ChatGPTを使ってみた感想
忙しい人のための要約
つかってみた
AIは次の神になる。我々が思考を放棄すれば。
便利な道具を得るたび、僕らの体は道具に感覚を奪われていくのだ。
奪われたからだ、食べることさえ残ってれば人間かも。食はいいぞ
はじめに
先日、ChatGPTを使ってみました。これを先日どのように使ったかと言えば、言語の単語テストを出力させたり、ルールを設定して(T?)RPGを遊んだり、コード進行を出力させたり、ケモっ子や猫になってお話をしたりなど…。
実際のところ、案の定、アイヌ語の単語も間違っているし、ルールを読み違えたり、異なるコード進行を出力した。ケモっ子や猫にはよくなれていた。それっぽい答えを出すことはできるが、明らかな間違いも多い。話を半分も聞いていない人と会話しているような感覚に似ていた。
コテコテの文系なので、それがどのようなロジックで動いているのかは知らないが、大多数の私のような人々にとってコンピュータとはそのようなものである。なぜ『J』のキーを押すと画面に『J』が現れるのか、内部のあらゆる読み込みや演算などを度外視して、入力と出力のみが見えるのが日常世界である。我々はただ、風が吹くのと、桶屋が儲かるのを見ている。過程なんてすっ飛ばした魔法の箱がコンピュータである。実はエンジニアがこっそり中に小人を仕込んでいようが、精霊が宿っていようが、動いていれば構わないであろう——我々はその中身を知るほど専門的ではない——。
そんなことなので、それを何でも答えてくれるお助けロボだと思えても仕方がないし、すでに自動音声ガイダンスやヘルプ機能、配膳猫ちゃんロボなどは現にその役目を果たしている。映画『A. I.』でそのような機械と少年が話していた光景や、映画版『タイムマシン』の図書館での司書ロボットを想起した。実際のところ、それっぽく対話するだけの頼りないいち機能なのだが。しかしながら、何となく万能のような気もするのではないかと思い、これを書いた。これに似た現象を人類は一度経験している。自然の理たる神だとかダルマだとかそういうものである。AIを見て、我々は神の発生を見るのだろうか?
その論点ののちに、我々が新たに強力なこの道具を手にしたことを身体と絡めて、そのあとに関連して情報は栄養になるのかなということを書こうと思う。
1. AIは神になれるか
AIは神になれる、と思う。念のため私は無神論者というか不可知論者とかそういった立場をとっていると付け加えておく。では、どのように我々は神を作り出せるかを考えて、よく言う「科学が宗教に取って代わった」みたいなことに触れつつ、この見出しの点について考えてみよう。
私たちの祖先は、それ自体とても秩序だったように思える自然をみてそこに神を見出した(と筆者が勝手に思っている)。自然を刈り取って、それを生活に組み込むことで暮らす領域を拡大してきた人類だが、その際に原始的な労働や農耕が誕生した。その中で、原始的な神を発明した。自然は循環しており、それを循環させているものもおそらくいて、自然の恩恵にあずかる我々は、その循環させる何かによって生きていける。その仕組みを理解はしなくとも、我々の働きかけに対して良い結果が出ることを祈って、豊穣神だとかそんなものを生んだことだろう。我々の知り得ない自然を、神に司ってもらったのである。
「科学が宗教に取って代わった」とはよく聞く。近代に見た科学の発達は、多くの魔術を解き明かした(同時に神のいないことで道徳の基準をも失ったのかもしれないが)。その点で流石に21世紀の我々は、すでに神が死んだことを、我々が神を殺したことをおそらく知っている。閑話休題、科学が宗教になったと言えるのは、上記の非科学的な魔術を解き明かしたからで、だれもが科学を理解したからではない。そんなこんなで、世界の中でよくわからないところの仕組みをを担当してくれる神は、科学にバトンタッチした。とすれば、市場原理に神の手を置いたのも面白い話になるが。そのほかにも、窒素固定の仕組みだろうが、エンジンの原理であろうがコンピュータであろうが、すべて科学が説明してくれるので、我々はその原理や詳細を知らずとも安心できると言うわけである。
そして本題のAIについて、我々が思考を巡らす必要がなくなる時、あるいはそれを捨てる時、我々の思考を肩代わりしてくれるAIは世界を説明してくれるので、我々はそれを神にするかもしれない。奇抜そうな見出しから、簡単な結論ですみません。
