さよならを超えて

Netflixシリーズ「さよならのつづき」の鑑賞後感想。物語は一組のカップルがプロポーズのために乗り込んだバスが雪崩に巻き込まれ、そのカップルの彼氏が彼女を守ったために亡くなってしまう。しかしその彼氏の心臓が奇跡的に機能しており、その心臓がとある男性にドナー提供され、その男性は一命を取り留めるが、その彼氏の記憶が心臓に宿ってしまっていて…というところからはじまる、北海道とハワイを結ぶ壮大な物語だ。
奇跡など日常で起こることなど決してないとのだと筆者は思っていて、言うなれば日常とは今日までの軌跡によって成り立つものだとも。しかし「奇跡」は起こる。自分の身に起きていないだけ、あるいはそれを実感できていないだけで、それは起こりうるものなのだ。
とかくその言葉はポジティブなイメージが先行して引用されがちであるが、たとえば今年の元旦に発生した能登半島地震も「奇跡」と呼べるだろうし、事故、事件、遭うも遭われるもその全てがそうであると言えるが、往々にしてそれらはその通りに名がつけられる。どれもこれも「奇跡」であることに変わりはないはずなのに。
私が産まれてきたこともそうだと呼ばれるようだが先ほども申し上げた通りその実感はない。神様も中々信じがたいから、なんてひどいことをしてくれたんだと恨んだりした日もあった。
人は記憶で恋をすることができるのだろうか。筆者の答えは「イエス」だ。厳密に言えば「記憶をもとに恋をする」であろう。かつて好きだった人、あるいは体を重ねただけの人たち、そういった人たちとの「記憶」をもとに今を生きている。
以上のことを踏まえて「成瀬和正は中町雄介の転生先であると言えるか」というこの物語における重要な問題点について考えてみる。成瀬和正は中町雄介より移植された心臓で生きていて、前者は後者の記憶をもとに菅原さえ子と(彼女自身は否定していたが)恋愛関係に至る。前者が既婚者で妻帯者であるにも関わらず、だ。
これについては既にSNS等の感想でも議論されている点である故言及は差し控えるが、第8話においてその問題は解決していたように見られたので、それは本編をご覧になった読者の目で判断していただきたい。
ちなみな私の答えは「転生先ではない」が答えだ。おそらく厳密には「成瀬和正のペルソナのひとつに中町雄介がログインした」というのが正しいだろう。例えるなら、ひとつのデバイス(この世界)にインストールされたアプリ(ex.成瀬和正)にアカウントが2つある(うち一つが ex.中町雄介)であるという解釈だ。
だから成瀬ミキの「不倫の方が良かった」という台詞には整合性がある。成瀬和正は、菅原さえ子と成瀬ミキとでは「同じアプリ内で別々のアカウントを運用しコミュニケーションをとっているから」であり、そしてそれは「相互において如何ともし難い事情の上で成り立つもの」だから。
ここまでいろいろ考察したりしてきたけども、そのどれもが正直に言って野暮ったいものだ。
美しい景色、素晴らしい俳優陣の演技や脚本に劇伴、圧倒的なカメラワーク、Netflix独自の映像の質感、米津玄師氏の主題歌「Azalea」、その全てが有無を言わさず我々の五感に染み渡ることだろう。
この冬、私たちの心を何よりも温める壮大なラブストーリーを、あなたも見届けてほしい。

いいなと思ったら応援しよう!