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虚ろ舟 ~ うつろぶね ~                 漂着した浜が判明か

 常陽史料館(茨城県水戸市)で、およそ200年前、常陸国の海岸に、箱を抱えた女性を乗せた「うつろ舟」と呼ばれる円盤形の舟が漂着したという伝説を紹介する企画展「不思議ワールド うつろ舟」が開催された。漂着した日付や場所が記された書物をはじめ、当時の資料などが展示されているとのことで同所を訪れた。

「不思議ワールド うつろ舟」 パンフレットより

 小学生の頃から不思議なことが大好きだった私は、超常現象専門誌の『ムー』などの雑誌、書籍を読みあさっていた。この記事のタイトルアイコンに表示させていただいた、子ども心にもインパクトのあったこの画像は、過去の日本であったUFO遭遇事件の記録としてそれらのメディアで幾度となく取り上げられていた。(表題の画像は、国立公文書館デジタルアーカイブからのデータを二次利用させていただいた)

 この記事では、企画展「不思議ワールド うつろ舟」を訪れた時の報告と、その後、関連個所を訪れた際の情報と写真をまとめ、「うつろ舟」の魅力をお伝えできればと思う。
 また、掲載画像については,主に国立国会図書館デジタルコレクションと、国立公文書館デジタルアーカイブからの画像を二次利用させていただいている。

「うつろ舟」

 虚ろ舟(うつろぶね)は、日本各地の民俗伝承に登場する、海岸に漂着した、当時の人に「舟」と認識された物体である。「空穂舟(うつぼぶね)」「うつぼ舟」と表記された伝承もある。

常陸国の「うつろ舟」
 ほぼ南北方向に延びた茨城県(常陸国)の海岸線は、延長約190㎞で、太平洋に面している。今から約二百年前の江戸時代後期,この海岸のどこかに、奇妙な舟が流れ着いたという話が、いわゆる「常陸の国うつろ舟奇談」である。作家の渋澤龍彦もこの話に興味を惹かれ「うつろ舟」を題材にした小説を書いている。
 うつろ舟の伝説の中でも最も広く知られているのは、享和3年(1803)に常陸国に漂着したとされる事例である。江戸の文人や好事家の集まり「兎園会」で語られた奇談や怪談を、会員の一人であった滝沢馬琴が『兎園小説』(1825年刊行)に「虚舟の蛮女」との題で、図版とともに収録し現在に知られているほか、兎園会会員だった国学者・屋代弘賢の『弘賢随筆』にも図版がある。   
 これは、現在でいう円盤のような乗り物(舟)が、常陸国(茨城県)の海岸に漂着し、中から不思議な服装をした女性が箱を抱えて現れたとされる伝承である。
 これまでに15の古文書で確認されている。伝説の概要、円盤状の乗り物、箱を抱えた女性、「宇宙文字」と呼ばれる暗号のような文字などの記述はほぼ共通している。民俗学者の柳田国男がこれに注目して論文を書き、小説家の澁澤龍彦も作品のモチーフとした。
 各記録がほぼ同内容であり,「舟」の描写もほぼ一致していることは,元となる史料がコピーされ,子細が若干変容しながら伝わって作成された物が複数存在していると考えてよいのではないかと思う。

虚舟の目撃談

 未確認物体としての虚舟が初めて目撃されたのは享和三年(1803)二月二十二日とあり、地元の漁師によって海岸に不審な船舶が漂着しているのが発見された。一方、二十二日ではなく同月の五日で、漂着先も常陸国ではなく安房国(千葉県)と記される別資料も存在するようだ。
 安房国と記された史料では、乗員の人物が日本人達に向かって手を合せ何か話してきたり、南の方角を指して喋っていたが何を言っているのか全く理解できなかった、といった当時の遭遇者とどのようなやりとりがあったか記されている。

「うつろぶね」という言葉の由来

 虚舟(うつろぶね)とは本来大木の中を刳り貫いて作った舟を指す言葉で、「空舟(うつおぶね)」の名称で『平家物語』(巻第四・鵺)にも登場している。また漢典『荘子』中に、後世に「虚舟(きょしゅう)の喩え」として知られる一節があり、そこでは、人が乗っていない無人の渡し船を指す言葉として「虚船」の名が使われるなど、古くから使われていた言葉であったようだ。
 古語としても、虚舟(きょしゅう)という語は乗客や荷を載せていない空の船、「空(から)船」を意味する言葉として古くは平安時代にその用例を残している(『菅家文草』など)。

