興亡の世界史04\地中海世界とローマ帝国\著)本村凌二 

ー感想ー
この本がなかったら、私はローマ帝国の興亡史を、高校の歴史で学んだ、表面上の知識だけでなく、地中海の覇者ローマ帝国の成立から、興隆期、衰退期とローマの歴史を垣間見ることができ、歴史を興味を持って深く観ることができました、その幸せに感謝したい。
それから、SPQR(ローマの元老院と民衆)表示について、イタリア人のローマ帝国の誇りを持っていることに、驚いた。
これからは、SPQRの表記を見ても、その背景がわかってよかった。
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<裏表紙>
 紀元前753年の建国神話に起源を遡る都市国家は、なぜ地中海のを覆う大帝国を築くことができたか。熱狂的な共和政ファシズム、宿敵カルタゴを破った「父祖の遺風」など交流の秘密を解き明かし、多神教から一神教への古代社会の変貌t帝国の群像を描く

ローマ帝国の版図(はんと:国の領土、領域)と主な史蹟
 ローマ帝国は、トラヤヌス帝の時代(98年〜117年)に度重なる遠征によって最大の版図を実現した。戦勝記念碑に描かれたダキア戦争によって黒海西岸のダキア地方(ほぼ現在のルーマニアにあたる地域)を征服。さらに東征してパルティア王国を破りアルメニア、メソポタミアも属州とした。これにより北はブリタニア北部(現在のスコットランドとの境界付近)、南はアフリカの地中海沿岸、東はカスピ海に至る広大な地域を支配した。

まえがき
 医学と修辞学のはざままで
 歴史学は医学の兄弟として生まれたという。確かに歴史学の父ヘロドトスと医学の父ヒポクラテスは紀元前5世紀のギリシア人だった。どちらも過ぎ去った事象から多くを学習している。歴史家は昔の出来事に思いを馳せるのだが、医者はかつて生きていた人間の死体の解剖から判断の材料を引き出すのだ。もし人々が歴史家の言葉に耳を傾けてくれるなら、歴史家には説得の才覚がなければならない。だかあ、歴史学にはもう一人の兄弟がいるはずである。それこそが修辞学であるのだ。だから、20世紀を代表する古代史家の一人であるモミリアーノは「歴史学は医学と修辞学のはざまで生まれた」と語っている。

修辞学とは、自分の考えや主張を相手に効果的に伝えることによって、理解・納得を得るための技術・学問のことを指します。 英語では「レトリック(rhetoric)」であり、むしろ英語名の方が聞き覚えのある人が多いかもしれません。

人類の経験の全てが詰まったローマ史
 紀元前8世紀半ばに生まれた小さな村落がほどなく都市国家となり、やがて近隣諸国を併合してイタリアの覇者となった。それにとどまらず、西地中海域にも東地中海域にも勢力を伸ばし、紀元前2世紀半ばにはもはや地中海世界に並ぶものない世界帝国へと変貌していたのである。いかにしてこのような興隆があり得たのだろうか。それは同時代の古代人にとって、とてつもない驚異であったらしい。それだけではなく、それほどの大いなる覇権が数世紀にわたって維持され、「ローマの平和」Pax Romanaの中で安寧と繁栄が続いていたのである。これに比せられるかどうかは別にして、20世紀に生まれた社会主義国家のソ連はわずか70年ほどで同世紀の中で姿を消してしまった。
・「自由を標榜したローマ人は数百年間もその勢力を保持した
・「平等」を掲げた社会主義国家はわずか数十年で崩壊した
ここには「自由」と「平等」に思いを馳せながら、人類の行く末を案じるための素材が満ち溢れていると言ってもいいだろう。