付言するならば、自然とは、神が運営するにせよ、あまたの物理法則が働くにせよ、我々が簡単に想像するような調和ではない。自然はカタストロフィの連続である。安定しているように見える部分だけを切り取って調和と名付けそこに神性を見いだすのは、些か問題があろう。また、あらゆる事象を下支えしてくれている諸法則に関しても、それ自体不可能なものである。というのも、それらは単純なモデルに立脚して組み立てられているために、実情とはかけ離れた便宜の側面があるためである。
(筆者はいかなる宗教を批判する意図も、科学を不信に付す意図もありません)
2. 文明の歴史は、衰退の歴史
前節で竜頭蛇尾の醜態を露呈してしまったのでここでは簡潔に書こうと思う。
我々はAIなど最先端——実際のところ研究が終わってから数年経った後だろうが——といわれる技術を手にしつつある。我々人類は様々な道具を手にしてきたし、文明を作ってきた。同時に我々は衰退してきた。なぜそう言えるのだろうか。
道具は我々の身体の代わりに外部と接触する。穴を掘るのに、掻く指の代わりにシャベルを、肌の代わりに軍手を用いるし、我々は皮膚の代わりに服を用いる。本来身体が持っていた機能を道具に肩代わりしてもらっているのだ。そのために我々は身体の感覚と機能を失う。手づから飯を口に運ぶ時の温度や感触を失っているのだ。
いつでも百科事典にアクセスできるネット環境は、我々にわずかのの知識を与えるかもしれないが、思考の機会を必ずしも与えない。むしろ奪っていると言える。石板などは我々の自由と新たな道徳の誕生の機会を何世紀にも渡って奪い続けている。このようにして、道具を得れば得るほど我々の身体と精神は奪われ続けている。
このような展開の中で、 ChatGPTは我々から何を奪うのだろうか。前節のようにそれを多大に信頼して思考を任せれば、我々の思考とその機会、情報の吟味の能力は失われることになろう。間身体的対人の緊張なども。「疑い」や「顔」を忘れることになるかもしれない。道具は我々から何かしらを奪いうる。それが何か気づかずにいれば、我々はまた順調に衰退していくのである。「我思うゆえに我あり」はいつまで効力があるのだろうか。すでにないのかもしれないが。逆説的だが、道具の寄せ集めとバラバラの身体では、本来は後者が人間的であるようにも思えるが、諸機能を代弁させている間は、道具の寄せ集めがより身体の実態に近い。
ただし、道具によって再帰的に我々に働くものもある。文字は我々から記憶と音声を奪ったように思えるが、書の美を生み出したと言っていいだろう。
3. 我々は情報を食べて生きていけるか
この節は少し本題からずれて、前節のようにして、我々があらゆる感覚を失った仮定の上での話である。様々な道具によって我々が様々に奪われたとして、我々が人間あるいは生命であり続けるために必要なものは何であろうか。共感や思考が彼らにもできるようになったときである。
このような仮定をするときに、三大欲求や本能を想定しがちだが、その中でも食べることは、もっとも生命に特有なのではなかろうか。知られた話だが、腸はあるが脳がない生物もいるらしい。そして、食べるとはいえ、単に栄養の摂取ではなく、自然から穫り取った成果に触れ、剥き、咀嚼し、味蕾ににじませ、喉を鳴らして消化吸収する一連の行為の流れである。ここに身体の喜びがあるだろう。我々は食べるものである。何かに対する動詞を「食べる」などに置き換えることがおおいのも……これは言い過ぎであろうが。
では、実際のところ、我々は真に「食べて」いるのだろうか?様々の栄養素が身体に必要であることは知っているが、どのように作用するためにどれそれをいかに食べるべき、とまで知っているわけではない。逆説的ではあるが、時に健康志向などのために、食は身体性を離れつつあるのではなかろうか。栄養のための品目であれば、もはやその物質のみを摂取すれば構わぬだろうし、事実そうしている者もいる。
高度に進化し複雑になった市場の中でもはや我々は自然を穫り取ることはなくなり、この手に触れるものはパッケージであり、我々の剥く皮はそれになりつつある。様々なラベルや含まれる要素の情報の厚い皮を見て生きることから、我々はあまりにも離れにくい。禁断の木の実こそ、純粋な食であったのかもしれない。
おわりに
書きなぐってしまいました。校正なしです。途中でごはんをたべたので眠たくなっちゃいました。続けるかは未定です。