ファール・トゥ・フェイス
この世の人間の大きな分け方は、男女の違いだけではない。
α(アルファ)、β(ベータ)、Ω(オメガ)
この3つは貧富の差で分けられるものではない。男女と似たような性差と言えるだろう。もともとは海外で通説のようにあった性差だったが、どの人間もどれかに該当することが発見された。この国でもその性差は浸透している。エリートと属される少数派のα、この世の大多数の人間はβに属している。Ωは存在しているが、その割合はとても希少とされている。
それぞれの能力に合わせた経済対策が昨今は施され、以前に比べれば貧富の差の開きは狭くなっていると言われている。誰もが平穏に暮らす世の中になったと言われる。男女も、貧富も、障害も偏見が減ったのは3つの属性のおかげだと言われるほどだ。
Ωには発情期が定期的に存在する。その強いフェロモンに誘発されたαによる性犯罪も以前は頻繁に起きており、その度にΩを責める偏見もあった。しかし、Ωへの発情抑制薬の進化と普及により、Ωの発情期に出るフェロモンを抑えることができるようになったことで性犯罪は減り、この性差は存在は認知しているが、差別扱いはかなり減ったとされている。
ただし、まだ分からないことが多いのもこの世の定め。運命の番についてはまだわからぬことも多く、出会う確率が新たな星を見つけ名前をつけることよりも低いためにこの話は迷信のように捉えている人が多い。
今日もよく働いた。そう言わんばかりの空気を纏う一人の男が電車を待つ列に並んだ。とにかく今日は疲れたと、ため息をついた。彼はこの駅の近くの調剤薬局で働く薬剤師である。
とにかく今日はひっきりなしに患者がやってきた。季節のちょうど変わり目で体調も崩しやすい上に、感染症の流行も相まってラーメン屋のごとく回転率をどう高めるか、なおかつそこに医療の最後の砦であるプライドもあって、正確性を疎かにしてはならない緊張感で気力をフル稼働した日だった。体力も使い切り、心身ともに疲労感が今にしてどっと来たところだ。字を読む気もしないし、音楽も聴く気がしない。家に帰る力しか残っていないが、相変わらずの満員電車に耐えられるか……。
しかし、こういうときに限って電車は遅延している。またため息が出て、HPがすり減っていく。最後の力を振り絞り明日の休みのことを考えて、気力をあげよう。たとえ体を休めるだけの日になってもいい。休みの日に予定を入れなければいけないと法律で決まったことでもないし、幼い頃なんて……なぜ幼い頃なんて考え始めのか。そう言えば、少し前から懐かしい匂いがする。その時だった。
急に心拍が上がり始めた。さっきから体が火照る感覚があったこともあり、彼は確信してことがあった。
発情だ。
「なんで……?」
医療の研究により、Ωの定期的な発情期を抑えるホルモン投与が保険医療になって随分経つ。そのおかげでΩの発情期は随分緩和され、抑制剤を事前に服用しておけば生活に困らないほどになった。この男もΩとわかってからホルモン投与による治療を行い、ほぼ発情期とは無縁の生活を送っていた。
疲れているから?過度なストレスはあっただろうか?いろいろなことを考えながら、あの俗説の可能性を打ち消そうと必死だった。
「大丈夫ですか?」
隣にいた女性が声をかけてくれたが、振り切るように列から離れた。このまま電車に乗ることが怖かった。まずは緊急抑制薬を飲まなければと、自販機の場所までなんとかたどり着いた。
「大丈夫ですかぁ?」
先程の女性ではない。こんなに甘い声ではなかった。
「大丈夫です。薬を飲んで落ち着いたので……。」
そうは言っても、まだ息が上がる。こんなにも俺は発情期が重かったっけ。
「絶対大丈夫じゃないですよぉ。少し休みましょ、私も付き添うので。」
「本当に大丈夫です、ここで休んでいれば……」
大の男なのに、もう女に抱えられてベンチから離れてしまっている。駅の救護室、駅員がいる方向とは真逆に進んでいく。声を上げたくてもこんな体では思うように声を発せられない。これは……まずい。
「大丈夫ですか。」
振り返らなくてもわかった。最初に声をかけてくれた女性だ。
「あなた一人じゃ男の人を抱えきれないでしょう。私も一緒に抱えますから。」
「いや、大丈夫ですよ。」
「でも、ここから救護室に向かうのはかなり大変でしょう。」
「でもトイレに行きたいって、この人が……」
目の前に誰でもトイレが目に入った。声は出せないけれど、少しなら身動きが取れるかもしれない。目線をあげ、首を力の限り振り絞って横に振る。どれだけ伝わるか分からないが……。
すると、彼女はポケットから何かを取り出した。
「……それが何か?本物じゃないでしょ。」
「……警察です。少しお話を聞きましょう。」
ストンと体が落ちた。その警察の女性がすぐに支えてくれたおかげで体を打ち付けることはなかったが、どんどん息苦しくなる。その隙に、さっきまで俺を抱えていた女性は「この駅初めてなんだもん!」、「救護室なんてどこかすぐわからなかったのよ!」、「苦しそうだからとにかく助けようとしただけよ、悪いことは何もしてない!」と捨て台詞で去っていった。
「待ちなさい!」
彼女は叫んだ。駆け出すにも俺を置いてはいけないといった顔をして、必死に叫んだ。だが、その努力も虚しく女性は駅から消えてしまった。
「だいぶ苦しいですよね……持病はありますか?」
――持病
Ωは持病なんだろうか。偏見が少なくなっても、まだこうして発情期の問題は残っている。病気に見られるのも無理はないだろうが、蔑んだ目はもう見たくない。答えたくない。
「さっきより悪化してますよね。救急車……今、駅員さん呼んできますので、少し待っててください。トイレの前で、地べたで申し訳ないんだけれど。」
彼女は俺を壁により駆けるように体勢を変えた。あとは駅員のもとへ駆けていくだろう。だめだ、それは嫌だ……。
「まゆちゃん……」
ふと、彼女が俺を見た。気づいたら、俺は彼女の手首を掴んでいた。
「まゆちゃん……俺、りーくん……佐藤……」
名前を呼ばれて丸くなった彼女の目はさらに大きくなっていた。
「利久(としひさ)……」
俺は佐藤利久。彼女の名前は鈴木真由香。名前は変わる可能性が十分にあるわけで、ただの文字の羅列に過ぎない。しかし、信じられないと疑うような彼女の声と俺の声が重なったその言葉に、俺は確信した。同じ保育園にいた彼女であり、俺の初恋のひとであると。
さっきから症状が全く改善しない。むしろ悪くなる一方だ。隣に座る男性は、きっとりーくんだ。保育園が一緒だった男の子のはず。発した名前が一緒だっただけじゃない。今乗っている車を運転しているのは、じいやさん。救急車を呼ぼうとしたら、彼はかかりつけ医があると言い、迎えを呼んだのだ。そして、車から出てきたら運転手がもう何十年ぶりの再会だったけれど、間違いなくじいやさんだとわかった。
「すみません、病院の付き添いまでお願いしてしまって。どのように体調を崩されたのか、きっと本人から説明が難しそうでしたから甘えてしまって……。」
ちゃんと相手に表情が見えているか分からないが、「いえ、気にしないでください」と小さくジェスチャーを交えて伝える。見ず知らずの者を助けることはあっても、救急車に乗っての付き添いはドラマや映画でない限りあり得ない。なのに、こうしてここにいるのは誰に懇願されたわけではなく、私からどんな症状の変化があったか説明しようかと申し出たこともある。
とはいえ、こちらが隠し札を持っているのは居心地が悪い。りーくんであろう人物もすっきりしないのは、具合が悪い中でさらに気分は良くないだろう。
「すみません、あの……じいやさん、ですか?」
運転手が「え?」とミラー越しに反応したのが見えた。そして、隣から「まゆちゃん……」と微かな声が聞こえた。間違いない。
「じいさんですよね?地井武男と同じ地井の字なんだけど、読み方はじいでじいさん。りー……利久さんの保育園まで送り迎えをしていた運転手さん。」
少しピリついた空気があっただろうか。そりゃいきなり他人から名前を当てられたら困惑するだろう。
「……ちょっとこの先で車を停めますね。」
停めた先で身分を明かせばいいのに、時間が経てばより怒られるのが世の常な気がしてカミングアウトした。
「鈴木真由香です!杉保育園でりーくんと一緒だった鈴木真由香です!苺ミルクをSクラスのベンツの革のシートにこぼして、本当にすみませんでした!!!」
「苺ミルクじゃなくて申し訳ない。」
手渡されたのはカフェオレである。その手は皺が昔より多くなり、優しい笑みと同じくらい温かな雰囲気である。
「びっくりしましたよ。名前、しかも字まで当てられて。」
「本当にすみません……普通に怪しむことは正しい反応ですから。」
高らかに笑う声は昔と変わらない。本当に優しくて、活発すぎる保育園児と遊んでも疲れ知らずの元レーサーは子どもにも大人にも大人気だった。滅多に怒らないので、怒られたときの威力は凄まじかった。りーくんと新車のベンツで遊んでいて、持っていたらパックジュースを2人して車の中でぶち撒けたときの怒号は今でも忘れられない。
「名前聞いてあの真由香さんだとも思いましたが、すぐに謝る癖はあのときに沁みつけてしまいましたかね?」
「時間が経った染みはなかなか落ちないので当然です。しかも、革、ベンツ……。」