われわれ日本人が欧米社会を模範としてきた時、
①第2次大戦
②バブルの崩壊
と2度も挫折した事になる。
 そこから、それに代わるモデルとして浮上したのが古代ローマ史ではなかっただろうか。ここには興隆も衰退もあり、戦争も平和もあり、苦難も繁栄もあった。これほど起承転結に溢れる完結した歴史世界があり得ただろうか。
 そんな感慨を抱きつつ過去を振り返るとき、やはりローマ帝国の興亡史はことさら気になる題材として身近に迫ってくるのだろうか。

1.紀元前146年の地中海世界
  地中海帝国の幕開け
  同時期に出現した東西の世界帝国
  紀元前146年は、ローマにとって忘れがたい年である。カルタゴの破壊、マケドニアの属州化、コリントの破壊が相次いで起こっている。イタリア半島を基点にして、西にはカルタゴ勢力圏があり東にはマケドニア・ギリシア勢力圏があった。今では、その全てがローマの掌中に落ちたのである。これは偶然の出来事なのだろうか。

 ユーラシア大陸の東に目を転じてみよう。紀元前3世紀後半の東アジアでは、戦国時代の群雄割拠の混乱を終わらせ、秦の政による統一帝国が誕生している。そこには、これまでにない中央集権政治があり、まったく新しい君主の姿があった。しかし、この始皇帝の死後、秦は内乱におちいり、滅んでしまう。
 この混乱の中から、楚の項羽(カンウ)と漢の劉邦(リュウホウ)が戦い後者が勝利して漢国が生まれている。この中国の命運を決めた戦いは終局場面における四面楚歌の故事でも名高い。それは紀元前202年のことであるが、奇しくも同年、地中海世界でもザマの決戦があった。大スキピオの率いるローマ軍がハンニバルの率いるカルタゴ軍を打ち破ったのである。
 こうして、紀元前3世紀末、ユーラシアの東では漢が大覇権を打ち立て、西ではローマが大覇権を樹立する。だが、その大覇権といえども、いかなる周辺の脅威をも拭い去ってしまったわけではない。漢の北方には騎馬遊牧民たる匈奴(きょうど)の脅威があり、イタリア半島の周辺ではマケドニアもギリシアも勢力を保ち、復興するカルタゴも油断がならなかった。
 しかしながら、紀元前2世紀後半になると、これら東西において名実ともに世界帝国が姿を現す。

①漢の武帝は匈奴を駆逐して覇権を拡大する
②ローマは紀元前146年(地中海の西の方で第3回ポエニ戦争が終結し、ローマがカルタゴを徹底的に破った年、これにより、ローマは地中海世界の西側で非非常に大きな力を振るう事になる。)を迎える。

 世界史は時には粋な計らいをするものだ、そういえば、簡単に済むかもしれない。だが、たまたまそう見えるだけの類似した出来事なのであろうか。そこには、偶然ならざる必然、あるいは必然ならざる偶然があるのではないだろうか。

農耕と牧畜が始まり、数千年を経て文明が生まれた。青銅器時代から鉄器時代へと変遷する中で、古代の諸国家の間では戦争が繰り返される。
①ユーラシアの東の春秋戦国時代という乱世
②ユーラシアの西のポリス(古代ギリシアの都市国家)世界はしばしば慢性的戦争状態として描かれている。
それら諸勢力が乱立する中から一大勢力が頭角を表すのである。

 振り返ってみれば、
①東では秦帝国が流産し、やがて漢が台頭
②西ではアレクサンドロスの帝国が束の間の生涯を終える。
ローマが覇権を築いた。
それらは、期せずして、紀元前2世紀後半には、諸民族と諸国家を広域にわたって支配する。まごうことなき世界帝国の時代が訪れたのである。

