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親の大きな愛

「おはよう。」 今日も心で母に挨拶。

母は、5年前に癌で他界しました。

最近「花粉」or「風邪/インフル」or「コロナ」の影響でお店から【マスク】が消えましたね。

私が思い出したのは東日本大震災の時。

そのころ都内に住んでいた私は6人家族でした。ちょうど米がなくなってあちこち近隣のお店を回っていました。でも、本当にないんです。。。

知り合いに聞いても、「困ったわね・・・」と言われるだけ。どこの家も物流が途絶えているので貯蓄しておきたいわけです。

そんな時、田舎の母に「米がどこにも売っていないんだよ」と言うと30キロ袋の米を2つも用意してくれたのです。

「主食がなくちゃ 生きていけんわ」と言っていました。

もともと自分で食べる分として用意したものだったのか、わかりません。

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もっと昔になりますが、「たまごっち

あれ、流行りましたよね。あれも同じく「ないんだよね」というとすぐにたまごっちを送ってくれたのです。子供たちも私もビックリ。

いつも、いつも先手を打ってくるというのか

どこでそんな技ができるのか、わからないままでした。

そして、この秋・・・

息子が結婚

今年の秋、息子が結婚します。それで、写真が欲しいというので

押し入れから重い腰をあげてアルバム探し。

セピア色になっている母と私の写真を見つけたのです。私の記憶からも消されていた懐かしい写真でした。

母を見て、たくさんのことを思い出しました。

母は、とても厳格な人で、子供のころから私は褒められたり母と仲良く何かしたという記憶がありません。いつも母が怖かったという記憶が多いのです。歳をとってからはずいぶん可愛いおばあちゃんとなりましたが。

そこで思ったのは

母はとにかく無我夢中で私たちを育ててくれていたということ。

実はうちは、父が家にいませんでした。

父は半年かもしくは一年とかしか家にはいません。名誉ある仕事に就いていたのもあるでしょう。帰ってきても私はいつも正座して父のお説教を聞いていました。母はいつも父の後ろを、それも影を踏まないほどの後ろしか歩きませんでした。バスに乗って出かけるのですが、バス停まで母と私は横に並んでそれも一言も話しがありませんでした。手を振って父を送ると、母がなぜか寂しそうに見えました。

一人台所で泣いている母を見つけたことがあります。私が5歳くらいのころかな。。。

なかなか帰ってこない父のことで泣いていたようでした。今でも鮮明にその時のことを覚えています。

それがこうじてか、私は旦那様には思いっきり甘えるし自然に子供の前でもそうしています。

親の愛

親の愛って、その時に感じるよりも

ずっと ずっと それも 亡くなった後に

数倍にもなって、返ってくるものです。

母は、私に何を残したのか。

自分を犠牲にしても、笑顔がなく苦しい時も

たくましく

一人で私たち兄弟を育ててくれました。

そして、大人になって嫁いだ後でも

苦境に立つと、いつも母が遠くから応援してくれていました。


セピア色の写真から

また一つ

母から学びました。

本当に大切なこと それはお金にも勝るものでもなく その時に見えるものでもなく 深くて その時には冷たかったりもして・・・

世界に 二つとない 愛の形だということ







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