ここで私はダジャレを言ったような形になっていることに気づいた。本当はそれどころじゃないのに、そのことに気づいたじいやさんの吹き出し笑いに思わず笑ってしまった。
「あの時は私も若くて……いや、若さを理由にしてはいけませんね。失礼しました。」
「いえ、家族以外から叱られることってなかったですし、謝罪の重要性を学びましたから。そういうことができたのも、ちゃんとりーくんと仲良かったからなんだと今はわかりますから。」
急に現れた怪しい人物を刺激してはいけない。今回じいやさんが冷静に車を駐車する判断は正しい反応だ。この人が長く佐藤家で働いている理由がよくわかった。
しかし、今公園のベンチに座っているは私とじいやだけだ。りーくんは、今車の中にいる。一人だ。
「大人になられたんですね」
「はい、カフェオレ飲んでますから」
ブラックコーヒーを飲んでいるじいやさんの前で、堂々と言うことでもないけれど。
「……落ち着きましたか?」
「……私ですか?私は、大丈夫です。それよりりーくんは一人で」
「利久さんは、今一人でいるほうがいいんです。だから、不安でも安心してください。」
落ち着いた声で、されど1.25倍速で話すじいやさんに私は言おうとした言葉を飲んでしまった。
「真由香さん、今は息苦しくないですか?」
「……」
何も言えない。ぼやけていた答えの文字が明確になりつつある。もう風の音も何も聞こえない。聞こえるのは、自分の鼓動と答えを出そうとするじいやさんの声だけだ。
「車まで利久さんを運んでくださった時から車中を見ていましたから、当然真由香さんのことも見ています。今、やっと息苦しさが緩和されたのかと見受けられます。」
「……失礼を承知で聞きますが、りーくんはΩですか?」
頷くじいやさん。
「私は、Ωのためだなんて性行為はしません。信用性はないと思いますが、αがみんなこれは本能だからとレイプのようなことをするわけではありません。」
「真由香さん、あなたを危険人物の可能性があると見込んで、こうして話しているわけではありません。」
「いえ、そう考えていただくことが正しいんです。だから、これから症状のことを逐一じいやさんにお話しますので、私はここで帰ります。」
鞄の中から手帳を出して、白紙のページを探す。車中のことはじいやさんが分かっているから、その前までの時間の系列を頭の中で整理して、ページを切ろうとしたときだった。じいやさんの手が、私の手を止めた。
「こんなにも症状が出たことは、一度もないんです。」
「……それは、何を言いたいんですか。」
あの話は、現実にあるのか。
「行為をしてこいなんて、それはレイプです。私は嫌です。したくありません。」
「真由香さん、それは求めていません。今、利久さんが……」
さすがにじいやさんは言い淀んだ。しかし、話は続いた。
「とにかく、病院には一緒に来てください。」
理由は私とりーくんは運命の番の可能性があるからだそうだ。信じたくなかった俗説は、私の中で静かに真実へと変わり始めていった。
懐かしい夢を見た。
「ねぇ、きみのなまえはかんじでかくとどんなじなの?」
利久。そう書くと彼女は
「りくってよめるね!りきゅうも!りく、りきゅう……りーくんだ!としひさくん、りーくんってよぶね!」
と笑顔で言ってきた。何もこっちは言ってないのに、きれいな字で真由香と書いた。
「わたしはなまえのとおり、まゆかしかよめないよね。あるとしたら……まゆこう?まゆこ?なにがあるかな?」
よく考える子なんだなと思っていた。ただ、だんだんよくわからなくなり、「まゆ」の響きだけを覚えていた俺は、彼女をまゆちゃんと呼ぶようになった。
小学校に上がるとき、彼女は引っ越した。手紙のやりとりはあったけれど、そのやりとりがなくなった頃に俺は属性検査でΩだと診断された。両親はともにαだった。この頃に生まれた弟がαだとわかるまでが一番人生で辛い時間だった。
誰か助けてくれ。もう辛い時間から脱出できたんだ。これは夢だとわかっているが、あまりにも現実味があって起き上がることができない。
「利久」
父さんの声が聞こえる。そうだ、俺は記憶が確かならじいやに駅まで迎えに来てもらって、東開大学病院にいるはずだ。
「利久、わかるか?」
波に飲まれるような苦しみから必死に手を上げた。必死に顔を出して、目を開くと同時に大きく息を吸った。
「はぁ……!!あ……父さん」
すぐに見つけた父さんの顔の緊張感が一気に解れるのがわかった。
「今のは、怖い夢でも見ていたか?」
「そうみたいです。この歳にもなって……恥ずかしいよな。」
照れ隠しで笑うとくしゃくしゃっと俺の髪を撫でて、肩を叩いた。とりあえず水を持ってくると一旦父は病室から出ていった。
父は、この病院に勤める内科医だ。もともとは小児科医であったが、俺がΩだとわかってから医療の面からもΩが生きやすい社会にしようと研究も兼ねるために内科医に転身した。母は俺がΩだと発覚してから精神的に病んでしまった。浮気をした、Ωをレイプしたという声は実の親からも言われたらしく、弟を出産したばかりで大変な時にも関わらず誰の助けを受けることも、頼むこともできなかった。結果、母は長い闘病の末亡くなった。父の内科医への転身は俺のためだけではなく、母を格差から救いたい気持ちもあった。
父は子ども2人を育てながらも結果を残していく。昔に比べたらΩへの偏見が減り、学校も職業の選択は他の属性と変わらずに選べよ うようになった。これは法律の改正や制度の導入が大きく関わっていることは言わずもがなだが、父が取り組んできた抑制剤の改良、ホルモン投与治療の研究があってこそだ。このホルモン投与の成果は著しく、発情期の症状をほぼ皆無同然になり、俺は思春期から始まる発情期の戸惑いを受けることなく育った。Ωなど関係なく、普通の人間として育った自覚さえあるほどだ。
そんな父を尊敬しているからこそ、薬学の面からΩ研究に携わろうと今に至っている。そんな矢先に出たこの症状だ。
「発情と診ている」
戻ってきた父が目を見て言った。発情期の周期とも異なる上に、緊急抑制薬でも落ち着かなかったところを考えればその言葉を意味していることは暗黙の了解だった。ともに医学の道に進んでいることもあり、それ以外の答えを口にするのは他の症状から考えれば野暮である。
「正直に言えば、運命の番が現れた以外に考えることができない。それほど強い症状が出ている。」
俗説と言われていたあの言葉を父の口からは聞きたくなかった。Ω研究の第一人者である父は、たとえ宝くじを当てるよりも確率が低い運命の番のことをたとえ数少ない資料だとしても読み込んでいたことを知っている。しかし、その人が言うんだ。
「……本当に現れたと言える根拠は?」
「……匂い、ですか?」
懐かしさを楽しむ時間など無かった。病院についてからりーくんは処置室に運ばれ、私は診察しに案内された。しばらくすると、りーくんのお父さんである佐藤医師が入ってきた。再会の挨拶はそこそこに、記憶が新しいうちにりーくんの症状の説明をしたのちに、パズルを当てはめるように問診が始まった。まるで取り調べだなと思っていた時、私が匂いを言及すると佐藤医師ははっと私の方向に顔を向けた。
「あれはフェロモンの匂いだと思うんですけど……かなり強い匂いでした。嫌な匂いではないんです。甘さと……シトラスのような爽やかさもあって……。りー……佐藤さん」
「慣れた名前で大丈夫ですよ。私は父ですし、佐藤はたくさんいますからね。あなたのことも本当は真由香ちゃんと呼んで砕けてお話ししたほうが聞けることもあるかもしれないんですけど。染みついた仕事柄、威厳を放っていたらすみません。」
優しく笑うところは本当にそっくりなのだが、業界でも権威ある名医は核となるところまで崩さない。
「……では、りーくん呼びで失礼します。」
「はい。匂いは他に経験ありますか?」
「……Ωの発情の匂いは何度か経験したことがありますが、全く違いました。りーくんって香水とかつけてますか?甘さも酸味もバランスよく香るって、香水でもなかなかないと思うんですけど……。」
「職業柄つけてないと思いますね。すみませんが、鈴木さんはαでしょうか?」
「はい。」
「……。」
急に黙ったかと思えば、近くの看護師に何か指示をしている。
「ごめんね、今から属性検査をします。すぐに結果は出ます。準備している間に利久が発情している間のあなたについて簡単に問診させてください。」
目の前にいるのは保育園が同じだった男の子の父親ではあるけれど、α・β・αの3属性の研究(通称:ABO研究)の第1人者だ。そして、ここは東開大学病院。国内だけでなく、世界でも指折りのABO研究機関を擁している。大きな渦を眺めているだけで済まない気がしてきた。
車から戻ってきたのはじいやだけだと思っていた。実はまゆちゃんも戻ってきていて、俺の症状について担当医である父に説明してくれていた。
「彼女はαだ。さっき検査結果が出た。彼女の症状からしても、利久の運命の番で間違いないだろう。」
「……彼女の症状って……?」
「感じた匂いや、体の疼き」
「ごめん、いい。むしろそんなこと彼女に聞くな」
「仕方ないだろ!これはΩの……お前のためでもあるんだ……。」
分かっていた。この人は父で、医者で、研究者だ。
