興亡の世界史16\大英帝国という経験\著)井野瀬久美惠

ー感想ー
イギリスの第一次帝国(北米の13植民地、カリブ海域に浮かぶ英領西インド諸島、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの一部からなる)、第二次帝国(アメリカ、カナダ、オーストラリア、インド、エジプト、東南アジア諸国、アフリカ諸国)の間に、イギリスが進めていた奴隷制度を180度変換して、奴隷禁止条約を締結した、そのようなイギリス人のアイデンティティの変換の理由を解き明かす中で、植民地アメリカの独立(イギリスとしては、アメリカの喪失)が大きく影響しているとのこと、読んでいく中でとても興味を持って読むことができた。歴史の変換の中での原因・理由がわかると面白いと思った。歴史教育で、そこまで教えていただけないのは、あくまでも記憶科目の色合いが濃くまた、覚える内容も多岐に渡るからなのだろう。今思えば、興味をそそられなかった、学生時代が恨めしく思う。考え方を変えてみると、今、このような驚きを得る事ができることは、学生時代に興味を持たなかったからなのだと思うと、不思議な感じがした。

(1)帝国の衰退は、人口の出生率の低下から始まる。
(2)強い信念を持った女性が歴史を変えて来ていることに感動した。
①サラ・フォーブズ・ボネッタ
②メアリー・シコール
 ナイチンゲールは、クレオール(混血)であったシコールの行動を認めなかった。
③フローラ・マクドナルド
④メアリ・キングズリー(レディ・トラベラー)

ナイチンゲールは、献身的な活動をした女性と教わっていたが、人種差別的な面があったことは知らなかった。
歴史教育は、往々にして教育を行う人の意思によって情報が取捨選択されてしまう恐ろしさを感じた。

*********************
1.「自分がこの文章を読む目的」を考えながら読む
興亡の世界史…世界の歴史の工房を知ること。表題にある「大英帝国という経験」にあるよう、①だれの、②どんな経験なのかを本から読み取りたい。

2.目次や小見出しがある場合は、事前に目を通す(全体を把握する)

帝国史の見取り図

 植民地アメリカに第一歩を印したローリーの時代である16世紀後半から、ミレイが「ローリーの少年時代」を描く19世紀後半までには、300年余りに及ぶ時間的、空間的広がりが存在する。その中で、中心の位置するイギリスという国家のありようも、西ヨーロッパ、広くは世界における島国の知性的な位置付けも、人々の生活感覚や価値観、海外拡大するに対する考え方も、大きく様変わりした。それらに呼応して、大英帝国は幾度となくその形と中身を変えた。この柔軟性こそが、大英帝国を延命させてきたと言っていい。
 従来、大英帝国の歴史は、植民地アメリカの独立ーイギリスからすれば植民地アメリカの喪失ーという出来事を画期として、大きく二つに分けて考えられ、叙述されてきた。最も、「二つの帝国」は時代的に重なる部分もあり、単純に二分することはできない。それでも「二つの帝国」にこだわるのは、アメリカ独立が正式承認された1783年までの第一次帝国と、その後に再編されて19世紀初頭、遅くとも1830年代にその姿を表し始める第二次帝国とでは、地理的にも民族的にも、統治の手法や施行された諸制度、現地社会やそこで暮らす人々を見る目など、帝国という空間のあり方が全く変わってしまったからである。簡単な見取り図を描くと次のようになろう。
 第一次帝国が「ローリーの時代」で水夫が指差す大西洋の彼方にその形を見せたのは、18世紀初頭だとされる。
(1)北米の13植民地
(2)カリブ海域に浮かぶ英領西インド諸島
(3)イングランド
(4)ウェールズ
(5)スコットランド
(6)アイルランドの一部からなる
連合王国とともに、「イギリス帝国」を形成した。
大西洋上には、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカという三つの大陸を貿易でつなぐ環大西洋経済圏が築かれ、イギリス第一帝国がその主となった。取引をイングランド船籍の船に限る航海法と王立海軍に守られた第一次帝国は、プロテスタントの帝国であった。
一方、中国やインドなど東洋との貿易も存在した。エリザベス1世の特許状に基づいて1600年に設立された民間会社「イギリス東インド会社」の独占に任されていた。
 東インド会社が行う貿易は、香辛料や絹、茶や陶磁器といった高級品や嗜好品の輸入が中心であり、これらと交換するイギリス製品が当時ほとんど無かったことから、取引のバランスを酷く欠いていた。そも意味で、イギリス第一次帝国の重心は、圧倒的に西、大西洋世界にあったと言える。
 これに対して、19世紀初頭から輪郭を現す第二次帝国では、領土が拡大しただけでなく、帝国内部における東西の中身とそのバランスも大きく変化した。西では植民地アメリカを失い、砂糖貿易の後退によって西インド諸島の役割も大きく後退した。第二次帝国で重臣が置かれるのは東ーすなわち、プラッシーの戦い(1757年)とインド大反乱(1857年〜1859年)の間100年間にイギリスとの関係が大きく変質したインドである。東インド会社の貿易独占禁止(1813年)の後、イギリス政府による介入が本格化し、やがて1877年、ヴィクトリア女王のインド女帝宣言によって、大英帝国は世界に冠たる一大帝国であることが強調された。そしてさらに、アジアやアフリカ、オセアニアといった地域を胎内に収めながら、19世紀末から20世紀初頭にかけて全盛期を迎える。我々が「大英帝国」とい言葉で思い浮かべるのは、この時の帝国である。