3.イタリアの覇者ローマ S・P・Q・R
  建国神話を読み解く
  元老院と共和政国家の誕生
 ローマの長老たちは父たち(パトレース)と呼ばれていた。彼らの集まりこそが元老院である。王が追放されると、さっそく元老院が増員される事になった。父たちに加えて、新たに登録者たち(コンスクリプティ)が選出される。もちろん、これら新参の元老院議員は平民出身であった。そこで、伝承は、この時門閥派と平民派の区別ができたという。
 それはともかく、ローマ人は自らの国家をS・P・Q・Rとしるす。これは、
Senatus Populusque Romanus の略号であり、
「ローマの元老院と民衆」を意味する。だから今日でも、
ローマの街角にはあちこちに、この略号が目につく。
例 公示板に「ゴミを捨てるべからず、S・P・Q・R」とか
  マンホールの蓋にS・P・Q・Rとだけ刻まれていたりする。  
 もっとも、生真面目な日本人なら、
・奈良市の公示板に「生ごみ収集は月曜日のみ 大和朝廷」
・東京都のマンホールの蓋に「大日本帝国」
と刻んだりすれば、眉をひそめるかもしれない。でも、偉大なるローマ帝国は陽気なイタリア人には今でも誇りなのだろう。

4.ハンニバルに鍛えられた人々
  勝利を導いたローマ人の伝統
 打たれてもめげないということは失敗を単なる失敗で終わらせないということでもある。失敗から学ぶという姿勢が身に染みているとも言える。だから失敗した者でも勇気をもって事態にのぞんだのであれば、責められるわけではなかった。むしろ温かく迎えられることさえある。例えば、カンナエの惨敗将軍ウァロが敗残兵を引き連れ帰国した時、元老院は「共和政国家に絶望しなかった」勇者を讃えて感謝したという。彼はさらに指揮権の延長が認められ、捲土重来(けんどちょうらい:一度戦いくさに敗れた者が、再び勢いを盛り返して、相手方に攻め込むことのたとえ。 転じて、一度敗れたり失敗した者が再び巻き返すことのたとえ。)の機会が与えられたのである。そのかわり、臆病者や裏切り者には情け容赦がない。ーそれがローマ人の「父祖の遺風」であった。

 共和政ローマの社会における人間関係について、共和政ローマは、なんといっても元老院貴族による寡頭政支配であった。とりわけノビレスと呼ばれる貴族の世襲支配が目立っている。ノビレスとは統領(コンスル)級の公職者を祖先にもつ人々であり、貴族の中でも有力家系であった。
 しかし、血筋さえあれば、全てが安泰であったわけではない。統領級の公職に就任する家系は次から次へと交替することが多かった。だから由緒ある名門貴族といえども、みずからの力で功績をあげなければ有力者にはなれない。祖先の名に恥じない功績を積み重ねること、それが「父祖の遺風」を実践することである。貴族がそれなりに勢威をもつ貴族であるためには、厳しい試練に耐えるということでもあった。2世あるいは3世であるからといって、いつまでも安閑(あんかん)としていられたわけではない。