記録の共通点
・いわゆるUFOに形状の似た「舟」が描かれている。
・言葉の通じない「箱を抱えた」異国風の女性(美女とされる)の乗員
・船体内部に記された判読不明の文字のような文様
・記録された文書が複数存在する。

虚舟の形状の共通点
・描かれた「舟」の詳細が文書間で一致。(舟の形状,窓の数など)
・全体的に丸型。
・上体には覗き窓が付く。
・下部には縦縞模様が見られる。
・覗き窓の枠が四角。格子が付いている様子で描かれる。

「不思議ワールド うつろ舟」展で配布されていた図版

うつろ舟とともに描かれた女性について

『弘賢随筆』「うつろ舟の蛮女」より

 うつろ舟には,女性が乗っていたと記述されている。どの史料からも確実であるのは、当時、その女性を見た人々が「日本人とは異なる」、「異国風の」人物と認識している箇所である。また「美女」とも認識されている。
 日本に漂着した異国船や国外へ漂流した日本人の記事を集めた記録集である『漂流記集』には、乗り物から現れた女性についても詳細に書き残されていた。女性の年齢18~20歳ほどで、顔は青白く、眉毛や髪は赤褐色と記されている。
 当時の日本はまだ鎖国下にあった。異国人が漂着したのが事実なら、幕府の記録にも残されているはずだが、記録は残っていない。幕府の知るところではなかったのだろう。

謎の文様「蠻字」

解読不明の文様(文字か?)

 船体内部の至る所に記されていたという「蠻字」とはどのようなものだったか。これについては図解資料を参照する限り、どの言語の文字とも特定できないが、文様自体は直線や三角、四角などの単純図形を組合せたもので、特に複雑な形状を有するものではない。または、目撃者が部分的にしか記憶できなかった可能性もある。
 「古」や「王」によく似た形の字が記されていたとされるが、図を見る限り漢字ではないと思われる。

うつろ船に関する柳田國男と折口信夫の言及
 民俗学の父、柳田國男(1962年没)は、論文『うつぼ舟の話』で、こう記す。「・・・空洞木の利用に始まったと思う獨木舟が、迫々に稀に見るものとなってしまうと、各人遺傳の想像力を應用して、終に享和年間に常陸の濱に漂着したよう、筋金入りの硝子張りの、何か蓋物みたやうな舟が出来上がり」。と述べている。彼の見解によれば、「想像の産物」ということになる。また、うつぼ舟、かがみの舟は、「たまのいれもの」、つまり「神の乗り物」である。かがみの舟は、荒ぶる常世浪を掻き分けて本土に到着したと伝わっていることから潜水艇のようなものであったのではないか、と述べている。彼は、これらの伝説に対して、日本各地に古くから伝えられてはいるが「どれも根拠の無い作り話である」とその信憑性を否定している。
 柳田に師事し、民俗学の基礎を築いた折口信夫(1953年没)の『霊魂の話』では、うつろ舟を「神の乗り物」と位置付けている。
   「うつぼ舟は、他界から来た神がこの世の姿になるまでの間入っている必要があるため いれもの のような形になっている。(神が)他界から来て此の世の姿になるまでの間は、何ものかの中に這入ってゐなければならぬと考えた。そして其の入れ物に、うつぼ舟、たまご、ひさごなどを考えた」と述べている。

『兎園小説』

 「南総里見八犬伝」の作者として知られる滝沢馬琴は、先に述べたように1825年発刊の奇談集『兎園小説』でうつろ舟を紹介している。うつろ舟を世に広く知らしめたのは、この書物とされ、その十一巻に「うつろ舟の蛮女」が収録されている。

『兎園小説』「うつろ舟の蛮女」

 文政八年(1825)、江戸の好事家たちが奇妙な話を互いに持ち寄り、、発表しあった会合「兎園会」で、馬琴はうつろ舟を当時の文化人たちに公にした。その時の話をまとめたのが同書である。現代訳すると、次のような内容となっている。