第1章 アメリカ喪失

 第一次帝国と第二次帝国の相違について最も興味深いのは、「自分たちが何者か」というイギリス人のアイデンティティがまるっきり変わってしまったことだろう。
 第一次帝国は、大西洋上を中心とした「プロテスタントの帝国」
 第二次帝国は、その領土、地理的な拡大から「自由貿易の帝国」、奴隷をはじめ、苦境の陥った現地人を救出する「慈悲深き博愛主義の帝国」だった。帝国内のおける1807年の奴隷貿易禁止、1833年の奴隷制度廃止という二つの重要な法案通過がその画期と目されるが、その直前までイギリスこそ奴隷貿易の主役であった事実を考え合わせると、この「変身」は不可解ですらある。
 このように帝国の内実を全く変えてしまった謎を解く鍵は、アメリカ独立、すなわち植民地アメリカ喪失の中心にあると思われる。
 まずアメリカ喪失という「大英帝国の経験」を捉え直すところから始めたい。アメリカ独立革命と呼ばれる一連の流れ。
(1)7年戦争を終結させたパリ条約(1763年)
(2)いメリカ独立を正式に認めたパリ条約(1783年)
この20年間のうちに、イギリスは何を失ったのかその失った「何か」を取り戻すために、イギリスはどうしたのか?それを考えた時に立ち現れてくるのが、我々が「イギリス」と呼ぶ連合王国もまた、帝国再編とともに創られてきたという事実である。連合王国と帝国とはどのように絡み合っていたのか、それを解きほぐす作業から進める。

第2章 連合国と帝国再編

 イギリス第一次帝国がアメリカ独立によって解体した1780年代〜1830年代までの時期は、産業革命と呼ばれる経済発展の時代であるとともに、政治改革の時代として知られている。戦時の重税と経済状態の悪化に苦しむ国民の声を背景に、社会全体にモラルへの関心が高まったのである。
(1)1780年代初頭、首都ロンドンやイングランド北部のユークシャでは、公金の無駄遣いや腐敗選挙区での政治不正に対する憤りから、税制改革を求める請願書が議会に提出された。政治不敗への非難が相次ぐ中で、財政軍事システムの破綻もまた、明らかにされていく。その先に、1832年、地主ジェントルマンの名望家支配を基盤とした名誉革命体制を変質させる選挙法改正が実現するのである。
政治に関わるモラルの問題ーそれこそ、植民地アメリカとの戦争がイギリスにどのような混乱を引き起こし、その対策として何が求められたかを端的に物語る。その根底に何があるのか?
 それがはっきりと見えてきたのは、長期化する戦争に備えようと、イギリス政府が、連合王国に移民してきたアイルランド人を徴募した時のことだ。政府は、戦争協力の見返りとしてカトリック解放を約束したのである。イングランドにおけるカトリックは、1673年の審査律による公職追放はじめ、いくつかの差別的な法律の対象とされてきたが、それらの法を、徴兵と引き換えに廃止しようというのだ。1778年、議会でカトリック救済法案が可決されると、庶民議員ジョージ・ゴードンはこれに反対する法案を議会に提出。彼を支持する民衆は、1780年、ロンドンで大暴動を引き起こした18世紀最大の民衆反乱と言われるゴードン暴動である。

 当初は、対フランス、対カトリックで鍛えられたプロテスタント的価値観の吐口を求めるかの如く、カトリックの礼拝堂や居住区、アイルランド人労働者や商人らが攻撃の的だったが、やがて対象は限りなく広がり、ニューゲート監獄やフリート監獄などが暴徒らの破壊と放火によって灰燼に帰した。