このあとに続いた話は、運命の番研究に関してだった。これは父だけでなく、俺の夢でもあった。俗説だとしても、本当に現れてしまったら今まで築き上げてきた日常が崩れるかもしれない。運命だなんて綺麗な言葉を使っているが、物語のように相性よく終わることばかりではないだろう。本能で惹かれるとはいえ、性格は環境によって形成されるのだから、合わずに最悪の結果を招くことだってあるはずだ。
運命の番の研究が進めば、Ωは日常を生きていける。しかし、研究に参加してくれる運命の番がいないだけでなく、そもそも運命の番の存在は絶滅以前に存在さえ確かなものではなかった。その運命の番が今、ここに現れた。願ってもいないチャンスだ。
「……まゆちゃんはなんて。」
「治験とはいえ、副業とみなす声も出てくるだろうから、職業柄難しいと言っていた。」
治験は副業ではないけれど、警察官である彼女はシビアに捉えるだろう。
「考えは変わっていないか?自分が該当者になってでも、運命の番研究に参加する意思は。」
静かに頷いた。大きく頷けないのは、彼女に犠牲を考えたからだ。彼女の仕事に影響はないか、思い人はいないのか。
「ただ、彼女が賛同しなければ」
「その心配はないだろう。治験は副業ではない。それに、もう手は打っている。」
今、父の目はどの色が占めているのか。怖くて直視することができなかった。
実家に帰ってくると、いつも母は豪勢に食事を作ってくれる。一人暮らしをしているだけなのに、まだ戸籍はこの家の者なのに、完全に客人扱いだ。父は「俺だけだとこうならないから、頻繁に帰ってきて」と、私だけでなく兄にも言っているらしい。しかし、今回はその料理たちは机にない。りーくんとの再会からすぐに父から連絡があった。話があると。あまりにも急で、今日は母が出かけている関係でスーパーのお惣菜が並んでいる。
仕事のことならば、同じ職場で働くのだから家に呼ぶ必要はないはずだ。父も同じ警察官であり、私が働くジェンダーデータベース捜査室を作った人物だ。もともとは多発していたキャッチ問題やストーカー問題、性犯罪を分析、阻止するためにできた捜査室だが、被害者であるはずのΩが加害者になっているような風潮を止めたくて、α・β・Ω分析を用いた捜査室を導入した。そして、今ではひったくりや住居侵入問題、殺人など様々な問題をデーターベースを用いて捜査している。そんな父であれば警視総監への出世街道まっしぐらかと思いきや、βであることからいまだα至上主義が残る警察内で頑張っても中間管理職止まりになっている。
「佐藤医師の息子さんと真由香は同じ保育園だったんだってな?」
父がジェンダーデータベース捜査室を強化したときに、監修として佐藤医師と会ったことは知っている。しかし、近年は佐藤医師の研究チームが監修になったことで、佐藤医師ではなく部下の方々が代わる代わる捜査室に携わっている上に、父も捜査室から離れているから年度始まりや年明けなどの節目で会う以外は機会がないはずだ。
「……お父さん知らなかったっけ?あんまり送り迎えしてなかったし、仕事の話ばっかりだった?」
「今日久しぶりに帰りにたまたま乗り換えの駅で会ってな。ちょっと話したんだよ。びっくりしたなぁ。仲良かったんだってな?」
嫌な予感がした。これは、仕事のようで仕事じゃない。
「仲良かったよ。それで……何?」
「その人と運命の番だって聞いた。治験は副業じゃない。真由香だって捜査室にいればこの治験がどれだけ世のためになるのか、だから許可が下りることも分かっているんじゃないのか?」
あの渦を見てしまった私は、もう巻き込まれるしかないんだ。
「正直、αの真由香にいつか運命の番が現れるなんて思ってもいなかった。運命の番がいいことなのか悪いことなのか、父さんも母さんも、きっと兄ちゃんも分からないと思う。兄ちゃんの奥さんもだが、みんなβだしな。今までも……苦しいことがあったよな。」
「……。」
「ただ、幸運だとは思わないか?仲良かった人と、しかもご家族も身元も分かっている人と運命の番になれたのは。」
確かに、そうかもしれない。しかし、りーくんは?彼に傷を負わせることにならないか。
「佐藤医師のご子息はこの治験を前向きに考えているそうだ。彼はもともと運命の番研究に携わるために、それが我が身であってもいいからと、薬剤師として働きながら研究に関わっていたそうだ。」
自分を犠牲にする覚悟を持った彼。治験に参加するとなれば、私はそんな彼をさらに傷つける可能性があるのだろう。
しかし、もう逃げられない。狼を匿った私は、すでに包囲網の中にいた。
「……落ち着いた?」
「……うん、ありがとう。」
目の前には温かな食事。向き合って会話をする姿は仲の良い夫婦か恋人にしか見えないだろう。きっと、合っていることは仲が良いということだけだ。
運命の番研究の治験が始まった。治験の対象者は、ここにいる鈴木真由香(α)と佐藤利久(Ω)である。つまり、まゆちゃんと俺だ。そして、ここは俺の家である。
治験はただふたりで一緒にいること。新たな運命の番にも効くΩのホルモン投与へと進むためにそれぞれ細かな検査を行った。その結果を数少ない資料を基に作られたホルモン剤の改善に適合し、俺に投与をする予定だ。このホルモン投与の治験で行う動物実験は、致死率に関してのみだ。これは人間以外の動物にα・β・Ωの属性がなく、新たに属性を人間以外の動物に組み込むと即死してしまうからだ。この治験はとても慎重に行わなければならない。そのため、ホルモン投与の治験にいくまでかなりの時間を要する。その間行うのが、運命の番にも効く緊急抑制薬の治験だ。
発情期なのか、運命の番による発情なのか、それともストレスなどによるイレギュラーな発情なのか。それを確かめるためにもふたりで過ごすように言われたが、いきなり生活環境を変えるのはストレスになるとまゆちゃんの提案もあり、開始当初は外に出かけることがメインだった。だが、治験のストレスなのか緊張からなのか発情の回数が減ることはなく、治験いえど薬の使用限度を超えてしまうためにストレスがかかりにくだろうと俺の家で会う機会が増えていった。
今は発情後、なんとか自慰行為で落ち着いたあとだ。まゆちゃんはわかっているだろうが、何も知らぬ存ぜぬでご飯を作ってくれた。
「薬って」
「大丈夫、大丈夫。」
本当は大丈夫じゃない。薬の強さをあげても、成分を変えてもなかなか効かない。もう今月の服用限度を使い切ってしまった。父はホルモン剤の研究にしばらく専念しながら俺を診ているが、想像以上に運命の番については未知の領域だ。俺だけでなく、まゆちゃんも仕事や治験でこうして俺と会っている間に検査を何度も受けている。
「この治験ってさ、どうしてメ
インはりーくんだけなの?」
「……発情関係ってΩがメインだから。」
考え込むまゆちゃん。刑事ドラマの警察官のような顔をしている。実際に警察官なんだが。
「αにも緊急抑制薬ってあるよね。私にも同時進行でその治験やらなくていいの?」
「それは……」
そのαの緊急抑制薬は、犯罪者のために今は存在している。
昔はαにも緊急抑制薬があったという。α・β・Ωの存在がわかり、Ωの偏見が強まった頃にある強盗殺人事件が起きた。
Ω発情による強姦殺人事件は以前もあり、そのたびに発情したΩが悪いのだからという声が強くあった。この事件では仏具店に勤務していたΩが発情し、そのフェロモン作用により、ヒート(Ωに誘発されたαの発情)した客のαに強姦されそうになった際に抵抗したが、αは怒りそのまま頭を店内にあった商品である仏具で殴り、Ωを殺人。凶器となった仏具のほかにも数点商品を盗み逃走。店内にいた通報者により、すぐに現行犯逮捕となったこの事件は強盗事件として当初報道された。しかし、通報者が強姦未遂事件だった可能性をSNSに投稿。通報者はβでΩの発情には気づかなかったが、一部始終を遠くから見て通報のタイミングを見定めていたそうだ。
この事件を機にαへの緊急抑制薬の研究は始まり、治験も問題なく終わり実際に一般へと服用が可能となった。しかし、保険適用にはならなかった。結局はΩによる発情が原因であり、αにヒートが起こることは仕方ないことだと。需要も少なく、Ωの緊急抑制薬同様に副作用があるため、エリート気質のαに負担をかけることは国の損失とまで声が上がった。結果、今はヒートによる犯罪を犯したαのための薬と捉える人が多い。
「それは……」
私も仕事柄その存在を知っている。一般でも自費で緊急抑制薬を手にすることは可能だ。しかし、ほとんどの薬局で手にはいらないのは犯罪者のものだという認識で出回ってしまっているためだ。
「一番の目的がホルモン投与に向けたものだってわかっている。だけど、今は薬の治験の最中じゃない?緊急抑制薬はαにだって存在するんだから、運命の番に対して効くものがαにあってもいいよね?あるべきだよね?」
「まゆちゃん落ち着いて。確かにその説は正しいけれど、Ωさえ発情しなければ問題ないことなんだから。だから、今回の治験は」
「これは本能で止められないΩが悪いって思っているの?りーくんはΩが全部いけないんだって思っているの?」
ここで白熱したって意味がない。この思いをぶつけるべき人は他にいると分かっているのに。
「まゆちゃんは何もしていない。」
その言葉に苦しくなる。何もしていなければ、そう見えていればいいのか?
