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全的堕落


全的堕落(ぜんてきだらく、Total Depravity)はキリスト教を理解するための基本的な概念の一つで、キリスト教神学の大きな流れである、ローマ・カトリック神学、改革派神学(カルヴァン主義)、ルーテル神学、ウエスレアン・アルミニアン神学などを問わず、各神学的立場を横断して受け入れられている教えである。

人は、アダムの創造主である神への反逆、すなわち堕罪ゆえに、その結果として「全的に堕落」したとするもので、ここに「全的」とは、二重の意味を持つ。第一に、その「堕落」が全人類に広がりアダムの末裔である限り、その「堕落」から逃れた者はいない、という「堕落」普遍性を示すことばであり、第二に、人格のすべての領域にその「堕落」が及んでいると言う意味において「全的」なのである。

まず「意志」の分野において、神に背いた人の意志は、罪(sin)の奴隷となっていて、いのちの源である神のいのち、すなわち「永遠のいのち」に与らない限り、意志は常に罪(行)に傾いてゆく。

「理性」においても、人は自らを賢い者としているが、その実、愚かになっている。
人間理性は、神から自立した理性として自己主張し、物質的世界は、格段に広がり、現代では、人間の知識は、地球を越えて宇宙へと広がりを見せている。
しかし、その一方で、心理学の発展にもかかわらず、人は己に関して無知であり、霊の世界を見失って、自らを四次元の世界、五感の世界に閉じ込めてしまっている。

「感情・情緒」の分野においても、この「堕落」の結果は顕著であって、しばしば現代人は感情の倒錯を経験する。愛する代わりに憎み、謙遜である代わりに傲慢となっている。

このように「堕落」は、人格の三要素「知情意」のすべてに及んでおり、ここに人の持つ根源的課題があるとされる。

この「全的堕落」の聖書的教え、また、アダムの堕罪の人類的な影響感化を否定したのが、4世紀のペラギウスであって、ペラギウスとアウグスティヌスとの論争は歴史的に有名である。アウグスティヌスの著作の一つには、ペラギウスに対する論駁がある。

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