 救国の英雄を告発した旧套木主(きゅとうぼくしゅ:古いしきたりや習慣、方法をかたく守っていくこと)の義人
 スキピオとほぼ同年生まれのカトーはこの救国の英雄に生涯敵対心を燃やしたことでも名高い。そもそもスキピオがシチリア島で新兵の訓練をしているころ、カトーはそこを視察したという。スキピオのおらかな人柄、ギリシアかぶれ、規律に厳しくないこと。ことごとくカトーは反発を覚えたらしい。事の真偽はともかく、二人が青年の頃から犬猿の仲だったことを示唆するものである。相次いで公職に就いても、カトーは公金の無駄遣いも汚職らしきことも一切しなかった。それほど公明正大であり冷徹なほど正義をつらぬく人物だった。清廉潔白だが、奴隷や敵には温情をみせず冷酷ですらあったという。軍人としてはイベリア半島で原住部族を服属させ、ギリシア遠征でシリア軍を打ち破っている。自分の凱旋式は主張したが、他人の凱旋式はなかなか許さなかった。目立った功績もない人物の彫像が建てられる事にも不快感を隠そうとしなかった。
「死後になぜ私の彫像があるかと尋ねられるくらいなら、なぜ私の彫像がないのかと尋ねられた方がましだ」と語っていたという。贅沢とギリシア文化の流入を道徳頽廃(たいはい)の原因として批判し、政敵を容赦なく告発している。「敵の数が多いだけ人物は評価される」が口癖だったという。その点でならカトーは文句なく優れた人物であった。自分に厳しいだけ他人にも厳しかったのだろう。しかし、政治家としてのカトーには正義の人とばかりいえない面を少なくない。
 ザマの戦いの後、長い戦争を終結させたスキピオが帰国した。彼は「アフリカヌス」という尊称をもらい、民衆の歓呼と貴族の羨望の中を凱旋した。このときスキピオに嫉妬したのはカトーだったに違いない。
 そのカトーも晩年になると気がかりなことが出てきた。きっかけはローマ使節団の一員としてカルタゴを訪問したことである。その都市の巨大さと豊かさに肝を潰す。カルタゴは紛れもなく復興していた。すでに50年分割払いの賠償金をも一括して支払いたいと願い出ていたのも虚勢ではなかったのだ。カトーは帰国すると元老人に出向く。カルタゴから持ち帰ったイチジクをかざしながら、「この見事な果実が熟する国へはローマからたった3日の船旅で行けるのだ」とぶちまけた。そして、演説の最後は「それにしてもカルタゴは滅ぼされるべきである」と締めくくる。そのごも、どんな話題の演説であれ、結びの言葉はこの台詞だったという。カルタゴの脅威に取り憑かれた男の執念が実り、紀元前149年ローマはカルタゴに宣戦布告した。それはカトーが人生の幕を閉じる直前だった。3年後、カルタゴ滅亡。その時ローマ軍の総帥はスキピオ=アエミリアヌスであった。

7.多神教世界帝国の出現
  蘇る厳格な風紀
 しばしば「ローマの平和」をほのめかす文句として「パンとサーカス」があげられる。
・パンーーーー穀物
・サーカスーー見世物娯楽(≠曲芸)、戦車競走の楕円形コースを  
       意味するキルクス(circus)の英語読みである。
 暇を持て余す大衆は戦車競走と剣闘士興行を娯楽としてこよなく好んだ。2頭あるいは4頭立ての戦車が疾駆するレースに我を忘れて熱狂するのだ。
 ローマはパラティヌス丘とアウェンティヌス丘との間にキルクス・マクシムス(現チルコ・マッシモ)と呼ばれる巨大な競走場があった。一説では40万人余りの観衆を収めることができたという。それとともに、戦士と戦士が命懸けで戦う流血の剣闘士対決にも無我夢中になる。そもそも戦士国家であるローマでは流血と殺戮は征服者の栄光と表裏一体をなすものだった。その征服戦士としての気風を忘れないように、平和と繁栄の中でもこの殺人ゲームが残ったのかもしれない。多くの都市に人工の戦場が作られ、それを楽しむ民衆の勇猛心を奮い立たせるのだった。