「実際になんとかいつも発情を抑えられている。それに、副作用があるわけで」
「何もしていなければって、なんとか抑えられているからって……私、副作用を負うべき人間だよ。」
もう耐えられなかった。彼が発情して苦しんでいるとき、静かに私は遠くへと逃げた。物理的に逃げた。αはΩから離れればヒートは治まる。けれど、彼に対してはなかなか治まらなくて、緊急抑制薬を飲んでいた。
治験について職場で知るものは限られているが、警察病院にいる医学部時代の同期には話をつけていたためお願いして処方してもらっていた。私がαであることはもともと知っていたし、どうして警察官になったかも知ってはいるが、彼を傷つけたくないこの気持ちを相談することはできなかった。私の服用限度は、もう今月分全て飲んでしまった。
久しぶりに発情期の苦しみを経験した。たぶん思春期を迎えたとき以来ではないだろうか。その頃からホルモン投与による治療をはじめ、その治療が終わってから何年も経つが発情期は落ち着いたもので、周りにもわからないほどだった。
「運命の番が現れたからか、もしくは発情したΩとの性行為はほぼ妊娠するとはいえ、適齢期の存在は今一度改めて研究しなければならないのかもな。」
発情と発情期を見分けるためにも、発情期の間は治験は停止する。けれど、まゆちゃんとはαの緊急抑制薬について話してから会えていない。ごめんと連絡来たけれど……。
本当は治験のこともあるから入院を勧められたが、家から出られる状態ではなかったから父が家まで診察もかねて来てくれた。
「心配したぞ。治験で薬が強くなっているしな。」
「もう発情期も終わったから大丈夫だよ。」
「あの子は……会えていないのか?治験者としては会ってほしいけれど、仕事も忙しいだろうし、いろいろあるだろう。」
いろいろとはなんだろうか。本当は恋人がいたのではないか。結婚してた可能性もある。お互いに子どもがいておかしくない年齢だ。俺は、Ωであると分かってからそんな生活は夢物語だと蓋をしてきたけれど、彼女はそれを十分に叶えることはできる。保育園以来の再会だ。その間、そんな生活を営んでいることは全く変なことではない。なのに、苦しくなる自分がいる。
「じゃあ、帰るから。何かあったらすぐ連絡しろよ。息抜きに今度うまいものでも食べに行こう。」
何かあったら、そこにはまゆちゃんにまた会えたら連絡することも含まれているだろう。
「ありがとう。気を付けてね。」
父が家を出る直前だろうか。インターフォンが鳴った。そこに映っていた人物に、高鳴る気持ちを俺は父には言えなかった。
自分の家なのに、よそよそしくなってしまう。
「治験中なのに、なかなか会えなくごめんなさい。」
少し飲み物の氷が溶けたころ、ようやく言葉を発したのはまゆちゃんだった。
「いや、こっちも発情期が来たのもあったし……。そもそも治験だって急に始まって迷惑かけているからさ。」
そんなことはないという顔をしている。久しぶりに見た顔は、そんな表情しても愛おしいと思う。体の奥底で疼くからだが本当に厄介だ。
「……りーくんは、付き合っている人とか、結婚とか、子どもとか」
「いない。いないよ。」
やっと彼女と目が合った。
「だから、俺を気にして治験を躊躇っているのなら、何にも気にしないで。副作用の苦しみも、そもそも自分からこの研究の道を進んでいるし。」
「犠牲にならない?傷つくことはない?」
「その覚悟はもうずっと前からしている。自分が治験の対象になる可能性はどこかで覚悟していたから。」
堂々としよう。ここで彼女が治験を辞めても、会いたい意思は伝えられるようになんとか平常心を保とう。
「私は……りーくんだから、治験を受けたの。」
その言葉は嬉しかった。けれど、きっと知って人間だからということだろう。
「まゆちゃん、思い人はいる?」
「……付き合っていたり、結婚とかはない。りーくん……」
「……うん?」
笑っているのだろうか。少し泣きそうな気もする彼女は言った。
「お父さんに伝えて。治験は続行しますって。」
嬉しかった。同時に、体が急激に体温が上がることが分かった。父に電話すると言って、俺は部屋に入った。息が上がる。これまでにない苦しみだ。薬を飲もうと探すが、台所に置いたままになっていた。行ける状態ではない。自慰行為だけで落ち着くとは思えなかった。こんな姿をまゆちゃんに見せたくはないが、声をかけるしかない。
「大丈夫?」
ドア越しにまゆちゃんが声をかけてくる。来るな、と思いつつも
「薬……台所に……」
と息を切らしながらも訴えた。遠のいた足音が戻ってきて、少し扉が開いた。水が床に置かれ、扉から出てきた手のひらには緊急抑制薬があった。
「これで合ってる?」
「……ありがとう……。」
そう言って薬を手のひらから取ろうとしたとき、優しくも力強く手を握られた。
「どうしたの?」
驚いた。でも、離せなかった。今この手を離したら、本当に会えなくなってしまう気がした。
「……このまま、手を握ってて。」
彼女の声も息を切らしていることに、俺はようやく気付いた。
「体に負担でしょ。薬だって……限度があるから、今は手を離さないで。」
頷く俺の姿は見えないだろう。でも頷く。熱い彼女の手を離したくなかった。この発情は朝まで治まらなかった。でも、彼女はドア越しにずっと手を握り続けてくれた。
それから数週間後、父から連絡があった。彼女から治験の辞退を申し出たと。
「緊急抑制薬の処方?」
なぜ疑問を持った顔でそんなことを言うのだろう。
「今回の治験はメインはΩですし、真由香さんには問診で伺っていると必要ないと思いますよ。」
でも、運命の番研究であるなら、私にもα側として薬の治験を行うべきではないか。
「真由香さん、αは希少なんですよ。ご家族が皆様βとはいえ、経歴を見るからにαに囲まれた環境が多いですからそのことを忘れてしまっているかもしれませんが。」
だったら、なんなのか。αが治験を行って何かがあったら大損になるのか、この私が。Ωであっても薬剤師で研究に携われるりーくんを苦しめ、万が一失うことのほうが私には大損だと思う。
「私、話しましたよね。りーくんが発情しているときのこと、傷つける一歩手前……もう傷つけているかもしれないと。」
手を繋いでしまった。症状は落ち着いたが、どこかで私はパンドラの箱を開けてしまったようだった。その後りーくんが発情し収まらなければ、手を差し出して離さなかった。それでも落ち着く様子がなければ……私が落ち着かないから、一度手を出してしまうと怖いものがなくなっていた。ハグをして「大丈夫、大丈夫。」と子どもをなだめるように背中をさすった。それも時間の問題だった。
ある時、ハグでも全く治まらない発情がりーくんを襲った。治験中の緊急抑制薬を飲んでも全く効かなかった。
「どうしよう……俺……いや、まゆちゃん、薬、持ってきて。」
「だめだよ、時間が全然空いてない……さっき飲んだばっかりだよ……」
どんなにさすっても、顔を近づけても治まらない。互いの息の荒らさが耳元に響いても、それがSOSでもどうにもならない。
「まゆちゃん……」
「……どうした?」
「まゆちゃんは……大丈夫……?俺……まゆちゃんになら噛まれてもいいから……何されてもいいから……。」
その言葉に心臓が高鳴ってしまう。しかし、噛んではならない。首元を噛んでしまったら、もうりーくんは私以外を受け入れなくなる。それは、りーくんの自由を奪うことになる。噛まれても、なんともないαの私とはそこが大きく違う。だから、できない。してはいけない。その思いをぐっと堪えるために力強く抱きしめる。その時、体が一瞬離れ、顔が近づいてきた。慌てて手をりーくんの顔に押し付ける。
「だめだよ……それは。」
その言葉は聞こえるように言ったはずなのに、りーくんが体に覆いかぶさってきた。大の男は重い。
「ごめん……ごめん……」
強く抱きしめるのはりーくんだった。
「このままで……いさせて……。」
体の細かな振動がよく伝わる。恐ろしい状況のはずなのに、全く怖くなかった。このままの時間が続けば……この先を望んだら……りーくんを傷つける。
そう思って、私はりーくんから離れるために治験の辞退を佐藤医師に願い出た。
「行為を行っても構いません。そのことを覚悟の上で息子は治験に望んでます。」
「ですが……やはり良くないです。」
「心配ならば避妊をしていただければ治験に関しては続けられるでしょう。もし妊娠しても、真由香さんとの子であれば僕にとっては喜ばしいことです。孫ですからね。」
その反応には言葉が出なかった。この人は今、父親として孫の誕生を喜ぶのか、それとも研究材料としてαとΩの子どもを見たいのか、片親がアルファである安心感で喜ぶのか。全く表情と声からは読み取れなかった。
