興亡の世界史09\モンゴル帝国と長いその後\著)杉山正明

ー感想ー
 私たちは、よりよく「いま」を生きるために、「いま」に全てが結びつく長い人類の歩みの道のりである歴史を総合的に知る必要がある。そのためには、歴史研究者・歴史家といわれる人たちによって書かれた本を読む必要がある。

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<裏表紙>
 チンギス・カンが創始し、ユーラシアをゆるやかに統合した「大モンゴル国」。その権威と統合システムは、帝国解体後も各地に息づいていた。ロシアのイヴァン雷帝、ティムール帝国とムガル帝国、そして大清帝国。初めて「世界史」と「世界地図」を生み出し、人類史の画期となった「モンゴル時代」の現代に至る長い影を追う。空前の帝国が常識を覆す。

世界をゆるやかに統合したモンゴル帝国

 1206年にチンギス・カンが建国した「大モンゴル国」は、14世紀初頭(1300年)にはチンギス家の君主を戴く複数の国家(ウルス)による世界連邦と化し、アフロ・ユーラシアをゆるやかにまとめ上げた。人類史上の画期なったこの時代を「モンゴル時代」と呼ぶ。

序章 何のために歴史はあるのか

 歴史とは、いったいどういうものなのか。そもそも、歴史研究は何のためにあるのか。そして、歴史研究者・歴史家といわれる人たちは、何を求め、また何を語ろうとするのか。
 そもそも、イスラームは特殊でもなんでもない。ユダヤ教、キリスト教という先行者の中から生まれたでた融合物である。さらに、スンナといいシーアといっても、教義において決定的な差異はない。対立をつくるのは、宗教という名の組織であり、団体なのだ。組織間の利害を宗教的必然として説明するのは、極めておろかしい。信仰と宗教は別物である。
 私たちは、どういう道のりを辿って今こうしてあるのか。人類に共有される歴史像・世界史像を是非ともつくりたい。そして、それは過去・現在・将来を問わず世界を認識する上で不可欠の視座を提供するものでありたい。
 最初の遊牧国家のスキタイは、少なくとも間接的な影響で言えば、スキタイ風の文物・遺跡はシベリア、中央アジア、外モンゴルをこえ、現在の中華人民共和国のうち新疆、内モンゴル、華北、雲南に至る広大な広がりを覆う。
 ユーラシアの内側の世界を、まずはいったんスキタイ風の何かが席捲・流布したのである。おそらくは、それがユーラシア乾燥域の基層となった。研究者によっては、スキタイに起源する制度・文化・観念・価値観は、ずっと生き続けて、なんとモンゴル帝国時代にまでその影響は残存したとする意見さえある。
 スキタイに次ぐ遊牧国家の顕著な存在は、紀元前200年前後、中華地域でいわゆる秦漢交替期に一気に「帝国」へと浮上した匈奴である。
 匈奴国家の根本たる遊牧軍事体制においては、君主たる単于(ぜんう)を中央にして、南面する形で左翼(東方)と右翼(西方)に領袖たちの遊牧分領が整然と並びあった。

人類史上初の「世界史」

 モンゴル帝国のうち、現在のイラン・中東に成立したフレグ・ウルスで国家的に編纂された「集史」は、モンゴルの正史であるだけでなく、モンゴル時代以前の中央ユーラシアに生きた遊牧民諸部族の歴史をも集成した。まさに初の「世界史」である。
 モンゴルの著しい特徴は、人種・民族・文化・言語・宗教などの違いによって人を区別することが希薄であったことである。特定の文明観・価値観に基づく偏見を殆どもたなかった。要は、役に立つ、ないしは有益であればよしとした。その意味で、何より政治性が際立っ国家であったといっていい。
 13〜14世紀にユーラシアの大半を領有した超広域のモンゴル世界帝国は、人類の歴史に紛れもなく一つの画期をもたらした。東は日本海から西はドナウ河口・アナトリア高原・東地中海沿岸に至るまで、チンギス・カンを開祖とする血脈・王統が、帝室・王族として各地にさまざまなあり方・レベルでの権力・政権・分領を形成しつつ、地域によつてかなり長短の違いはあるけども、全体としては少なくともおよそ2世紀ほどの間は、ユーラシアに共通の支配層となって君臨しつづけた。
 歴史は、死んでしまった過去の物語ではない。
 私たちが生きている「いま」に、全てが結びつく長い人類の歩みの道のりである。「いま」を知り、理解するには、きちんとした歴史を総合的に知るほかない。すなわち、よりよく「いま」を生きるために、歴史は不可欠である。

end

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