 敬虔なローマ人の本領
 権威の核になる神々の威光
 うわべだけなら、ローマ人は現世主義で実利に走りやすく見える。だが、意外にも宗教的で敬虔な人々であったという。ギリシア人のポリュビオスの目にも「神々を畏怖する民」と映り、生粋の本国人キケロも「ほかの民に優って神々に敬虔なローマ人」を自負している。
 カエサルは古代にあって合理主義も現実主義も骨の髄までしみこんだ男だった。そのカエサルをして不思議な行動を取らせたことがある。彼は27歳で国家祭祀の神祇官10人の一人となっている。やがて37歳の時、その神祇官中の首長になる大神祇官に立候補している。普通は公職経験も豊かな高齢者がなるのだから、無謀な挑戦である。だが、カエサルは必死であった。
 その朝、「母上、今日は、あなたの息子は大神祇官職につくか、亡命者になるか、どちらかです」と言い残して家を出たという。借金をしまくり巨額の賄賂工作がものをいって、めでたくカエサルが選出される。この地位は終身であったから、彼は死ぬまで国家祭祀の最高責任者であった。
 カエサルの暗殺後、大神祇官の地位はカエサル派の実力者レピドゥスがつぐ。元首になったアウグストゥスは父親ほど歳の離れたレピドゥスを気遣ってこの大神祇官職を取り上げなかった。だが、紀元前12年、レピドゥスが死去すると、その後はアウグストゥスが大神祇官になる。それ以降、歴代元首がこの大神祇官につくのが慣例になった。
 なぜ、これほどまでにカエサルは大神祇官になることにこだわり、また元首たちも大神祇官であることを当然とみなしていたのだろうか。ローマ人は繰り返し「権威をもって統治せよ」と語ってきた。その権威の核になるのが神々の威光というものであった。それを思えば、ここにはまさしくローマ人の本領が潜んでいるのではないだろうか。
 カエサルは誰よりも深く地中海世界に君臨する大帝国ローマを自覚した人物である。その大帝国の支配者は軍事力や権力とともに権威を帯びていなければならないのだ。権威をおびる者とはひときわ敬虔な人である。その意識がことさら強いのがローマ人であったのだろう。

 宗教(英語:religion)の語源となるんが慎み(ラテン語:religio)という言葉である。この慎みと同義語になるのが敬虔(ラテン語:pietas)である。慎みをもつ人々はどのように元首の姿を思い描いたのだろうか。それを考えれば、目につきやすい彫像は大きな役割を果たしたことがわかる。中でもアウグストゥス帝は彫像を数多く残している。名高い彫像としてはプリマ・ポルタのアウグストゥス像がある。右腕を伸ばし軍隊の最高司令官として力強い姿をしている。もう一つは大神祇官の姿がある。頭から正装着トガをかぶり、控えめで、物思いに耽っている。その姿は力よりも敬虔さを物語る。アウグストゥスは晩年はこの大神祇官の姿の彫像を好んだという。
<プリマ・ポルタのアウグストゥス像>


<大神祇官のアウグストゥス像>


96年〜180年までの約100年間を、特に五賢帝時代という。
(1)ネルウァ(在位96~98)
   ドミティアヌス帝の暗殺後に元老院から指名をうけ66歳  
  で即位。前帝の強権的な手法を改め元老院と協調した。トラ 
  ヤヌスを養子にする。
(2)トラヤヌス(在位98~117)
   属州ヒスパニア出身の軍人として人望があった。最初の属
  州生まれの皇帝。元老院と協調しながら騎士身分も重用。ダ 
  キアを征服して属州とし、パルティアとも戦い勝利。ローマ
  帝国の領土が最大となる。
(3)ハドリアヌス(在位117~138)
   属州ヒスパニア出身の軍人で戦功が多くトラヤヌス急死の 
  直前に養子に指名されたという。任期中ほぼパルティア、ゲ
  ルマン人との戦いに専念。ブリテン島に長城を築く。都市ロ
  ーマの修復など評価は高いが、当時は暴君として恐れられた
  面もあった。
(4)アントニヌス=ピウス(在位138~161)
   南フランス出身の元老院議員。50歳を過ぎてハドリアヌ
  スの養子となる。
(5)マルクス=アウレリウス=アントニヌス(在位161~180)
   軍人、政治家であるとともにストア派の哲学を学び自ら『自省録』を著す。哲学者と
  してもすぐれていたが、パルティアとの戦争に苦しみ、さらにゲルマン人の大規模な侵
  入が始まり苦戦が続く中、ウィンドボナ付近で病没した。実子のコンモドゥスが帝位を
  継いだが悪政を行い、殺害されるなど混乱した。