「それに、番の証拠を付けた場合も研究の足しになりますしね。あ、でも運命の番の場合はαは番になったΩ以外に受け入れられなくなるんだろうか?そうなったら、真由香さんに申し訳ないから、噛むことだけは無しの方向でお願いします。」
「……。」
私は診察室を出るときに再度辞退を申し入れた。「大切な人を犠牲にしてまでやることではないと思います。」と捨て台詞とともに。
りーくんにはもう会えないだろう。会わないほうがいいと思って、病院を出てからりーくんの連絡先を消した。
まゆちゃんが治験を辞退してから半年が経った。半年間で運命の番研究が止まったわけではない。治験していた緊急抑制薬の結果も合わせてホルモン投与の改良が進められていた。人体への治験までとはいかない。そもそも対象者がいなくなってしまったから、確かめようがない。そのため、対象者が現れるまでラットのα・β・Ω属性化を再び試みる研究が始まったところだ。
「さすが東開大の病院だよね〜。」
「あれだけΩ研究に没頭している大学病院って、世界でなかなか見ないよね。」
比較的今日は空いているからか、そんな会話が調剤室に響いていた。運命の番研究はまゆちゃんの職業の特性もあって秘密裏に進んでいたが、さすがにラット研究に関してはある程度医学の世界に身に置く人間には伝わっていた。このラット研究に進めたのは、俺とまゆちゃんの検査結果があったからだ。
そんなことも知らないで、職場の人たちは噂話をしている。なんだかおかしいよねって、本当はまゆちゃんに話したいのだが、突然会えなくなっただけでなく、連絡先も繋がらない。
「ただの治験仲間だろ。」
父に聞いて帰ってきた答えがこれだった。
もう会えないのだろうか。諦めるべきなのだろうか。あの日再会した駅のホーム、時間を狙っていっても彼女に会うことはなかった。
「お先失礼します。」
治験の辞退を申し出てから変わったことに、私はジェンダーデータベース捜査室を離れ、駐在所勤務に一時的に籍を置くことになった。駐在所は捜査室でもたびたび問題に上がっていた地区にある。実地捜査を願い出たのだ。
当初は躊躇われた。ただでさえ本当は警察試験を受ける条件にも満たない小柄な体型であるため、何かあったときに危険だと言われていた。頭脳で警察に入ったようなものと言われたので、『駐在所勤務におけるジェンダーデータベース捜査室への還元』という論文を提出して人事を根負けさせたのだ。
なかなかに大変だが、大変なおかげで少しは思い人のことから離れることができる。そんな邪な気持ちで希望した配属なのだ。大変で結構である。
夜歩くには、明るいとはいえ物騒な空気は否めない。昔に比べれば、データ捜査室の開設もあって落ち着いたらしい。勤務している時より、夜道を歩く帰り道が一番気を張る。
「真由香……」
遠くで誰かが私の名前を呼んだ。振り返るな。急いで駅へ、さらに明るい方へ向かうんだ。歩くスピードをあげる。嫌な記憶を取り払うように先へ進む。
「真由香……!」
急に腕を掴まれ、路地の壁に打ち付けられた。近くにあったゴミ箱が倒れ、傘が飛び出した。その傘を拾って対抗し、叫ぼうとした瞬間、手で口を塞がれた。
「真由香、会いたかったよ……」
この人が誰なのか分かっていた。私が医学の道を諦め、警察の道へ進むきっかけとなった人物、尾木くんだ。
尾木くんはズボンのポケットから注射を出していた。まずい、これは匂いからして媚薬だろう。なんとか彼を蹴り上げて体が自由になったが、束の間だった。羽交い締めにされ、おなかに注射針は刺されてしまった。
私の両親はβだ。ついでにいえば、弁護士の兄もβ。いわゆる秀才な家庭だったと思うが、私がαだと分かった両親は
「もしかしたら、医学部に行けちゃうかもね!」
と、ある時ぽろっと言った。もともと勉強も苦ではなかったし、小学校のときに父の仕事の都合で引っ越した先で経験した災害での医療従事者を見て、医者になろうと思った。
東開大ではないけれど、医学部にストレート合格。国家試験にも受かって研修期間を終えて、やっと医師へのスタートラインに経った頃だった。
懇親会も兼ねて、同期で飲み会をした。尾木くんもそこにいた。正直に言えば、存在感はあまりなかった。私にとっては初めましての人だった。その尾木くんと帰る方向が同じだということで、一緒に歩いていたときだった。
尾木くんが発情した。
私はαではあるけれど、なぜかΩの発情に昔から誘発されなかった。
「大丈夫?薬ある?」
「……。」
無言の尾木くん。苦しいからと訴えないわけではなさそうだった。駅は目の前にある。そこに行けば緊急抑制薬をもらうことができる。条例で駅にΩの緊急抑制薬を置いておくことが義務付けられているからだ。
「目の前駅だから、もうちょっと耐えられる?大丈夫?」
「……どうして。」
小さな声が響いた。聞き返しても独り言のようにしか尾木くんは話さない。
「もしかして、体調悪かった?風邪?」
当たり障りのないことを言いながら、なんとか駅に行こうと尾木くんを運ぶがびくともしない。なんとか駅前の公園に差し掛かったとき、尾木くんは私の顔をマジマジと見てこう言った。
「どうしてヒートしないんだ……!!」
唖然とした。動けなくなってしまった。それが最後だった。
あれだけ苦しそうだった尾木くんが力の限り私の腕を引っ張り、公園のだれでもトイレの中に私を連れ込んだ。どれだけ抵抗しても、同世代の男性と女性では力の差は歴然だった。鍵のかかったこのトレイの中の声は、夜道で聞くものはいない。誰にも助けの声は届かなかった。
行為が終わると、尾木くんは私に告白してきた。それがなんだと言うのだろうか。私は帰れと叫んだ。その剣幕が凄まじかったのか、尾木くんはそそくさと帰っていった。
避妊などしているわけがなかった。警察に通報しようかと思ったが、まずは緊急避妊薬が先だと思い、救急車を呼んだ。たとえ避妊していても同じようにしていただろう。病院で処置をし、薬を飲み、案の定事情を知った病院側が連絡していた警察が取り調べのために来ていた。その後ろに父が苦しそうに泣きそうな顔で立っていた姿は二度と忘れない。
尾木くんはその後逮捕されたが、発情期であったこと、初犯であったことから刑罰は軽いものになった。
ホルモン投与の治療は保険適用になっていたが、長い期間を要することや通院をまめにしなければならないことから、Ωの誰もがホルモン投与治療を完了しているわけではない。経済的な理由だけでなく、身体的にも治療期間は負担がかかる。尾木くんもまだホルモン投与治療をしている最中だったことなどから、意外にも勤めていた病院にすんなり復帰した。
私は、そんな彼がいる場所に、業界に身を置くのが怖かった。でも、どうにかしてこの悔しさを解決したかった。だから、警察官になった。こんな思いをする人がいなくなるように、彼のような人がいなくなるように。
あの日は系列店へ返却する薬があったので、あの近辺にいたんです。そしたら、すごく不安そうな顔で駆け足で人が通り過ぎて……。そうですね、気にしなくてもよかったのかもしれません。ふと知り合いに似ていた気がしたので。それに、その人のすぐ後ろに明らかに様子が変……はい、そんな様子でしたね。なんだか、不安ではあったんですけど、まぁ、駅に行こうかと同じ方向を歩いてたはずなんですけど、いなくて。
ものすごい音がしたのでなんだろうと。それで見た先で、はい。そうです。それでまずい状況だなと。先に通報していればよかったんですけど……助けなければと。はい、以後気をつけます。
取り調べと問診は似ているなんて言っていたけれど、全く違うじゃないか。個人情報をこれでもかと伝え、状況も伝える。正直、無我夢中のことを紐解くのは至難の業だった。
「疲れた……。」
ここは東開病院。本当は慣れ親しんだところだが、全く落ち着かない。そもそも病院だから、落ち着くのはいいことなんだろうか。
俺にとってはかかりつけ医でもあるから、怪我をしていてこちらにお願いしますと言った。彼女は、まゆちゃんはどこに運ばれるのだろうか。あの男と一緒になるのだろうか。そんなことはないだろうが、俺は救急隊にお願いしてしまった。
「彼女も東開大学病院でお願いします。」
キョトンとしていたが、幸いにも2人なら受け入れ可能というわけで、俺とまゆちゃんはここに運ばれた。
彼女は今、やっと目が覚めた頃だろうか。そばにいたくても、こんな経験をしたのならいないほうがいいと思う。でも、何かできないだろうか……。
自販機で買った飲み物を開けずに、ただベンチに座って眺めていた。
「鈴木さん、目が覚めましたか。安心してください。ここは病院です。東開大学病院です。」
「……はい。」
まだ頭がぼんやりしている。東開大の病院か……確かこの看護師さんは記憶にあるような気もする。
