あの頃の長崎と私

明るいか暗いかと聞かれたら、その声は確かに明るかった。
「見て、死体が写っているよ」
それを聞いて小声で「嫌~」と叫んで立ち去ったのは、私だ。声をかけてきたのはおじさんだ。顔までハッキリとは覚えてないが、あの言葉の温度は覚えている。明るいけれど、芯は冷たい。素っ気ないのではなく、真面目な温度ということだ。

長崎の原爆資料館に溢れる制服の子どもたち。楽しい修学旅行に影を落としていく戦後学習。正直、みんな注意して見ていない。分かってはいたけれど、この時間はここにいるしかない。ちゃんと見ているかたちを教師に対して取らなければいけない。ただ眺めている。それは私も。
大人たちは黙認していた。その中で声をかけてきたおじさんは、施設の人ではなく一般の来場者だったと思う。施設見学のあとに話を聞く場はあったけれど、「来たからにはちゃんと見なさい」と強く言うのではなく、「少しお話をしましょうか」と語りかけるように教えなければなかった過去の酷い現実の写真とおじさんの言葉を、私は今も覚えている。


うっすらと覚えているあのおじさんは、きっと戦後生まれだっただろう。確か平日の日中だったから、休みを利用して資料館に訪れたのかもしれない。身軽な装いから考えると長崎の人なのかもしれない。あのおじさんは戦争の渦にいたいろんな人から話を直接聞いて、あそこにいたのかもしれない。
私は直接戦時中の話を聞ける最後の世代に括られるわけだけど、正直祖父母から聞いてこなかった。祖父母も話そうとしなかったし、「そんな昔のことは…」とかわされてしまった。たぶん、沈めた記憶を引っ張りあげたくなかったのだろう。残された資料で目を背けてしまうほどだ。もしかしたら、話だけでも孫に経験を分けてしまう申し訳なさもあったのかもしれない。直接聞くことを逃した後悔の裏の優しさになんと言えばいいのか、時を重ねるほどに年々分からなくなっている。

もうあのおじさんに会うことは難しいだろうし、直接戦争を知る人の話を聞くことも現状難しくなった。「平和の時代」と言われ育った私たちでも、蚊帳の外に感じていた世界の争いが肌で感じるような時代になっているのではと不安を覚える。
昨今のニュースだけでなく、意外と世の中には戦争を題材にした作品に触れる機会が多いからだ。そして、それらの作品は名作と呼ばれることが多い。

悲劇を知って「今も、これからの世の中も、戦争なんてあってはならないよね」と語り合う。その時にいい作品だったと称えあう。だけど、それらは戦争があっての作品だったとあの時は気づかなかった。この現実も、なんと酷いことか。しかし、その作品に関わる人たちはきっとこう考えているのだろう。
「絶対にまた繰り返してはならないことを伝えなければ」と。

「熱い…!!」と長く苦しむ当時の一瞬の出来事を伝える青年。生き残れても以前より死を近くに感じる女性。
映画が原作だったので話は分かっていたはずなのに、まるで異なる印象を受けた。強い生と死の苦しみが芝居と照明で訴えかけてくる。からだの一部が無くなったり、色が変わったりするわけではない。炎も出てこない。だけど、見えてしまう青白い炎や紫の斑点。黒い灰とカサカサとした音たち。それは恐怖であり、あの頃の写真を眺めるしかしていなかった自分がよみがえり申し訳ない思いが出てくる。今も書いている間に耳にした戦争の話を思い出してしまう。

平和の時代になったと言われた子ども時代。平和の祭りは選手たちの正々堂々とした戦いではない、目に見えない血しぶきをあげている。
何ができるのだろうか。何もできないのだろうか。
ただ平和を祈り、多くの夢が叶うことを祈るしか、そんな神頼みしか私には術がないのでしょうか。

それでもひとつここに伝えたい。
舞台『母と暮せば』はみんなが観るべき作品だ。「いい作品なの?」とか「面白かった?」とか「暗い話?」とかは聞かずに観てほしい。そのことは私は答えられない。
だけど、観るべきだ。
そして、心に残ったことを忘れないでほしい。

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