ギボンの五賢帝論
18世紀イギリスの歴史家ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中で次のように述べている。
(引用)仮にもし世界史にあって、もっとも人類が幸福であり、また繁栄した時期とはいつか、という選定を求められるならば、おそらくなんの躊躇もなく、ドミティアヌス帝の死からコンモドゥス帝の即位までに至るこの一時期を挙げるのではなかろうか。広大なローマ帝国の全領土が、徳と知恵とによって導かれた絶対権力の下で統治されていた。軍隊はすベて四代にわたる皇帝の、強固ではあるが平和的な手によって統制され、これら皇帝たちの人物および権威に対して、国民もまたおのずからなる敬仰の念を献げていた。その文民統治はネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、そして両アントニヌスとつづく歴代皇帝によって慎重に守られた。彼らとしても自由の世相に喜びを感じ、みずから責任ある法の施行者であることを任としていたのだ。もし当時のローマ人にして、理性的自由を楽しむ心があったならば、おそらくこれら皇帝こそは、かつての共和政時代をふたたび蘇らせたという栄誉に値いしたはずである。<エドワード・ギボン(中野好夫訳)『ローマ帝国衰亡史』1 ちくま学芸文庫 p.156>

その時代は、「ローマの平和」の絶頂期であった。最適任者を皇帝の後継者に指名し、有為の人物が最高権力者として君臨している。これらの皇帝には実子がいなかったり、いても先立たれていたりしたこともあるが、後継者選抜の原則は踏襲されてきた。だが、世界史の中でも類まれなほど高潔で聡明な哲人皇帝にも予測できなかった過ちがある。実子コモンドゥスに期待したことである。180年、18歳のコモンドゥスはマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝とともにドナウ川沿いの前線にいた。その時、マルクス帝が死去する。コモンドゥスが帝位につくのは当然であった。だが、直ちに北方戦線から撤退し和平のために代償金を支払うという方針を打ち出す。威信を重んじる人々には苦々しい思いがしたに違いない。さらに、贔屓の側近に政治の実務を委ね、怠惰で放埒(ほうらつ:ほしいままにふるまって酒や女におぼれること。)な性格をあらわしだす。放蕩と乱行が目につき、暗殺の陰謀が発覚する。未遂に終わったが、元老院への不信感はつのるばかりだった。再三にわたって命を狙われることになり、やがて精神の変調をきたしたのかもしれない。誇大妄想がひどくなり、ローマを「コロニア・コブモディアナ(コンモドゥスの植民市)」と改名する。ヘラクレスの化身を気どり、剣闘士の姿で競技場に登場したりもする。またもや暗殺の陰謀がねられ、192年の大晦日、側室、侍従、親衛隊長らが共謀して殺害した。

9.一神教世界への大転換
  背教者(信じていた宗教を棄てて他の宗教に転じた者)の逆 
  説から異教の全面禁止へ

 4世紀末には異教神殿は閉鎖され、その全面禁止とともにキリスト教はローマ帝国の国教となるのである。それから3年後の395年、50歳に手の届かないテオドシウス帝がミラノで死亡した。ローマ帝国は息子2人に分割継承されるが、その東西(ホノリウスを西ローマ皇帝に、アルカディウスに東ローマ皇帝)に分裂された帝国は再び統一されることはなかった。

10.文明の変貌と帝国の終焉
   ローマ帝国は滅亡したのか
 3世紀半ばの人々はまだ古典古代の制度や社会を引き継いでいた.ところが、半世紀後の4世紀になると彼らには想像すらできなかった制度や社会が出現するのである。確かに、476年には西ローマ帝国が消滅し、西アジアにおいて651年にササン朝ペルシアが滅亡する。このような出来事に注目すれば、古代末期はあたかも衰退と没落のメランコリックな物語であるかのように見える。しかし、それは、単なる印象批判に過ぎないのではないだろうか。西洋側から見たローマ帝国の没落があり、イラン側から眺めたペルシア帝国の終末があったにすぎないのだ。
 世界史の中でローマ帝国ほど典型的な興亡史はないように思われている。だが、そこにはカルタゴ滅亡の時のスキピオが思い描いたような悲しみの涙にくれる場面はもはやなかった。しかし、歴史を見ることの醍醐味ならば、それらを改めて感じることができる。

end

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