「被害について確証が持てるもてなかったので、念の為洗浄をさせていただきました。無理矢理ですが避妊薬を投与させていただきました。性被害がなかったとしても体への大きな負荷はないので安心してください。念の為、こちらの薬も飲んでください。2、3日入院することになりますが、今日は休養優先で明朝手続きを行いましょう。」
「……はい、ありがとうございます……。」
柔らかな口調だが、流れるように説明は終わった。このあとに受けた取り調べは、ちゃんと意味を成していただろうか。犯人である尾木くんはこのまま逮捕されると聞いた。
私は状況を説明したけれど、注射されてからは正直覚えていないに等しい。ただ、助けに来てくれた人がいたことはわかっている。まさかとは思うけれど、その人であるならば、今すぐに会いたい。
そろそろ帰ろうかとしたとき、自販機の方に足音が近づいてきた。その方向に目をやると、ずっと会いたかった人がいた。
「まゆちゃん……」
「りーくん……」
名前が揃ったと思えば、同時に「大丈夫?」と声をかけていた。その瞬間、私の目から涙が溢れていた。その傷を見て、微かな記憶からありがとうと伝えたいのに、息が苦しくて、何も言えない。
すると、優しくてりーくんは抱きしめた。
「……これ、大丈夫?」
静かに頷く彼女に、俺は背中をさすった。立場は反対になっているが、懐かしくもあった。俺の熱が伝わらないように、この熱が嫌な記憶を呼び覚まさないように必死だった。
私はずるかった。その場で言わなければ、もう彼の顔をまっすぐに見られないと思った。
「私……会いたかった。」
「うん。」
「あのさ……思い人、いるんだよね。」
「……うん。」
「……佐藤利久さん。りーくんです。」
目を見て言ったはずなのに、言った瞬間恥ずかしくなって顔を埋めてしまった。
埋められた彼女の顔をそっと引き上げた。
「そうなってくれたら、どれだけ嬉しいんだろう。」
「そうなんです。」
また埋めようとする彼女の顔を押さえた。彼女にとって深刻な状況なのに、俺は告白が嬉しくて仕方なかった。
「俺も、ずっと大好きなです。鈴木真由香さん。」
「……なんでフルネームで言うの?」
「そっちがフルネームで言ったからだろ?」
気づけば、お互いに笑っている。さっきまでの悪夢を忘れたわけではない。けれど、この時間がずっと長く続かせるために、私たちは今ここで誓い合うんだ。
りーくんの顔を近づいてきた。少し、私は避けてしまった。
「……ごめん。」
彼女が謝る必要は一切ない。
「むしろ、俺がごめん。」
近づいた顔は遠のくでもなく、近づくこともなかった。しばらくしたとき、彼女が頬にキスをした。
いいんだろうか。それでも、そのキスに甘えて、俺も彼女の頬にキスをした。すると、なんだか2人とも笑い合って、熱く抱擁をしていた。あの時のように、朝までずっと抱きしめていた。
「それで、行ってきますのチューは?」
「……してる。」
「ただいまのチューは?」
「それはしてない。」
「へー!じゃあおはようは?」
「挨拶……?」
私がとぼけてみれば
「だーかーらー!」
と店内に声が響き渡る。瑞希は声のボリュームを上げたことに自身で気付いたのか、手で口を塞いでた。その様子がおかしくて、思わず笑ってしまった。
彼女は(見た目は男性であるが)私の医学部時代の同期である。現在は警察病院に勤務している。私にαの緊急抑制薬を処方してくれた医師であり、家族と研究チーム以外で運命の番研究を知る唯一の人物だ。とはいえ、今は完全に友人の恋愛に興味を示す女子高生ばりの勢いで質問をしてくる。
「まぁ、でもよかったよ。真由香にも身を委ねられる人ができて。」
「委ねられる人かぁ……。」
しっくりときたその言葉を反芻していると、「にやけてんな!」とつつかれる。その事件の直後にりーくんと恋仲になったことも伝えていたが、かなり瑞希には心配をかけていた。その事件の犯人である尾木くんは、余罪がかなりあるらしくΩとはいえ初犯でもないことから重刑が見込まれるだろうと、瑞希は知り合いの刑事から聞いていたらしい。
「もうそっちの案件になっているかもしれないけれど、これはトラウマになってもおかしくないことだから心配で。」
と、ご飯に誘ってくれた。私はあの事件以降、再びジェンダーデータベース捜査室に配属になっていた。私が受け持つ事件ではないが、確かに尾木くんは余罪のこともあって操作室では分析対象者になっている。
「同期の中からあんな犯罪者が出るなんて……初犯のうちから尾木に対しては刑罰を重くすべきだったのよ!レイプなんだから。」
「ちょっと、また声が大きくなっている。」
少々血の気が多いところはあるけれど、それゆえに真摯にどんな患者にも向き合えると私は彼女を分析する。だから、警察病院へ転職を決めたときは適切だと感じた。同期の中でも優秀だった瑞希が大学病院から離れることはほとんどの人が引き止めたけれど、今の彼女を見ているとこれで正解だったと思える。
その彼女が急に耳元で話し始めた。よっぽど人に聞かせられない話があるとき、彼女はわざと騒がしい店を選び、この体勢で話をする。その内容に目を丸くしてしまった。
「言っておくけど、私は誰にも言ってない。」
「わかってる、それは……。」
もしかしたら、真由香のところに記者が来るかもしれない。運命の番研究について、嗅ぎ回っている記者がいるらしいから。
彼女はこの忠告をするために、今日私をご飯に誘ったのだ。
話を聞いた俺自身、血の気が引くのがわかった。
「俺が原因だよな……。」
「そうとは言ってない。私だって治験に関わっていたから、あのときに東開大学病院に運んでもらったことは正解だったって言える。」
俺の自宅のリビングで、まゆちゃんは同期の話を聞いた。まゆちゃんのところだけでなく、俺のところに記者が来る可能性がある。事の発端はまゆちゃんが被害にあった事件だ。
加害者が警察病院に搬送され、残り被害者2人(まゆちゃんと俺)が東開大学病院に運ばれたことに疑問を持った記者がいるらしい。東開大学病院は事件現場から少し離れている。搬送先が少し離れた病院になることはよくあることだが、今回は明らかにΩの発情による事件だと一目瞭然なのに、なぜΩの加害者はABO研究をし、実績のある東開大学病院に運ばれなかったのか。警察病院は2人受け入れられる体制が整っていたのに、なぜそこに被害者たちを運ばなかったのか。
そこに疑問を持った記者が東開大学病院で聞き込みをしている。現在東開大学病院で行われている研究についても聞き出そうとしていたところ、公にされているラットへのα・β・Ωを適合する研究を思い出したらしい。あるときを境に「ABO研究に何か進展はないか」ではなく、「運命の番が実在したのではないか」と聞くようになった。これが東開大学病院にいる知り合いから耳に入ったと、まゆちゃんの同期は言っていたようだ。
「もう治験が中断してから時間が経っているし、今は東開大学病院に行くことは前に比べたら減っているから大丈夫だと思うけど……念の為ね。」
まゆちゃんは少し困り顔になりながら、忠告してくれた。そう、治験は中断となった。理由は俺らが付き合い始めたからではない。父にとってそのことは関係なかったが、海外で広がりつつある新たな感染症のワクチン接種が全ての国民対象で始まったため、念の為治験はしばらくは中断となった。データ上は大丈夫なのだが、ワクチンと治験薬や新たなホルモン投与の相性が合わない可能性を鑑みての対応だ。
とはいえ、運命の番研究が滞ったわけではない。やはりまゆちゃんと再会してから発情期の苦しさに直面するし、強い発情も起きている。今まで東開大学病院で診察していたが、念の為自宅で父が回診をすることがメインになってきた。
「誰か運命の番研究について口を滑らしたとかは、聞いてない?」
彼女は同期の話を思い出そうと考えていた。けれど、聞いてはいないようだ。
「瑞希も又聞きだから噂程度なんだろうと思っていたらしいんだけど、この間東開大に行ったら結構張り詰めた空気だったから間違いじゃないだろうって。実際、警備はかなり強化されてたみたい。」
父さんは何も言ってこないが、大丈夫なんだろうか。まゆちゃんはお父さんにこの話をすでに通していたが、治験に警察官が参加することは禁止されていないし、報酬を受け取っているわけではないから正々堂々とするだけだと言ってたらしい。
2人で心配してもどうにもならないけれど、秘密裏に進んでいた研究だから絶対に知っている者以外に言わないこと、俺たちが付き合っていると知っている人間でも運命の番であることは言わないこと(そもそも俗説だと互いに思っていたことだし、周りもそう思っているから)を決めた。決めたけれど、前からそうしていたので、改めて確認したようなものだった。
きっとこのスクープが出た場合の争点になりそうなことは、警察官が治験を行っていたことが副業と勘違いされて警察批判に発展するのではないかとりーくんと話していた。Ωばかりに負担がかかる治験だったから、Ωのラット化論争も起こりそうだったが、世間の目として警察批判のほうが食いつきがいいはずだからと、りーくんと話していた。その争点は、ほぼ現実となった。
