明るい未来に就職希望
祝って、呑んで、食べて、騒いで。
いい日だったと思う。家を出る前、出てからも億劫だったけれど、行ってよかったと思う。
本当は帰って、ドラマ観て、ドラマ観て、アウトプットがどこに繋がるかいまだわからないけれど、インプットをしたかった。
そんな思いもあった。今、猛烈にそれをやりたい。
結婚する。子どもどうしよう。卵子凍結しようかって。今はまだ楽しみたい。
なんだろう。女ってどんなに時代の技術が進化しても期限があるんだ。価値観でなくなったつもりの期限はまだまだ残っている上で。
私は、その会話には入れない。みんな、気を遣って触れないようにもしてくれているみたい。こんなとき、どんな気持ちを抱くことが正解なんだろうか。
できるなら、結婚もしてみたいんだろうか。
子どもは、自分が不安だから欲しいのだろうか。
どこかでひとりで生きられない現状に生きる望みを2つに対して掛けていないか。生きられるように変えればいいのに、己をさらに殺しかねない選択なのではと舵を切れないだけではないか。
こんな人と愛を誓う人も、親だと思わなければならぬ人にも失礼だから、私はそのふたつを今は望んでいない。そう思いたいのかもしれない。
そもそも、人を好きになるってなんだ。
私は「あの人が好きなんだ」と周りに告白した恋心を抱いた人たちを本当に好きだったのか、振り返った今は否定的な気持ちを抱くばかりだ。愛はあっても憧れで、胸を締め付けるような思いがあったのか定かではない。そんな思いを忘れてしまった可能性はあるのだけれど。
だから、恋愛をする人は凄いと思う。
私も好きという気持ちはわかる。ドラマや映画、舞台や小説、漫画で語られる恋愛に胸を締め付けられるし、好きだから趣味だったり、その先を夢見たりもする。だけど、私の中で恋愛の欠如を感じる。私自身の恋愛が欠如しているのだ。
じゃあさ、出会えばいいじゃない。
紹介するよ。アプリがあるよ。
違うんだ。そんな出会いを望んでいない。その前に、恋愛を受け入れられないんだ。私にそんな言葉をかけないでくれ。申し訳ないから。言われてもいないのに言っても、って話なのだが。
じゃあ、今で言うLGTBQなんだ。
わからない。そして、そこではめ込まれても私は素直にすんと受け入れられない。変わるかもしれない恐ろしさもある。その変化を受け入れると周りが認めてくれても、私自身が認められないんだ。
そんなことを、祝って、呑んで、食べて、騒いで、ドラマが観たくて、ドラマが観たくて、いつかアウトプットするんだと思ってインプットしたい今、考えている。