 18世紀初頭、大西洋三角貿易で栄えたイギリスがやがて、アメリカの独立を経て、南アフリカ、西インド諸島へと領地を拡大して帝国を築いていった。同時に1875年ごろからの出生率の低下で帝国の衰退が始まる。

(1)18世紀初頭の三角貿易

主な歴史
アメリカ独立 1776年7月4日
南アフリカ共和国成立 1961年
ケニア独立  1963年

(2)ハイランド・クリアランスとは

 18世紀〜19世紀にかけ、ハイランド地方を中心とした地主たちは羊毛産業が経済を豊かにすると考え、羊の放牧のために今まで住んでいた住民を強制退去させます。この時に最大で10万人以上がホームレスになったといわれ、土地を奪われた人々は海岸部へ移り漁業を始めたり、仕事を求めて都会へ移動。またカナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドへ数千人の人々が移住したと言われています。

国勢調査の開始とアイルランド


 イギリスでは、1801年以来、10年ごとに国勢調査を行なっている。我々が今、過去2世紀に渡ってイギリスの細かな人口動態を知ることが出来るのは、国勢調査がきちんと施行されたおかげであり、アイルランドの人口が把握できるのもそのせいだ。ただし、アイルランドを連合王国に組み込む合同法案の可決が、1800年、初の国営調査実施が1801年という事実を並べて考えてみれば、師父が国民の実態把握を必要とした事情そのものが、アイルランドを連合王国に組み込む理由と無関係ではなかったことは容易に推察されよう。
 フランス革命が引き金を引いた対仏戦争中の1797年冬、迫り来るフランス軍との対決を前に、イギリスが何よ必要としたのは兵士であった、徴兵制がなかった当時、イギリス政府は民卑補充法を成立させて大規模に民兵確保の運動を展開していたが、それでも慢性的な兵力不足が続いていた。その中で、政府は国民の状態を正確に把握する必要性を痛感したのである。

止まらない人口流出

 国勢調査によれば、当時ひとつであったアイルランドの総人口は、1801年以来増加を続け、1841年には817万人余りに達した。ところが、その10年後、1851年の調査では約655万人まで一気に落ち込み、1901年位は446万人弱にまで減っている。60年間にほぼ半減という異常な減少。人口は孫呉も回復せず1920年代にまでずっと減少状態が続き、今に至るまで、1941年時点の人口を回復したことは一度もない。(cf:2022年国勢調査 512万人)
 ちなみに日本の場合、1872年(明治5年)に約3,480万人だった人口は、1936年(昭和11年)には2倍の7,000万人を超えた。明治維新から100年後の1968年(
昭和43年)には1億人を超えている。その間、少子化に伴う人口減少がさまざまに議論される現在まで、日本に暮らす「日本人」の数を海外の「日本人」が凌駕する事態は一度も起きていない。いや、そもそも150年前から人口が減り続けた国家もあまり多くはないだろう。人が国家の財産だとすれば、その減少は国家の悲劇だ。しかも、出生率が減少したわけでないことは、アイルランド以外で暮らす「アイルランド人」の数からもわかるだろう。

ジャガイモ飢饉

 1845年、1846年の秋、アイルランド全土でジャガイモの不作が続いた。葉や茎が暗緑色になり、全体が黒くなって枯れていく新種の病気、胴枯れ病。被害はアイルランド全土に広がった。2年続きの凶作は、ジャガイモでなんとか命を繋いできたアイルランド人にとって致命的であった。飢饉と栄養失調に発疹チフスや赤痢といった疫病の発生、街に溢れる物乞いの群れ。政府が雇用対策として行なった公共事業では、日当めあてに道路工事の作業に集まる人たちが、上のために次々と亡くなった。埋葬費が貯まるまでは死体は埋められず、腐敗するに任せたため、疫病被害はさらに拡大した。飢饉が収束し始めるのは1851年ごろだが、同年の国勢調査では、十年間に162万人の人口減少が確認されている。その間、連合王国政府も教区の教育委員会も、適切な措置をとることができなかった。
 アイルランド人にとって最良の(事実上唯一とも言える)解決策は移民であった。慢性的な人口過剰という圧力は、大飢饉以前からアイルランド人を海外へと押し出していた。