まず取り上げられた記事は、やはり警察官が治験に参加したことだった。
『警察官が治験に参加。報酬を得ていた?』
この記事は、実は憶測で書かれていたものだった。
東開大学病院に張り付いていた記者がABO研究、特に俗説と言われていた運命の番についての研究の有無を聞き込みをしていた際に「こんなにも情報が出ないなら、プロが参加しているんじゃないんですか?情報のプロ。探偵とか、警察とか。」という話から、東開大学病院で行われている治験についてこらから明かしていこうとしていると書かれていた。完全に憶測であり、引き寄せるための見出しに警察官が使われたのだ。
しかし、現実に私は治験に参加していた。そして、意外にも警察内部には様々な治験に参加していた人が多かった。どれも報酬を受け取ってはいないが、やはり誤解を招く記事だったから警察としても説明の機会を設けることになった。これにより、警察批判を防ぐことは出来たのだが……。
「真由香、佐藤医師には会っているか?」
たまたま廊下で会った父と、いい時間だからと昼食を一緒に食べていたときだった。
「りーくんの回診で来たときに会うかな。簡単な血液検査キットがあるから、それで血液サンプルをいくつか渡して私の問診もするし。」
「変わりはなさそう?」
「……うん、まぁ。ちょっと疲れてたかな。この間の記事のこともあったから。」
その時、りーくんのお父さんは私のことも本当に心配してくれていた。しかし、あの記事を読んで警察批判に争点が置かれると考えていたのは間違いだと気づいた。
「あの記事は、ストライクを狙うはずがホームランになったんだ。そのバッターは」
「誤解を解くための説明をした警察だってこと?」
お父さんは苦い顔で頷いた。あの説明に嘘はない。警察官も治験に参加できる。報酬はない。それは事実だったからこそ、東開大学病院で運命の番研究が行われていると認めたと捉える動きが出ている。
秘密裏に行われた治験が存在した。多くの治験は個人情報は明かされないが、治験の実施は公表されていることが多い。透明性を図るためだ。その透明性なく行われた、Ωがメインの対象者の治験だ。今、東開大学病院の周りは以前にも増して騒がしくなっている。
「これ、血液のサンプルです。」
扉の向こうでまゆちゃんが父さんと研究のための資料の話をしている。どっちの血液か、発情前か、事後のものか。本当は俺が説明すべきだが、
「りーくんは診察があるから、ゆっくりしてて。」
と、脱いだ服を再び纏い、身だしなみを整えて父さんを出迎えた。対等に向き合っているはずなのに、こういうときに自分が情けなくなる。
部屋に父さんが入ってきた。扉を閉めるその瞬間に、向こうにいるまゆちゃんと目があって、互いに手を振った。
「幸せそうだな。」
人に言われると照れるものだ。黙って頷く。
薬は飲んだか。どんなことをしたのか。それぞれの時間はどのくらいか。研究のためだから明確にしなければならないとわかっていても、正直本能のこともあれば、好きでたまらなくて無我夢中なこともあって正確なことは一度も言えたことはない。でも、父さんは怒らなかった。以前より柔和な顔に見えるのは、最近の騒動の疲れもあるんだろうか。
「子どもは考えたことはないのか。」
問診が一段落した頃、突然父さんから言われた。
「まだ結婚もしていないのにって顔だな。学生じゃないお前に言うのも変だけど、どんなに理性が飛びそうなときでも避妊をするのは、あの子を思ってのことだろ?」
扉の向こうに父の目線が向いた。俺の他には弟しかいないけれど、まるで娘を見るような目をしていた。
「授かり婚も多いけどさ、ちゃんと順序を守りたいから……そんな未来を考えてもいいのかなって、最近思えるようにはなってきたけれど。」
Ωに結婚は向かないと言われてきた。望んでなくても発情で節操のないことが起こるなら、未婚で世を終えるほうが世のため人のためだと言う人がいる。中には、発情を利用して少子化対策に役立つなら別だと言う人も。
父も母も、弟もαだけど、そんなことは言われたことはない。しかし、父さんがABO研究をするようになったと知ったとき、やっぱりΩは異端なんだと思ってしまった。その研究のおかげで日常を生きることができても、そんな人間が愛する人と添い遂げたり、家族を持ったりことは許されないんだと考えるようになっていた。
「そんな未来を利久に歩んで欲しいから、この研究をしているんだ……!」
父さんが涙を流す姿を見たのは、母さんが死んだとき以来だった。その表情は力強く、優しく、どこか懺悔のようだった。その顔を残したまま、まっすぐに俺の目を見て、訴えるように話し出した。
この度の一連の報道で、患者様、当院に勤める職員、並びにご家族をはじめ、多くの方にご心配、ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。
Ωの発情に対してわかっていることは、α、一部のβのヒートを起こすこと、発情時に性行為を行えばほぼ妊娠すること。正確にわかっているのは、本当はこのくらいのことです。発情が生涯続くものなのか、実は未だに分かっていません。月経のように閉経のようなものが発情期に存在するのか、妊娠の確率と年齢や男女の違いについて、不明なことが多いのです。
そうなってしまったのは、Ωの発情に対する仕組みを研究する前に、発情を抑える仕組みの研究に傾倒したからです。Ωの発情を抑える仕組みを研究するのなら、α、そして一部のβのヒートの研究も同時に行うべきでした。しかし、注力を入れたのはΩ研究でした。法律の制定だけではなく、この研究があったからΩへの偏見が昨今減りつつあるといいますが、今もなおABO研究の中でΩ研究に尽力を注いでいるような背景があるがゆえに、その偏見は本当は減ってなどいない、偏見を語る時点で偏見があることを今回の運命の番研究の治験の記事により、改めて気づいた次第でございます。
記事に書かれている治験ですが、実際に行われていました。現在は中断しておりますが、治験による健康被害があったわけではなく、新たに始まった感染症のワクチン接種との兼ね合いを鑑みての中断です。データ上では治験を続行しても問題はないと見ておりますが、治験対象者の身を守るための判断であります。
治験の実施について公表しなかった理由としては、とてもセンシティブな事柄であり、プライバシーを守る上での判断でした。ですので、対象者の追跡、治験の進行などは今後もクローズドで進めさせていただきたく、ご理解をお願い申し上げます。
α・β・Ωの属性は人間だけの特徴とされておりますが、現在この属性を適合したラットによる動物実験を実施できるよう、研究は進行しております。人体への治験をいきなり始めるのではなく、きちんとABO研究でも動物実験を経て治験を行えるよう取り組んでいる最中です。
ABO研究はΩだけでなく、α、βの研究も尽力する所存です。この研究は誰もが生きやすい世の中にするために始まったものです。この度の報道で多くの方々に不安をもたらし、傷つけたこと、深くお詫び申し上げます。
父さんをはじめとするABO研究チームの会見内容は、前日の回診で父さんが俺に訴えた内容とほぼ一緒だった。言葉こそ会見では堅いものが多かったが、俺にはもう少し柔らかく伝えられていた。それは、俺に対する謝罪もあっただろう。そこに怒りをぶつけるほどもう子どもではないし、そのことは分かっていた。分かった上で、俺は父さんの背中を追っていた。
「これを明日、会見で話す。」
俺はすぐには反応できなかったが、父さんの目を見て深く頷いた。
この会見の反響は良くも悪くも大きなものだった。国内だけではなく、世界に注目されたものだった。やはりΩへの格差が問題視されたり、動物実験が難しいからとはいえ急に人に治験を開始する恐ろしさを伝えたりする報道が多かった。東開大学病院の運営にも支障をきたすほどのことで、一時は研究チームの解散、ABO研究の第一人者であっても佐藤医師の解雇、業界の通報の声も上がった。
しかし、この研究に救われたという声もたくさんあった。佐藤医師を医学界から追放すればABO研究は滞り、さらなる偏見が生まれるという声まであった。そんな声が出てきた理由は、父の会見での質疑応答の答えもあるだろう。本当は自分の権力を得るためではないのかと聞かれたとき、父さんはこう答えた。
「研究のために、力は必要だと感じることはこの業界に長くいればいるほど感じます。
私は、大切な人を守りたくて、救いたくて……それが始まりでした。その思いが今も奥底にあるんだと、最近改めて気づき、真摯に研究と治療に望んでいます。」
