共感性を後天的に
共感性は高くないことを認めたい。
気づいていたようで、気づいていなかった。
POOLOの人は共感性が高い人が多いな、とは思っていたけど、特別な人たちが集まっていると思っていたから、自分を顧みることはしなかった。
自分に矢印をむけ、共感性が高くて逆に苦しむくらいの家主と居候暮らしで比較を繰り返して気づいた。
因みにストレングスファインダーでは17位である。(これだけでは何ともいえないけど)
共感性が低めということ
小学生の頃、事態が把握できず謎現象として理解していたことは、今でいうと共感力の低さが原因だったとわかる。
例えば、ドッチボールをしていて、ボールが顔面に当たって、倒れ込む子がいた。こぞってクラスの子たちが「大丈夫?」と声をかけていた。
一方で自分は、「ボールが顔面に当たっただけ。大丈夫でしょ…」「みんなで駆け寄って意味ある?ひとりかふたりがそばにいて保健室に連れて行けば良く無い?」「早くドッジボール再開しよう。」という感情で頭がいっぱい。
「早く再開しよ?」って言ったら「ヒドイ!」と怒られて、悲しかったのを覚えている。
怒られるのは傷つくので、それからは早く再開しようなどとは言わずに、黙って状況を見守り、その場をしのいでいた。
(同調圧力に屈して見せかけだけの「大丈夫?」を言っている子もいたが、それはしたくなかったので、遠くから見ていた。)
この時に、駆け寄って本気で心配する子たちの気持ちがよくわからなかった。同じ人間なのに全然違うなぁと不思議だった。そして同時に、自分はひどいやつだ、人で無しだとも思った。
特定的に発揮される共感性
人で無しの自分を救うべく、もう少し前向きに内省したい。実は、ピンポイントでものすごく共感することがある。
紛争、性暴力
殺人事件、事故
カエル、虫、木 など。
必修となっていた平和学の授業で、コンゴの紛争地帯では支配するために女性や子どもに性的暴行を加える(性的テロリズム)ことを知った。
ドキュメンタリー映像があまりにも苦しくて、悲しくて、映像を見終えたあとも教授の話をまともに聞けるような状態ではなかった。知るべきだし解決に向けて動かなければならないと理解したが、資料に触れるたびに大きなストレスを感じる平和学を専攻することは自分には難しいと思えた。(この添付の記事を再び読んでいる今も、胸が苦しくなってどうしようもない気もちになっている。)
日本史の授業でも同じようなことが起きた。南京事件がテーマで、中国の先生だったので、中国側のスタンスや資料をもとに教えてくれた。苦しかったり泣きたくなる気持ちを抑えながら、客観的事実として頭に入れていくのが難しかった。
日常的にも、殺人や事故などのニュースや駅などに貼ってある指名手配犯のポスターは、心的ダメージを避けるためにできるだけ見ないようにしていたりする。
植物や生物に対しても強く心が揺さぶられることがある。
遊歩道のそばに立っているこぶこぶになってぶつぶつになっている木を見ると人間に触られたストレスが出ちゃっていてかわいそうだなとか、捕まえられたカエルが体温の高さでやけどしそうで地獄だから離してあげてほしいなと強烈に胸が苦しくなる。
共感がはたらくとき、はたらかいないとき
共感性が発揮される条件を自分なりに分析してみた。
一つ目は、他人の目を気にしなくてよいこと。
共感して情動が動いていることを誰かに見られたくない、という反作用が働いているように思う。
クールに見られたいという想いが強くあるからだ。これは情緒が揺れ動くのは情緒の不安定さ、やさしさの現れという女性性と結びついた観念を自分から排除するためである。
(性自認についてはnoteに。)
性自認がはっきりする前から、幼少期から、生まれ持った女性性を排除しようと無意識に頑張っていたように思う。
強がったり、弱い部分を見せるのを嫌がったり、いろいろとその理由で自分に負荷をかけていたことが思い出される。
木やカエルに同情していても、だれも女性的だと思わないので、そこに関しては安心して共感性を発揮していたということだろうか。
二つ目は、心の綱引きがないこと。
みくにんがnoteで教えてくれた本に書いてあった。共感性を発揮することにより不都合なことがあると、共感性に蓋をするようになるらしい。
前述のドッジボールの例でいえば、心配することとドッジボールを再開したいという心の綱引きが行われているということらしい。綱引きでドッジボールをしたいという思いを勝たせようと、心配する気持ちに蓋をするというような感じ。
著者では、お金が減るVS募金を断る の対決で、募金を断る罪悪感を減らすために募金箱から離れたところを横切るひとが増える、という例が紹介されていた。
つまり共感性はある・ないではなく、発揮するかどうかということ。
人で無しなのではなく、共感した気持ちを無視したり蓋をしたりして、人で無しとしてふるまっているらしいとわかった。
共感性、高める必要なくない?