 アイルランド国旗について
①ボイン川の戦い(1689年)以後にイングランドから入植し、アングロ・アイリッシュと呼ばれたプロテスタントのアイルランド人の間では、オレンジ公ウイリアムの勝利を祝ってウィリアムのシンボルカラーであるオレンジ色の資本を徽章にする「オレンジ団」が結成された。
カトリックのアイルランド人は、アイルランドの守護神、セント・アンドリューズが3位1体の例えとして布教に用いられたとされるシャムロックから、グリーンをシンボルとした。
③グリーンとオレンジの間に白を配色しプロテスタントとカトリックの平和な共存への願いが託されている。

ジェラルド・オハラの渡米

 ヒロイン、スカーレット・オハラ役のビビアン・リー、彼女の夫となるレッド・バトラー役のクラーク・ゲーブルの組み合わせであまりにも有名なハリウッド映画「風と共に去りぬ」は、南北戦争開始直前、1861年4月のある明るい午後の場面から幕を開ける。それゆえに映画では省略されているが、ミッチェルの原作では、冒頭、スカーレットの父、ジェラルド・オハラの過去が詳細に描き込まれている。なぜ彼はアメリカ、ジョージア州にやってきたのか。彼が古代アイルランドの聖地(タラの丘)にちなんで「タラ」を命名する農場をどうやって手に入れたか、長女スカーレットに受け継がれる土地への愛着がどのようなものだったのかー原作者ミッチェルは、これらをアイルランドの過去に深く根ざすものとして、例えば次のように書いている。
 ある日、ジェラルド青年は、アイルランドの実家近くで不在地主の地代取り立て人と遭遇し、思わず「オレンジ団の私生児め!」と罵声を浴びせた。それに対して、この地代取立て人は、ある民謡の冒頭部分を口笛で吹いて応じた。「ボイン川の流れ」ーアイルランドにおけるプロテスタントの支配体制を決定づけたイングランドの勝利を祝うこの曲のメロディーを耳にした彼は、ためらいもなく、この取り立て人を殺した。彼の家族も、息子の好意に何の罪悪感も感慨も覚えなかったとある。すでにオハラ家は反英的な行動から警察に目をつけられており、自宅の床下に武器・弾薬を隠したことが発覚した直後にアメリカに逃げた二人の兄は、ジョージア州沿岸部の町サヴァナで商人として成功していた。兄を頼って、ジェラルドもサヴァナへ向かう。出発の朝、父親がこの末息子に送った言葉はこうだった。「自分が何者であるかを忘れるな」ー。
 21歳のジェラルド・オハラは、こうしてアメリカにやってきた。多少誇張した言い方をすれば、ボイン川の戦いの記憶がオハラ一家に脈々と受け継がれていなければ、ヒロイン、スカーレットの誕生もなかったことになる。サヴァナ到着後の彼もまた、極めてアイルランド的な人物として読者の前に立ち現れてくる。抜け目のない商才ぶりを発揮し、次第にアメリカ南部社会に溶け込み始めたジェラルドだったが、彼には変えられないものが2つあったとミッチェルは言う。アイルランド訛りの英語と「アイルランド的渇望」だ。アイルランド的渇望?長女スカーレットに最も色濃く受け継がれることになるこの言葉の中身を、ミッチェルはこう説明している。
 かつては自分のものだった土地をイギリス人に奪われ、小作人にされてしまったアイルランド人は、みな土地に対して深い癒しがたい渇望を持っていた。そのアイルランド人的渇望から、彼は、自分自身の土地が目の前に緑色に広がるのを見たいと願っていた。激しい、一途な気持ちで、彼は自分の家、自分の農園、自分の馬、自分の奴隷を欲しがった。しかもこの新しい天地では、彼が後にしてきた故国のように、二つの危険に脅かされることがなかったーそれは作物でも納屋でも揉み込んでしまう重税と、いつなんどき借地権を没収されるかもしれない不安だ。
 ここにある重税と借地権没収の不安ーこれらは、ジェラルド・オハラがアメリカに渡った時代、アイルランド人を苦しめたものがなんだったのかを見事に言い当てている。ジュラルドがアメリカに渡ったのは、小説冒頭に記された1861年4月という時代から遡ること39年前、「彼が21歳の時」に設定されているから、1822年という事になる。連合王国に組み込まれて20年余り、イギリスへの食糧供給地となったアイルランドにおいて、オハラ家のような農民は、入札小作人制度のもとに置かれていた。小作人同士の自由競争によって収穫期ごとに地代を決めるという、一見民主的な自由競争に基づいているような錯覚を与えるこの制度こそ、ジェラルドが恐れた「着地権没収の不安」の元凶であった。
 同時代の経済学者J・S・ミルによれば、入札する小作人が多いほど地代が高くなるという自由競争原理を基盤としていたが、競り落とした地代を小作人たちは支払うことができず、いわば地代は名目に過ぎなかった。それゆえに、土地を耕す権利を得ると同時に、彼らは地主に対して負債を負うことになったのである。最も小作人にあ現金払いが不可能であり、現物ー自分たちが作ったジャガイモ以外の農作物全てを地代として地主に納めた。
 言い換えれば、アイルランド人は、ジャガイモを主食することによって、自分たちが生産したジャガイモ以外の作物全てを、イギリスへの輸出用として、地主に納めていたのである。弱者同士が互いに潰し合い、地主への従属を強める結果を招いたのが、この入札小作人制度だった。しかも入札の前提となっていたのが、ジャガイモの普及によって増大し続けたアイルランドの過剰人口であったのだ。
 実は、大飢饉の時代、凶作だったのはジャガイモだけであり、イギリスに向けて輸出された穀物で当時のアイルランド人口の2倍を養えたと算定されている。また、イギリス市場の需要の変化に呼応押して耕地から遊牧地への転換が進行中だったことから、畜産物の生産も増大傾向にあった。飢饉は人災。しかも、放牧地確保のため、借地料を払えなくなった人達は即刻、強制的に土地を追われた。だが、アイルランドには、彼らを吸収する産業などなかったのである。