結果、佐藤医師も降格や減給などの処分は下されたが、研究チームは謹慎期間はあったものの誰ひとり欠けることなく存続となった。治療や研究に大きな打撃を受けたのはわずかな期間だった。
人の噂もすぐに収まる。一時は廃院になるかと噂されていた東開大学病院も軌道修正して、以前と変わらない風景が戻ってきた。その理由に、ヒートに苦しむαやβの来院が増えたことがあった。
あの会見の反応で、ここが国内だけではなく世界的にもABO研究の権威であることが知れ渡ったことがある。世の中、何が起こるか分からないものだ。
その頃、私とりーくんの仲にも変化が訪れようとしていた。
「家のお見送りで十分だったのに。」
そういう彼女の顔をまともに見ることができなかった。
「なかなか外でデートってしてなかったから、一緒に来た。」
「あぁ、そうだったね……。今日は大丈夫?」
「だ、大丈夫だってわかってるだろ!」
思わず彼女の顔を見た。破顔の言葉がこんなにも最適なまゆちゃんの笑い顔、もう見られなくなるのだろうか……。
今、空港にいる。まゆちゃんはアメリカへ留学することになった。プログラミングを強化して仕事に反映するため、アメリカの他にも留学を転々とするかもしれない。治験の記事の騒動をきっかけに、まゆちゃんは改めて医学の道を歩み、それをジェンダーデータベース捜査室に還元しようとも考えていた。海外のABO研究に取犯罪捜査の視察も今後行おうとしているから、どれほど離れ離れになるか分からない。
そんなことをずっと考えていた。ここが本当の別れになる。そんな予感を感じていた。
「じゃあ……ここで。」
ただ、見つめるしかできない。でも、言えることは言わなければ。
「また会おう。」
「……うん。」
なぜ、ここで指輪の一つでも用意できなかったのだろう。まゆちゃんを思ってこそと言いつつ、自分が一番傷つきたくないだけだ。俺は、傷だらけになってもいい。その覚悟があるはずだ。
「会うから、絶対会うよ!まゆちゃん、ちゃんと拒否しないと俺は会い続けるから。連絡先消さないから連絡するし、連絡先が消えたならおじさん使ってでも連絡する。手紙も書く!」
あまりに力を入れて言ったからか、かなり大きな声になっていたことに気づいたのは、泣き笑いなまゆちゃんの顔を見たときだった。声が大きいと笑っている。
「会うよ!私も絶対会うから!そもそもどれだけ国を渡り歩いてもビザの関係で帰って来るし、そのたびにりーくんの家に駆け込むから!あと、手紙は私から出したほうがいいよ。返ってくる可能性があるからね!」
やっと2人で笑い合えた。そのままどちらからともなく、ハグをする。
「私さ、どうして運命の番なのに、番になれるのに噛まなかったと思う?」
「……心変わりがあるかもしれないから。」
その途端、あんなに小柄なまゆちゃんの指が俺の額を跳ねた。
「……いったあああ!!」
「ばか!」
その瞬間、目が吸い込まれるように目線がぶつかった。
「私が愛する人はあなただけだから。あなたを生涯愛する覚悟の証明は、噛み跡を残す容易さで誤魔化しちゃいけないから。生涯証明していくためだから。」
どんな愛の言葉よりも強く胸に響いた。これがプロポーズならば、返答を今すぐにしよう。まっすぐに見つめて……。
「俺が愛する人は君です。君以上に生涯愛する覚悟です。だから、愛される覚悟を常に持っていてください。指輪が今ここになくてごめん。」
すると彼女は「何言ってんの!」と笑って、再びハグをした。別れのハグだ。どうか君の旅路に幸運を。その先に俺がいますように……。
彼が見えなくなるまで手を振り続けようとしたけれど、耐えられそうになくて早々に背を向けてしまった。今、どんな顔をしているだろうか。それとも倒れていたらどうしようか。
もう彼は見ていないだろうと思って、少し遠くから彼を見た。しっかり立っている姿に安堵した。大丈夫、彼なら。大丈夫、私たちなら。
そうは思ったけど、たまらなくなって私は再び彼のもとに駆け出した。
「どうした?忘れ物?」
意外と平然としている。ならば、驚かそうか。せっかくの外のデートだ。
「誓いのキス、忘れてた。」
「……へ!?え、え……ここ、人たくさんいるよ?!」
ちょっと意地悪したくなった気持ちが強くなって、ふと我に返って恥ずかしくなった。確かに、こんな公然の場で何を言い出した?!ちょっと流行りの海外ドラマを語学の勉強がてら観ていた影響が仇になっていると思った。
「いや、そうだよね。いや、今のなし!りーくんをもう一回目に焼き付けたかっただけだから」
顔が赤くなっていることは自分でも分かっていた。最後に何をしているのだろう……。
「……まぁ……考えようによっては、証人がたくさんいるってことになるかな……?」
その言葉を聞いて、やっとりーくんの顔を見上げることができた。互いにやりとりがおかしくて笑っていた。
2人はそのまま静かに唇を重ねた。別れを惜しむのではなく、これからの2人の未来を誓うように。
東開大学病院のABO研究チームがノーベル平和賞を受賞した。医学賞でない理由は、ホルモン投与が人体改造の問題に値するという声が少なからずあったため。ABO研究開始当初からこの声は一定数あったが、それぞれの偏見を克服する助けになったこと、階級問題や貧富の格差、奴隷問題の改善に一躍を担ったと評価を受けてのことだった。
とはいえ、まだ運命の番だけではなく、様々なことが未知の領域の研究だ。研究への期待を込めた受賞でもあった。
「今さらな気もする受賞だよな〜。」
「ノーベル賞ってわりかしそういう賞なんだって思ってたけれど、違うのか?」
正直なところ、その話はあとにしてくれ!今日はこのジェンダーデータベース捜査室まで警備隊に駆り出されて人が少ない上に、やらなければならないことが山積みになっている。猛スピードで私は仕事を終えるんだからと躍起になるしかない。
「そういえば、この研究チームの中にドイツの運命の番研究に関わっている人がいるんだよな?」
「鈴木さんに聞けばわかるんじゃない?あの人、プログラミングの留学で猛スピードで世界渡り歩いたと思ったら、イギリスとアメリカで犯罪捜査の視察して、ドイツにABO研究も覗いたらしいじゃん。」
「めっちゃ優秀じゃん!さすがαは違うな!」
EnterKeyを押すごとく、私は言った。
「室長、今日はもう上ります!あとはよろしく!」
ポカーンとする部下を残して、判子のように「お疲れ様です」を連呼してその場を去っていった。
空港の警備の数に驚いた。が、俺のためではない。
「今日は外交関係で空港の警備が厳しいんです。」
「利久さんも要人ですよ!」なんて空港の中までわざわざ迎えに来た地井さんは言う。地井さんはじいやの息子だ。俺の秘書のような存在ではあるが、車の運転はじいやのほうが安心する。
父の研究チームがノーベル平和賞を受賞した知らせを受けたのは飛行機の中だった。俺も今はその研究チームの1人ではあるけれど、ペーペーの立場だ。そんな人間に格好などいらないのだが、なぜか俺よりもビシッとスーツを着た地井さんが空港にいたのだ。そこまでしても、旅行客と変わらずに空港の外に出てきた。
「今日は父の車ですので……あれですね!」
そこにあったのは、黒のSクラスのベンツ。丁寧に後部座席の扉を地井さんは開け、俺は乗り込もうとした。その中にいた人物に、俺は驚き、ほころんでしまった。
「おかえり、りーくん。」
静かに微笑む彼女に、俺は返す。
「ただいま、まゆちゃん。」
2人は微笑んで抱擁をする。伝わる温もりが愛しくてたまらない。
「今日、出迎えできないって言ってなかった?」
「言った。でも、会いたかったから。仕事早く切り上げて、じいやさんに頼んじゃった。」
バックミラー越しにじいやが映った。「お久しぶりです。」と挨拶をそこそこに、再会の余韻に浸る俺らを見て見ぬふりをしてくれる。そんな中、切り裂くような声が響いた。
「ママーーー!!!」
まゆちゃんは「ああ、ごめんごめん。」と言って、チャイルドシートに座るその子に「ほら、パパだよ!」と教える。すると、俺に向かって「ぱぱぁ!」と笑う。こんなにも子どもの成長は早いのかと、驚くばかりだ。
「今日はこのままご自宅ですか?」
じいやは行き先をカーナビに入れようとしている。今日はこのあとの予定は何もない。まだ昼過ぎだ。
俺とまゆちゃんは顔を見合わせた。考えていることは同じようだ。
「いちご狩りに行きませんか?それで、美味しい苺ミルクを飲みましょうよ!」
何も知らない地井さんは同意するどころか、いちご狩りと聞いて目を輝かせている。けど、じいやは違った。
「絶対にこぼさないでくださいよ!今日の良き日のため、この新車を納車したんですからね!」
そう言いながら、じいやは笑っていた。俺とまゆちゃんも、あの苺ミルク事件が頃のように笑い声で革シートのSクラスのベンツを響かせていた。