 -- 享和三年(1803)の二月二十二日の午後,常陸の国にある「はらやどり」という浜の沖合に舟のようなものが見えた。浦人が多くの小舟を漕ぎ出し,その船を浜辺まで曳いてきてみると,それは香盒のような丸い形状で長さは三間あまり。上半分に「ガラス障子」の窓があり,下半分は鉄板でできた筋金で補強されていた。船内を見ると,異様な服装の女性が一人。眉と髪の毛は赤く,顔色は桃色で,頭髪は白い入れ髪が背中に長く伸びていた。女性は約二尺(60cm)四方の箱を抱え,ひとときも離そうとしなかった。この事件がお上に聞こえるといけないので、もう一度女性を舟に戻し、沖合まで曳いて流してしまった。 -- 

 この『兎園小説』「虚舟の蛮女」にはうつろ舟及び乗員を描いた図版画とともに、次のような補足がある。

船体上面
 「硝子障子外ハチヤン(瀝青)ニテ塗リタリ」
船体下部
 「鉄ニテ張リタリ」「長サ三間餘」
船体内部
 「如此蠻字舩中ニ多ク有之」
蠻字・・・「宇宙文字」とも言われる解読不明の文様

補足情報のある「うつろ舟」の図

 『兎園小説』におけるこれらの補足事項も、先に述べた「うつろ舟」の共通点と一致している。

うつろ舟の正体は?

 この正体不明の乗り物について、今までにあらゆる推測がなされてきた。代表的な説は以下のようなものである。

・漂流した外国船
・潜水艇(1776年にはタートル潜水艇と呼ばれる世界初の潜水艇がアメリカで既に開発)
・UFO説
(現代のUFO目撃談はアメリカで昭和二十二年(1947)に始まったとされる)

 無人状態の初期の試作型潜水艇が茨城の沿岸に流れ着き、伝説の元になったかという説があるが、潜水艇の開発が大西洋側に面する東海岸のコネチカット州で行われていることから可能性は低い。

漂着した浜

 うつろ舟は日本各地の民俗伝承に登場する架空の舟だが、最も著名な事例が「常陸の国うつろ舟奇談」であり、事件現場はいずれも常陸だ。ただ、過去の史料には地図などで一致する地名はなく、「はらやどりと云浜」「原舎浜(はらとのはま)」「原舎ヶ浜」などとばらつきがあり,研究者の間で漂着地の特定は難しいとされてきた。
 澁澤龍彦も、同伝説をモチーフにした短編小説『うつろ舟』で「銚子から平潟にいたる今日の茨城県の長い海岸線のどのあたりに位置する村なのか、一向にはっきりしない」としていた。しかし,「常陸原,舎利浜」である可能性が濃厚となった。

 ところが近年、全国で「うつろ舟」に関する数点の史料が見つかり、漂着地の具体的地名として、現在の神栖市波崎の「舎利浜」が浮上した。舟が漂着した「はらやどり」という浜は、現在の茨城県神栖市波崎舎利浜ではないかと考えられる。
 平成二十六年(2014)には、常陸の国うつろ舟奇談という伝説を歴史へと近づけ、研究者を驚かせる史料が見つかった。それは『伴家文書』と呼ばれる史料で、うつろ舟の漂着地として「常陸原舎り濱」と記されていた。

茨城県神栖市波崎舎利浜

 この地は江戸時代の常陸の国鹿島郡に実在し、伊能忠敬作成の地図、伊能図にある地名で、神栖市波崎舎利浜にあたる。『伴家文書』は、川上仁氏(甲賀流伴党二十一代目宗家)が所持していたもので、甲賀流忍術を伝える伴家の古文書などと一緒に保管されていたという。
 川上氏の話すところによると、先祖が参勤交代の警備なども行っており、江戸時代に外国船が入ってきたころの、各地の情報や風聞などを集めた文書の一つではないかとのことだ。