アイルランド人の帝国

 ジェラルド・オハラは、ミルがジャガイモ飢饉の元凶として指摘した入札小作人制度から逃れ、イギリスに奪われた土地を取り戻すためにアメリカに渡った。サヴァナのある酒場でジョージア州中部に農園を持つ男と出会い、「南部の風習の中で最も有用」だと悟ったポーカーで勝負して、その農園を手に入れた。ミッチェルはこう付け加えるのを忘れていない。「それは皆、彼が酒に乱されぬアイルランド人の頭と、トランプに全てを賭ける勇気を持っていたからこそ、手にはいったものなのだ」。39年間の南部暮らしの地元社会にすっかり溶け込んだジェラルドだが、左隣の農園主、スコットランド系アイルランド人のマッキントッシュ家とは絶対に付き合わなかった。ミッチェルは書いている。「オレンジ団の先祖を持つと言うだけで、ジェラルドの目にはすでに永遠に呪われた存在だった」のだ、と。このマッキントッシュ家について、ミッチェルは、「すでにジョージア州に70年も住み、それ以前、南北カロライナ州に30年も住んだ」と設定した。物語の時代から逆算すれば、彼らがジョージア州に来たのは1791年、ノースカロライナ、あるいはサウスカロライナに移民したのは1761年、フローラ・マクドナルドが移民した1774年、マッキントッシュ家もまた近くにいたんだろうか。彼らはノースカロライナ初の軍事衝突となった「マクドナルド家の反乱」をどう見ていたのだろう。
 ボイン川の戦いの記憶を消せないアイルランド人移民の父からその気質を最も強く受け継いだ長女スカーレット。娘ポニーも夫レッドも失い、自分が何もわかっていなかったことを朧げながら理解し始めた彼女に、原作者ミッチェルはこう叫ばせた。「明日、タラで考えることにしょう。明日、レッドを取り戻す方法を考えよう。明日はまた明日の日が昇るのだから」。「自分が何者であるかを忘れるな」と言うオハラ家の血、「敗北に直面しても敗北と認めない祖先の血」。そん血を受け継いだ「スカーレット・オハラ」が、アイルランドの外にたくさんいたに違いない。南北戦争直前、1858年のニューヨークでは、アイルランドの独立と共和国樹立を目指すファにあん運動の組織化がダブリンとほぼ同時に行われた。彼らはテロ行為も辞さなかった。アイルランド共和軍(IRA)のテロ活動に武器や火薬を提供したのも。もっぱらアメリカのアイルランド人だった、独立後のアメリカとアイルランドの間には、共和主義を志向する反イギリス、反大英帝国のネットワークもまた、多様に結ばれていたのである。

