じられる。
近くには碑や石場神社、有田町立歴史民俗資料館などがある。
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李参平については様々な伝承があるが、研究上では実在が確かな金ヶ江三兵衛の呼び名で呼ばれることが多い。
有田では李参平として親しまれ、石場神社に陶祖として祀られている。
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有田には「高麗」の名が多く残る
もっと色々回りたかったがこれが本当に最後。
有田町立歴史民俗資料館へ。神社や採石場はすぐ近くにある。
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登窯の模型が観たくてここへ。陶磁文化博物館のものより少し大きい。
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こちらでは考古学の面から有田焼についての調査を詳しく観ることができる。陶磁文化館の説明の裏付である発掘調査の展示が詳細で大満足です。ここも入場料200円くらいだった気がする。破格……
『山本神右衛門重澄年譜』によれば、あちこちに窯が築かれたために陶工たちが山を刈り荒らすことから、山林保護のために朝鮮人陶工と日本人関係者を追放したとある。
一方『家永家文書』では朝鮮から連れてきた優秀な朝鮮人陶工が自分でやきものを一手に行いたいため、日本人陶工を追放するように願い出たという。この朝鮮人陶工は金ヶ江家関係文書から金ヶ江三兵衛を指すことは間違いないという。
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この話は、実際には山林保護の名目で窯場整理が行われたということらしい。窯業に実績のあるものは日本人でも朝鮮人でも登用され、他所から来てその場に家を持たないものは追放の対象であった。
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この後に金ヶ江三兵衛の墓や窯跡の遺跡に行くことができたらさらに良かったが、タイムリミットで肥前旅行はここまで。
現在でも最高峰と名高い有田焼を始めとする肥前陶磁器はスケールが大きく観たいものや行きたい場所が尽きない。次は泊まりがけで街を楽しんだり窯跡の遺跡を巡ったりもいいかもしれない。
参考文献
常設展示ガイドブック 有田焼の歴史〜磁器が語る 奇跡のストーリー〜 佐賀県立陶磁文化館(2023)
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