地名表記の混乱

 他の史料に残された「厚」は「原」の誤記と考えられ、同様に「ヶ」も「り」の誤記と推測すると「常陸国原舎り浜」となり、これは「常陸原 舎利浜」を指すと考えられる。おそらく原史料が多く書き写されるなかで、くずし字を写し誤ったり、「常陸原」が「常陸国」とされたりしたことが地名に混乱を生じさせたと考えられる。「舎」には「やどる」という読み方もあり、「常陸原舎り浜」から「原舎り」だけを抜きだせば、馬琴が『兎園小説』に記した地名「はらやどり」となる。

 『伴家文書』の発見、そして、伊能図における地名の確認がなされたことは、うつろ舟の研究の大きな進展であろう。舎利浜について、波崎町発行『波崎町史』(1991)には,「舎利浜は鹿島灘で地曳網漁が発展する明治5年(1872)に初めて定住者が現れたというから,江戸期には地字としては分かれていても、定住するものはなかったのであろう」と記されている。現在、舎利浜には一定の距離を置いて砂浜の浸食防止のためのヘッドランドが設置され、海岸の両端遠方には、風力発電の巨大風車が立ち並ぶ様子が望める。そして、舎利浜がある神栖市には、『水戸文書』で類似点が指摘されていた。「金色姫伝説」が伝わる星福寺と蚕霊神社がある。

伊能大図彩色図「舎利浜」(国土地理院 古地図コレクションより)

 さらに最近新たに確認されたのは、上越市公文書センター(新潟県)が昨年公表した『異聞雑著』(榊原家文書、高田図書館所蔵※公文書館アーカイブになし)。著者の浣花井は18世紀後半、高田藩の藩主、榊原政永の下で財政建て直しを主導した鈴木甘井(かんせい)とされる。

「うつろ舟」研究の進展・『異聞雑書』の発見

 令和三年(2021)年に新たに確認された史料が『異聞雑書』である。上越市公文書センター(新潟県)が公表した。『異聞雑書』は『榊原家文書』(上越市立高田図書館蔵)の中の一つである。著者の浣花井は、十八世紀後半、高田藩の藩主・榊原政永の下で財政立て直しを主導した鈴木甘井とされる。  
 うつろ舟伝説によると、常陸国の海岸に1人の女性を乗せた、UFO(未確認飛行物体)のような奇妙な形状をした舟が漂着したとされるのが享和三年(1803)年であり、『異聞雑著』には、この年に書かれたと記録されている。同書の発見については,茨城新聞(2022年11月6日付)が「謎の女性,金色姫か 新史料で浮かぶ『養蚕』」という記事を報じている。

 『異聞雑著』発見以前までの史料には、女性の衣服のボタンについて「ねり玉青し」「小はぜスイセう(すいしょう)」などの記述が見られるが、『異聞雑著』では「アヲ色ニテ子(ね)リモノ」とある。また、女性は脚が横しま模様で描かれ、頭には白いベールのようなものをかぶっている。 
 蚕の卵は、ふ化直前に青く透ける。一斉にふ化させる技術は催青(さいせい)と呼ばれ、「蛮女」の衣服のボタンの形や練り物(材質)は、「蚕の卵」に見立てることができ、養蚕につながるという解釈もある。
 例えば、描写された脚のしま模様は蚕の幼虫のしま模様、白いベールは生糸の神秘性、「眉毛赤黒く」の記述は「繭」を連想させ、女性は蚕の化身「金色姫」の伝説と関連づけられるようだ。
 茨城には、海の向こうから養蚕をもたらしたという女神伝説もあり、鹿島灘に近い星福寺(しょうふくじ)にはその女神像もまつられている。はるか昔から、いろいろな人が訪れた土地なのだろう。
 常陽史料館の学芸員の方は、新史料の存在を確認した。新史料は滝沢馬琴らが書いた『兎園小説』の写本で、内容はこれまでに確認されている天理大学附属天理図書館(奈良県)所蔵の『兎園小説』とほぼ同じである。昭和六十二年(1987)に鹿島神宮から昭和女子大学図書館(東京都)に移管されていた。
 最も有名な資料のひとつである天理大学図書館所蔵の『兎園小説』に描かれた円盤型の物体と女性の姿と比較すると、昭和女子大学図書館所蔵の『兎園小説』は、女性の髪の毛や衣服などがより丁寧に描かれていることに特徴がある。
 平成二十二年(2010)年以降に研究は大きく前進することになる。県内で貴重な史料が相次いで確認されたためだ。
 一つ目が平成二十二年(2010)年に確認された『水戸文書』とされる史料だ。国立公文書館のサイトでは『水戸文書』で検索しても該当史料はない。縦28㎝横48㎝の楮紙に筆で記された書面で、右側に事件の概要が記され、中央から左側に浜に漂着した異様な形をした舟と箱を持った女性、解読不明な文様などが描かれている。
 この文書に描かれた漂着女性の姿について,養蚕振興と関わりの深い星福寺(神栖市日川)にある本尊の蚕霊尊像との特徴が酷似していると指摘されている。