第3章 移民たちの帝国

      ↑主人公(移民)
    独立戦争全体として80,000人を超える黒人奴
   隷が農園を去ってイギリス軍に加わった。

アメリカ喪失と移民活動の再開

ブラック・ロイヤリスト
 1781年10月、ヨークタウンにおけるイギリス軍の敗北により、アメリカ独立戦争は決着した。と同時に、イギリスに味方したロイヤリスト(王党派)への迫害が始まった。迫害を逃れ、アメリカを後にしたロイヤリストは約10万人。イギリス政府の移送費用でニューヨークを出航した彼らの約半数が後の英領北米植民地時代カナダへ移民し、その2/3がノヴァスコシアに定住した。マサチューセッツ植民地(現在のメイン州)に隣接するここは、もともと人口の約半分がニューイングランドからの移住民だったが、独立革命には加わらず、イギリスの植民地であり続けていた。
 この移民の流れの中で、その異質な一群は目をひたことだろう。3,000人ほどの元黒人奴隷、「ブラック・ロイヤリスト」である。彼らは、独立戦争開始直後の1775年11月、最後のヴァージニア総督となったジョン・マレイが発令した布告に従って、解放を条件にパトリオット(独立派)である農園主の元を離れて、イギリス軍の戦線に加わった。
 ヴァージニア総督の布告が出された当時、イギリス軍のために武器を取った黒人奴隷は3万人を超えたとされる。他の南部植民地でも合わせて3万人ほどの黒人がイギリス軍を志願しており、独立戦争全体として8万人を超える黒人奴隷が農園を去ってイギリス軍に加わった。労働力である奴隷たちを味方に引き入れ、帝国から離脱しようとする独立派アメリカ人の農園経済を掘り崩そうと言うのがイギリスの思惑だった。それでも、ブラック・ロイヤリストたちが自らの意思で主体的にイギリス国王のために戦うことを選んだこと、それが重要なのである。
 彼ら黒人奴隷に「解放」というイギリス国王の約束を信じさせたのは、1772年にイギリスで下された逃亡奴隷ジェイムズ・サマセットをめぐる有名な判決であった。裁判官マンスフィールドによる「イギリスの土を踏ん瞬間に奴隷は解放される」という判決をアメリカの奴隷達が知っていた事は、近年の研究で明らかにされている。イギリス国王は解放者であるーこの見方は、「慈善を与える国王」という従来のイメージとともに、黒人達の間で説得力を持って語られていたと思われる。
 ブラック・ロイヤリストを中心に据えれば、展開される構図はこうだ。
(1)奴隷解放を約束したイギリス国王=解放者=抑圧者ジョージ3世
         ↕️
(2)ブラック・ロイヤリスト=奴隷
         ↕️
(3)イギリス国王から独立しようとしている植民地アメリカ=独立を志向するパトリオット(独立派)のアメリカ人が、全ての人間は自由かつ平等であることを謳った特立宣言を掲げつつも、奴隷制度には目を瞑っていたことが前面に浮かび上がってくる。パトリオットは、アメリカのイギリスからの独立のみを推し進めていた。
また、独立宣言に署名したパトリオットが皆、奴隷主でもあった。

ヨーロッパからの大脱出

 イギリスにとって「移民の世紀」となった1815年から1914年まで、ナポレオン戦争終結から第一次世界大戦勃発に至る時期は、ヨーロッパ全域からの移民が前代未聞の規模で大西洋を渡った時代でもあった。この1世紀(100年)間にヨーロッパを脱出した約5,000万人を大きく超える。その過半数の3,000万人余りがアメリカに向かい、残り2,000万人が四つのイギリス人入植地ー(1)カナダ、(2)オーストラリア、(3)ニュージーランド(4)南アフリカ、あるいは南米に分散したと分析される。

第4章 奴隷を解放する帝国

      ←経験
    なぜ?イギリスは奴隷貿易を廃止できたのか。
    廃止へ向かう流れはどのようにして作られたの
    か。∵2つの理由が考えられる。
    (1)奴隷労働に依拠した砂糖の生産と、その
     取引が儲からなくなったという経済的な理由
    (2)奴隷を売買することに対する考え方の変
     化、言うなれば文化的・思想的な理由。 
     ↑この意識変革こそ、同時期、アメリカ喪失
     という事態に対応して再編が進められていた
     大英帝国の性格を大きく変えることになる。

ブリストルの落書き事件

 イングランド西部、エイヴォン川の加工に展開した港町ブリストル、そこには17世紀後半〜18世紀初頭にかけて、西インドとの交易に従事したブリストル出身の商人エドワード・コルストンの像があり台座に「もっとも高潔にして賢明なる我が町の息子の一人を記念して、ブリストル市民により建立さる、1895年」の言葉の上にスプレー缶で「Slave Trader(奴隷商人)」と落書きがあった。また、2020年6月7日にアメリカの黒人男性死亡事件を受けてこの奴隷商人の銅像が引き摺り下ろされ、ブリストル湾に投げられた。