実は、本を読むまで共感性を高めようとは思わなかった。
一朝一夕には身に付かなさそうであるし、そこまで努力して共感性を高める理由が浮かばなかったからだ。
だが、本を読み、共感性を高めたいと思う理由が見つかった。
世界が平和になったらうれしいから。
友達が増えるから。
自分を救いたいから。
一つ目は、平和につながるから。というより平和の逆、無慈悲(?)な世界の構築に加担したくないから。
著者は、人々が共感性を高めれば世界はより平和になると信じているし、紛争・人種差別・警察権の乱用など様々な社会的側面で「共感」の有効性を紹介している。
ざっくりだけど世界が平和になってほしいし、自分の共感性が低いことで小さくも大きくも不和に加担しているとしたらとても嫌なので、高めたいと思えた。
もうひとつ、友達が増えるから。単純に、その統計結果をみて、めっちゃいい、そうなりたいと思った。
POOLOに入って、友達と過ごす時間がどれだけ自分に幸せをもたらしてくれるか知ったことや、友達は質と数とどちらが大事かという論点において個人的にそこそこの人数と深い関係になれたらうれしいので、友達が増えるなら共感性を高めたいと思える。
さいごに自分を救いたいからである。本では自分の中で沸いた共感の気持ちを無視したり蓋をすることは、自分の気持ちを無視していることなので、心的ストレスの原因となったり自分を傷つけることだと言っていた。気づかないうちに自分で自分を傷つけていたとしたら、そんなのはやりたくない。自分を幸せにする方法を教えてくれて、みくにんには本当に感謝である。
共感やってみたら、すごかった。
みくにんのnoteにも書いてあるが、共感できる物事に対しては無視せずに発揮してみればよい。ただし、自分には心の綱引きが開始されてしまうので、意識的に綱引きを共感のほうに勝たせるよう心掛ける必要がある。
共感できない物事に関しては、自分の経験に当てはめて考えたり、相手の状況を推しはかって想像したり、話や言葉を聞いて追体験するようにして心にアクセスしていく感じらしい。(みくにん、さき、さんちゃんに教えてもらった。)
自分の経験を引っ張り出すのはできることがわかった。こういうことかなーって記憶をたどってみて、時間はかかるけど自分なりに納得することがある。
相手の状況を推って想像するのは、少し難度が上がる。が、みくにんnoteのたらこの例のように、相手のスタンスに立って想像することを頑張ってみると、できなくはない。少し疲れるけど。
最後の、追体験するっていうのは、ちょっとまだよくわからない。
少なくとも、本を読んで2週間くらい共感を意識してみたら、自分の心が救われていく感じがした。自分が相手のことを想う時点であったかい。すごい効果である。いかに共感を無視することで自分で傷つけてきたかを理解した。それだけでも十分なのに、自分の態度に呼応してあたたかいコミュニケーションも連鎖して返ってきた。
共感性が高く丁寧なコミュニケーションをとる友人とかかわりが多いからというのもあるが、なんとなくだが意識をする前とは感じが違うように思う。
こんなに容易に幸せが増える実感ができるなら、高めていくことにエネルギーを注入するやる気がわく。(そう簡単じゃないのかもしれないけど)
日常的に取組んでみるのもいいが、演劇や小説を読むのも効果的だと著者は言っていた。感情が乱されるのがなんとなくいやで、社会人になってからあまり小説を読まなくなってしまったが、せっかくのお正月休みなので読もうと思う。
共感性爆上げの2023年、こうご期待!(笑)
ボンボヤージュ
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