何が酷似しているのか
・漂着女性の頭部に「鷹」の飾りがあること
・女性の纏う衣服の帯の結び方(2カ所)が,いずれもちょうちょ結び
・下から見上げた際の三日月型に見える目の見え方

 二つ目が,平成二十二四年(2012)年に確認された日立文書。この文書も国立公文書館のサイトで検索しても該当史料はない。この文書は、日立市内の、江戸時代に海岸防御に携わった郷土の子孫の家の土蔵から,天保年間(1830~1844年)の「異国船渡来御届書」とともに発見されたいう。
 この文書の最大の特徴は,文末に「享和三年癸亥三月廿四日」(享和三年二十四日)と文書作成日が記載されている点である。日付が書かれた文書の発見は初めてで、事件が起きた年月日は當亥二月廿二日(当年亥の歳二月二十二日)とあり、日付が本当なら、約一か月後に描かれた文書となる。この記載日時が事実であるならば、事件からさほど時を隔てずに記述された記録であると考えられるが、この日立文書に描かれた人物が纏う衣服には「ちょうちょ結び」の描写は確認できない。

 著作権の問題から、この水戸文書と蚕霊尊像の画像、また「日立文書」については掲載できないが、興味のある方は,『藝文風土記/「常陸国うつろ舟奇談」の謎(神栖市)』(2023年2月号通巻477号)を参照いただければと思う。定価330円で「うつろ舟」に関する最新情報を得ることができる。

金色姫伝説

 これまでも、うつろ舟伝説と金色姫伝説は内容が似ているとされてきた。 この伝説は、うつろ舟の漂着地とされる現在の神栖市に伝わる。常陸国の浜に、天竺(インド)の姫が流れ着き、養蚕技術をもたらしたという伝説である。同市日川には、養蚕信仰の本尊である蚕霊尊(金色姫)を祭る星福寺と蚕霊神社が存在する。

 「天竺(インド)の国の金色姫は、継母による四度の追放にも生き延び,国外へ丸木舟に乗せて逃がされた。漂着した常陸の国豊浦では、権太夫という漁師夫婦に助けられたが、甲斐もなく病死してしまった。姫の亡骸は小さな虫となり、桑の葉を食べて成長し、繭を作った。その後、その地から養蚕が始まったとされる伝説である。

 筑波の六所神社の手前の神郡には「蚕影山(こかげやま)神社」という神社がある。この神社もかなり古くからある神社で、名前の通り養蚕業の象徴的神社で、各地にある蚕影神社の中心になっている。ここにも金色姫伝説が伝わっている。
 この伝説の元となっているのは、兵庫県養父郡の上垣守国という人物が、奥州(福島県)で買い求めた蚕種を研究し、養蚕を但馬、丹波、丹後地方に広めた。そして彼は、享和二年(1802)に「養蚕秘録」(全3巻)を著し、養蚕法はヨーロッパにも広がった。この本の中にも、金色姫の伝説「蚕の草子」が紹介されている。