ノッティングヒル暴動とカーニバル

 ロンドンの中心部から地下鉄せんどらる線に乗り、少し西に行ったところに、西インド諸島からの移民地区ーノッティングヒルがある。ここのカーニバルの起源は、1958年8月の人種暴動にある。1958年8月23日、イングランド中部の町、乗ってインガム(西インド系中心に非白人移民3,000人が暮らす地方都市)で、それまでディー・ボーイと呼ばれる不良少年たちによる非白人住民に対する襲撃・黒人狩り」が続いて、極限に達して、非白人の青年が白人男性を刺殺する事件が起きて、大暴動へと発展してしまった。

「国民人名辞典」の中のコルストン

「国民人名辞典」の記述には、コルストンの慈善家としての側面が強調されていることが明らかであろう。「貧者の雇用や彼らの収容施設の設置、学校や病院の設立に対する彼の寄付総額は70,695ポンド(3718万円)にのぼる」という記述からも、17世紀末〜18世紀初頭という極めて早い時期に、商人による慈善の伝統を築き上げた点に彼の評価が集中していることがわかる。注目すべきは、「博愛主義者」「慈善家」という側面ばかりが強調されるあまり、彼の人生に関する極めて重要な事実が見過ごされていることである。それは、彼がブリストルという町に振る舞った潤沢な慈善資金の出所と関わる事実ー1680年3月、コルストンが王立アフリカ会社のメンバーになり、その後その役員を務めたことだ。この事実が「国民人名辞典」からはすっぽりと抜け落ちている。
これは、ある意図をもって、削除された内容なのではないだろうか? 王立アフリカ会社とは?

王立アフリカ会社と奴隷貿易

 ロンドンを拠点とする王立アフリカ会社は、イングランドが奴隷貿易と関わった初期にあたる17世紀後半、1672年〜1698年までの20年間にわたり、アフリカとの貿易、すなわち奴隷貿易を組み込んだ三角貿易(*)を独占していた特許会社である。この20年間は、西インド諸島の重要品である砂糖の消費量がイギリス社会で爆発的に増大した時期ー言い換えれば、同時期のフランスの約9倍と言われた「甘党」の国民を支える三角貿易が確立し、そこから生み出される巨富が商人や投資家を魅了し始めた時期であった。
(*)三角貿易
 
欧州、西アフリカ、西インド、北米の三角貿易(奴隷貿易)ー砂糖・銃・奴隷
 三角形の頂点にあたる地域は、
①ヨーロッパ
②西アフリカ
③西インド諸島
貿易ルートはヨーロッパ船による一方通行となっていた。(特定の海流に乗っていた)
(1)カナリア海流:ヨーロッパ→西アフリカ(繊維製品・ラム酒・武器)
(2)南赤道海流:西アフリカ→西インド諸島(奴隷「黒い積荷」)
(3)メキシコ海流・北大西洋海流:西インド諸島→ヨーロッパ(砂糖・綿「白い積荷」)
 17世紀〜18世紀にかけて、イギリスをはじめとするヨーロッパは喫茶の風習が広まり、砂糖の需要が急に高まった。それに伴い、砂糖を生産する西インド諸島およびブラジル北東部などでは労働力が必要となった。
 

三角貿易の手順

 ヨーロッパ、アフリカ、アメリカという三大陸を結ぶ三角貿易の手順は子である。
(1)ブリストル(あるいはロンドン、後にはリヴァプ
  ール)から出航した船には、植民地向けの多種多様
  の日用品、食糧や食器、靴や衣料、石鹸やロウソ
  ク、農工具、さらには奴隷の衣服などが満載され
  た。
(2)船は途中、西アフリカ沿岸に立ち寄り、仲介にあ
  たる現地アフリカ人商人との間で、銃や弾薬、ラム
  酒、綿布やビーズなどと交換で、彼らが内陸部から
  調達してきた奴隷を船内に詰め込む。
(3)西インド諸島へ向かい、ジャマイカやバルバトスなどで奴隷をおろし、代わりに現地で生産された砂糖やタバコ、木綿、染料のインディゴ、ココアなどを大量に積み込むと、ブリストルへ帰還した。

第6章 女王陛下の大英帝国

主人公:アフリカ人少女 サラ・フォーブズ・ボネッタ
 奴隷貿易で栄える西アフリカのダホメー王国(現;ベナン共和国)で先祖供養の生贄にされようとしたところ、西アフリカ沿岸で奴隷貿易の取り締まりにあたっていたイギリス海軍将校フレデリック・E・フォーブスによって救出され、「女王への贈り物」としてイギリスにやって来た。→ヴィクトリア女王は受け取って、彼女を教育した。
→大英帝国は、「黒人王から白人王への贈り物」であったサラの存在を忘却の彼方へと押しやり、「白人王から黒人王への贈り物」を刻み込んだ絵画しか残さなかった。その真意は…。