 -- 昔、雄略天皇の時代(478年頃)に、天竺(インド)に旧仲国という国がありました。帝はリンエ大王といい、金色姫という娘がおりました。しかし姫の母親はなくなってしまい、リンエ大王は後添えをもらいました。後添えの皇后はきれいな金色姫を憎み、大王の留守に、金色姫を獣の多い山(獅子吼山)へ捨てたが、姫は獅子に背おわれ宮中に帰ってきた。また鷲や鷹のいる山(鷹群山)へ捨てたが鷹狩りに来た兵によってまた宮中に帰ってきました。今度は海眼山という草木のない島へ流したりしたのですが、ことごとく失敗してしまいました。そしてとうとう4度目には金色姫を庭に生き埋めにしたのです。ある日、庭から光がさして城を照らしているのに、大王が気づき、庭を掘ると、やつれた金色姫がいました。大王は継母の仕業と知り、姫の行く末を嘆き、泣く泣く桑の木で造ったうつぼ舟に乗せ、海上はるかに、舟を流し、逃がしました。舟は荒波にもまれ、風に吹かれ、流れ流れて、茨城県の豊浦に漂着しました。そこで権太夫という漁師に助けられ、その漁師夫婦により、大切に看護と世話をされていましたが、姫は病を得て亡くなってしまったのです。夫婦は不憫な姫をしのんで、清らかな唐びつを創り、姫のなきがらを納めました。それからしばらくしたある夜、夢の中に姫が現れ、「私に食物をください。後で恩返しをします。」と告げたのです。
 驚いた夫婦が唐びつを開けると、姫のなきがらは無く、たくさんの小さな虫になっていました。丸木舟が桑の木であったので、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べ、成長しました。ある時、この虫たちは桑を食べず、皆一せいに頭を上げ、ワナワナとしていました。
 権太夫夫妻が心配していると、その夜、また夢に姫が現れ、「心配しないでください。天竺にいるとき、継母に4たび苦しめられたので、いま休んでいるのです。」と告げました。4度目の「庭の休み」のあと、マユを造りました。マユが出来ると、筑波のほんどう仙人が現れ、マユから糸を取ることを教えてくれました。--

 ここから、日本で養蚕が始まったといわれる。権太夫は、この養蚕業を営んで栄え、豊浦の船つき河岸に、新しく御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称号した。これが蚕影山神社の由緒となっている。
 
 金色姫の話は5世紀後半の時代の話とされるが、インド(天竺)からいろいろな文化がこの地にもたらされたことを現わしているのだろうか。
 現在日本最古の文学と言われる竹取物語ができたとされるのは9世紀~10世紀ごろとされるが、こちらの話も中国やインドなどに関係しており、月に住むお姫様という設定は、この金色姫の話以上のフィクション性があるが、日本以外の国のお姫様ということでは共通するものがある。
 大友狭手彦(おおともの さてひこ)が宣化天皇二年(537?)十月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救い、欽明天皇二十三年(562年?)八月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したとされており、このときには財宝だけでなく、現地より多くの人々がこの国に逃れてたようだ。その中に女性も多く含まれており、青い目の女性がいた可能性もある。
 そのほか、『肥後国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻五には、狭手彦と弁才天のモデルとなったとされる弟日姫子(松浦佐用姫)との悲話が載せられている。
 茨城県にはこの他に豊浦と名の付く2か所の神社があり、ともにこの金色姫伝説の地であるとされる。これらは常陸国の三蚕神社と呼ばれている。

(1)蚕影山(こかげさん)神社:つくば市神郡1998(日本一社)
(2)蚕養(こがい)神社:日立市川尻町2377-1(日本最初)
(3)蚕霊(さんれい)神社:神栖市日川720(日本養蚕事始)

蚕霊神社

 「うつろ舟」展を見させていただいた翌週、蚕霊神社を訪れた。

蚕霊神社の鳥居(茨城県神栖市日川)
蚕霊神社の由来

 鳥居の下にある「蚕霊神社由来」を要約すると、“孝霊天皇の5年(紀元前286)の春3月。豊浦浜(日川)の漁夫、権太夫は、沖に漂う丸木舟を引き上げてみると、中に世にも稀な美少女が倒れていた。少女は天竺(インド)霖夷国霖光の一女金色姫である。”と、その由来が書かれている。
 
 神栖町歴史民俗資料館の資料によると、神栖町の日川(にっかわ)地区は、欽明天皇の時代(6世紀中頃)に、金色姫がインドより養蚕を伝えた養蚕発祥の地と言い伝えられているようだ。神栖市日川にある蚕霊山千手院星福寺と蚕霊神社はもともとは一体で、養蚕の神として人々の信仰をあつめていた。
 神栖町歴史民俗資料館の資料によれば、神栖の養蚕について、
 「町域では、農家の副業として明治中頃より養蚕が急速に広まり、明治時代末には繭の生産額が水産物を追い越すほどになった。また、この鹿南地方は気候が温暖なため、蚕の卵を取る蚕種製造に適していたようで、昭和初期には4軒の蚕種製造業者の名前が見られた。その後、群馬県の蚕種製造業者が木崎地区に出張所を置き、また居切地区には鹿島蚕種共同施設組合の蚕種製造所ができた。これは県内でも一、二を争う大規模なもので、170軒もの農家に卵を取るための蚕の生産を委託していた。太平洋戦争が始まると食糧増産のため、桑園は芋畑に代わり、戦後も澱粉製造のためのさつま芋の生産が盛んとなり、養蚕業は衰退した。昭和30年代後半には、澱粉製造も下火になっていく中、再び養蚕が見直され、大野原地区や平泉地区では桑園を造成し、大野原養蚕組合も結成された。組合は千葉県我孫子市の製糸工場と契約し、年6回の繭の出荷を行っていた。しかし、鹿島開発による住宅の密集化や繭の価格の下落などの理由から養蚕を続けていくことが困難となり、昭和58年をもって養蚕の永い歴史の幕を閉じた」と記される。
(神栖町歴史民俗資料館第19回企画展「蚕物語-天の虫・糸の虫-」)

蚕霊神社
蚕霊神社拝殿
蚕霊神社(拝殿から本殿)
蚕霊神社 本殿
蚕霊神社(本殿背面から)

蚕霊山千手院星福寺

 蚕霊神社にほど近い蚕霊山千手院星福寺(神栖市日川)を訪れた。鹿島臨海工業地帯のコンビナート群から数km離れた常陸利根川に近い田園地域にある星福寺には養蚕尊が祀られている。同地域には同じく「金色姫伝説」を伝える蚕霊神社もある。神栖町歴史民俗資料館の資料によると、神栖町の日川地区は、欽明天皇の時代(6世紀中頃)に金色姫がインドより養蚕を伝えた養蚕発祥の地と言い伝えられ、この寺院と蚕霊神社はもともとは一体のものであったようだ。

星福寺(神栖市日川)


星福寺の入り口にある石板

 星福寺の入り口にある石板には,金色姫伝説の概要として「桑野宇津魚舟が塩路常陸なる豊良浦に漂着、時に欽明帝十三年(584)所の漁士権太夫 その浮流木を蒔にせんと打破り見れば、金色瑩々たる姫宮光明赫々なるをみ(略)霊記によれば蚕虫化した姫宮は、桑の葉を食し重ねる宿縁ありて繭となる」などと記されている。赤い山門の先には比較的新しい本堂がある。
 現在の本堂は平成十二年(2000)完成。元々、嘉永五年(1852)年に建立された本堂は老朽化が進み,「平成の大改築」として再建されたようだ。本堂に入ると正面には大日如来があり、その背後にある厨子の中に「蚕霊尊像」が祀られている。厨子の扉の中には、1m余りの木彫りの像が収められている。左手には小さな四角い箱、右手には絹糸の束を持つ。「箱の中には繭玉が入っているとされている」と住職が答えている記事がある。
 星福寺は前述のとおり、養蚕振興の聖地としての位置づけにあり。また、蚕霊尊を彫った版木で刷られた版画は御札として、京都など関西から訪れた、絹糸や着物関係の人々や信者に配られていたようだ。常陸利根川の流れる神栖市は、江戸時代、水運の要衝として栄え、鹿島神宮(鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに「東国三社」とされる息栖神社があることから、三社詣で当時の文化人たちが多く訪れている。松尾芭蕉や吉田松陰、小林一茶、十返舎一九、渡辺崋山、大原幽学、徳富蘆花などが同地を訪れている。また、養蚕業の守り札として数多く製作された「衣襲明神錦絵」が全国で見つかっており、その中には『兎園小説』の滝沢馬琴の署名が記されたものもある。曲亭陳人という署名で、これは滝沢馬琴のことである。