第8章 女たちの大英帝国

      ↑主人公(女たち)
 ヴィクトリア女王の時、大英帝国は大きく3種類の地域で構成されていた。
(1)島国から移民が入植士、新しいイギリス社会(=白
 人社会)が築かれた地域
 ーカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、
  南アフリカ
(2)大反乱(1857年〜1859年)を契機に、東インド
 会社からインド省へと移管され、イギリスの富の源泉
 として、帝国内で特別な意味を持ったーインド
(3)少数のイギリス人が圧倒的多数の現地人を支配す
 る王領植民地ーアゴア、アフリカ、太平洋上の国々
 
 ヴィクトリア王朝時代、帝国と女性の関係を象徴する存在として注目されるのが、世界各地を旅して回ったレディ・トラベラーである。メアリ・キングスリの「西アフリカ研究」(1899年)に、それまで、「文明と野蛮」という二項対立的に語られ、ヨーロッパ文明との対比から「野蛮」とのみ表現されてきたアフリカに、「ヨーロッパとは異なる文化」を発見した。
 ヨーロッパ人は物質的な路線に沿って知性を働かせ、そこから鉄道などのモノを作り出す力がある。それに対して、アフリカ人は、人生に対するアプローチの方法が全く違っている。アフリカ人の知性は、全ての問題を精神的なもの、心の問題として捉える。

メアリ・シーコル(1805年〜1881年)
 ジャマイカ中流のスコットランド人兵士を父にイギリス人負傷兵の宿泊施設を経営する現地人女性を母とするクレオール(混血)。
 西インド諸島を旅しながら薬草の知識を磨いた彼女は、1854年、イギリスがロシアに宣戦布告士、ジャマイカ駐留兵士の多くが、イギリス経由で戦地に移動すると、自らもロンドンに向かい、ナイチンゲールに続けとばかりに看護婦に応募した。
 ナイチンゲールは、クレオールであるシーコルを認めなかった。それでも彼女は、独力でクリミア半島のバラクラヴァ近郊に向かい、そこで「ブリティッシュ・ホテル」という宿屋を開き、幼い頃より母から伝授された、旅の中で会得した薬草の知識を駆使して傷病兵の介護にあたった。

第9章 準備された衰退


    ↑経験?
国民の退化ー1899年に始まった南アフリカ戦争の中 
      で、イギリス軍に全国からあらゆる階層の若者が志願した。ところがその約6割が
(1)身長が低すぎる
(2)痩せ過ぎ
(3)心臓や肺の欠陥
(4)リューマチ
(5)虫歯
などの身体的な理由で、兵士として不適格と判断され、入隊を拒否された。
 当時のイギリス社会では、統計上1875年頃から認められる出生率の低下が問題視され、イギリス人の量的な減少が招くであろう大英帝国の衰退が論議の的となりつつあった。→ボーイスカウト運動へ。

第10章 帝国の遺産

①1950年代の西インド系移民
イギリス社会に溶け込もうとする意思を示した(*)
②1960年代のインド・パキスタン系
ー英語が理解できず、シク教やヒンドゥー教、イスラム教などの信仰を固持し、民族と血の絆を重んじる閉鎖的なコミュニティを形成して、イギリス社会になかなか馴染もうとしなかった。
1961年南アフリカ共和国成立、1962年連邦移民法制定、1963年ケニア独立後のアフリカ諸国から追放された、東アフリカ系アジア人
 ①と②の差は、両者における「大英帝国という経験」の差であろう。
 西インド系移民の故郷では、帝国に組み込まれてきた17世紀以来の歴史の中で、生活のさまざまな面で「イギリス化」が進行していた。彼らは英語を理解し、クリスチャンとなり、イギリスの習慣や法に関してある程度の知識も情報もあった。←この帝国経験が、他の地域からの移民と比較した場合、西インド系移民に「プラス」に働いたと言えるかも知れない。
 その一方で、彼らにとって苛酷な試練となったノッテングル暴動を記憶するために構想されたカーニバルの組織化には、ここイギリスでどうしても暮らして行かねばなあないという、西インド系移民の覚悟が込められているように思われる。(*)

end

いいなと思ったら応援しよう!