【田中嘉津夫岐阜大学名誉教授】
 田中教授は量子光学専門であるが、地下鉄サリン事件で、理系のエリート学生たちが同団体の幹部を務めていた実情を知ったことが発端となり、教養科目で「懐疑思考 (Skeptical Thinking) 」を講義した。国内外の様々な教材を集める中、この講義で「うつろ舟奇談」を取り扱ったことから同氏によって「うつろ舟」に関する研究がなされた。
 田中教授は、川上仁一の忍術を伝える伴家の古文書から「うつろ舟奇談」に関わる史料を調査し、漂着地の実在地名が「常陸原舎り濱」(現在の神栖市波崎舎利浜)と記されていることから、うつろ舟に関しての記述に具体性があるとの論説を発表した。このことは、地元の新聞社や大手のマスメディアでも取り上げられることとなった。
 田中名誉教授は、常陽芸文のインタビュー記事の中で、うつろ舟の構造が、史料間でほぼ同じ構造で描かれていることから、何らかの根拠があったのではないかと指摘している。また、当時、いろいろな史料に記録されるような、何らかのものが茨城の海岸に漂着し、世間を驚かした事実はあったのでないか、とも述べている。
 田中教授は,中京大先端共同研究機構文化科学研究所が発行予定の『文化科学研究』にうつろ舟と養蚕に関わる論文を発表予定である。発行が待ち遠しい。
 諸説あるが、田中教授は、「UFO目撃談以前に異人が乗る円盤型の乗り物の絵や写真、物語はどこを探しても見つかっていないが、日本には約百四十年前の江戸時代から絵や文章として伝わっていた。これが常陸の国うつろ舟奇談の面白さ」と話す。また、舟の中に描かれていたという、研究者が「宇宙文字」と呼ぶ不思議な文字の謎も残る。この時代に見られる蘭字枠や漢字伝来以前に古代日本で使用されたという「神代文字」などに似ているとの指摘もあるが、いまだに解明されていない。

「不思議ワールド うつろ舟」(常陽史料館)で展示された作品(1)

 常陽史料館には、舟を再現したオブジェなども展示されていた。直径は3メートル、高さが3メートルあり、針金と紙で作られているとのことだった。これらの作品の撮影は許可されていたが,企画展内の撮影は禁止されていた。

「不思議ワールド うつろ舟」(常陽史料館)で展示された作品(2)
「不思議ワールド うつろ舟」(常陽史料館)で展示された作品(3)

 思うに、当時の人々に奇異にうつる「うつろ舟」のような不思議なものが浜に漂着したという事実はあったのであろう。誰かの用意周到な作り話が、人々の心をとらえて、コアとなった話をもとに、様々な記録として枝葉をつけて残され、後世まで伝えられたと考えることもできる。また、養蚕の衰退から、養蚕の意義を再認識させるために「金色姫伝説」と結びつけられたのかもしれない。
 いずれにせよ、この「うつろ舟」は、200年以上の時を超えて、現代の私たちの好奇心を刺激してやまないトピックである。新史料が発見されるにつれ、この謎はいっそう事実へと向かっていくと思われるが、そのような「新たな証拠」に胸躍る一方で、謎は謎として、私たちの思索の原動力のままでいてほしい、という矛盾した気持ちもある。

 この記事を読んだみなさんの中に、少しでも「うつろ舟」に興味をもっていただいたり、不可思議な事象を考察することの楽しみを知っていただけたなら幸いである。
           2023年3月20日(常陸国に桜が開き始める頃記す)


(追記)
 当初、この記事を書くにあたり、企画展を訪問後、蚕霊神社や舎利浜を訪れた画像をのせてまとめようと考えていた。
 ただ、この伝承を調べるにつれ、各地に残されたうつろ舟の伝承や、養蚕の起源など、興味深い情報がどんどんと出てくることから、「このままでは、いつまでも記事をアップできない。」と思い、いったん、ここで投稿してみようと思った。この記事は『常陽芸文』(2023年2月号)からの情報によるところが多い。子どもの頃から興味があった「うつろ舟」に関して、また、あの頃のワクワク感を思い出させてくれた企画展と同書に感謝したい。
 その他の伝承や、養蚕の起源については、また他の記事で書ければと思う。

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