![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/87883802/rectangle_large_type_2_0fa99d3e6369b769eaa45ff0fac796f4.jpg?width=1200)
境界が溶けた。はじまりは隠れたスイッチ(POOLO卒業制作)
はじまり
9ヶ月を通して、「利他マインド」を身体感を伴って理解できたこと、「自他の境界線の有無」について納得感を持てたことが大きな財産となった。
赤裸々に話すと、これまでの自分は、すべての時間は自分のために使いたいし、他人に使う時間がもったいないとすら感じていた。二十歳の誕生日に、ひとの役に立つことを無理やり自分を言い聞かせていたのを覚えている。
それなのに、POOLOのみんなと接する中で、自分のことはいいや~って思えて、そうしたらその余白が自然と他人に注がれるようになった。
ここからさらに感覚が変化して、自己と他人の境界が融和して、利己も利他もいっしょくたの世界になった。
具体的に何が起こり、どう考えてそれらの変化が起きたのか、振り返りたい。
第一変化:隠れた利他スイッチ
エピソード①「山梨キャンプ」
山梨合宿が一番のカルチャーショックだった。利他利他とぶつぶついう人間がやたらと多くて、ぶつぶつ言いながら手足を人のために使っていた。(この時期はまだ仲良くなくて心理的距離があったので、感性も無機的なのは容赦いただきたい。)
まだこの時期は少し無理して利他しようとしてるひともいたと思う。自分はただ、めいいっぱい楽しもう~って、のんきに過ごしてた。
でも次第に、ここの組織で尊重すべき最大のルールが「利他的である」こと悟った。
この時点では、この考えに共感したからというより、生存本能が働いたと思う。
このルール・文化へ適合するかどうかの岐路に立った際、他人を思い遣る気持ちに溢れた魅力的なPOOLO生と仲良くなりたいと思い、「利他的である」というルールを踏襲することを決めた。自分の中の隠れた「利他」スイッチが押された瞬間だった。
エピソード②「さんちゃんキャンペーン」
誰かの役に立てればいいなぁと思う気持ちは芽生えたけど、自分のためにリソースを注ぐ自分は捨てきれなくて。なので結局、他人に使うリソースも捻出できてなくて。
そんなときオンラインイベントでさんちゃんに出会った。個人的にPOOLO史上最も影響を受けたひとだ。(3期の「尊敬する人NO.1」に輝いていたから自分だけじゃないと思うけど。)
さんちゃんは、コーチングもさることながら日常的に完全に寄り添いモードで話を聞いてくれる。話を聞く姿勢っていろいろあるけど、全力で相手に心を注ぐスタイル。
人に心を注ぐには、さんちゃん自身に矢印を向けていてはきっとできなくて、その心的エネルギーの使い方に衝撃を受けた。
想いの伝え方も特徴的だった。想いが届かなかったらどうしよう、自分ばかりの想いが強くて同じだけの総量は返ってこないんじゃないか。そんな自分に向いた矢印の感性を無視し、ただ純粋に相手に伝えたい!という想いで声を届け続けていた。
話の聞き方や感情の伝え方の姿勢を通して感銘を受け、おんなじようにやってみたいと思えた。自分自身がさんちゃんの姿勢にエネルギーをもらったから(だと思う。覚えてない)。
「さんちゃんキャンペーン」と題して取り組んでみると、恥ずかしかったり、自分らしくないとかいろんなもやもやが現れた。だけど、そんなしんどさもありつつ取組み続けていると、恥ずかしさはなくなり、自分に合う具合にチューニングもできるようになってきて慣れてきた。(一番しんどかったのは素直な感情表現。)
その結果、自己を半ば忘却して相手に全力でエネルギーを注いでも、自分自身が楽しい時間を過ごせた。そしてありがたいことに、相手からの反応も、より好印象なものになっていった感覚も得られた。
明確な変化と思えたのは、家族とのコミュニケーションだった。
普段は恥ずかしくて家族に素直な気持ちを伝えることが出来ないけど、そんな家族に対して面と向かってありがとうと言えた時は、自分変わったなって思えた。
こうして、「気持ち」というリソースを他人に使うことで、利他と利己が両立するという経験を積み重ねられた。
第二変化:自他の融和
話が急に飛んで忍びないが、国境がなくなればいいって思う。
管理上、国境が必要なのはわかってるけど、テレビやニュースを見てると、いろんな悲しい出来事はこの境目があるから起きていて、どうにかならないのかなってすごくもどかしくなる。
卑近な話としても、コロナでの県境規制による県境のひとたちへの不適合感や、旅人としても自由な渡航がどこでもいつでもできるわけじゃないのは、境目があるからだなって思う。
こんな気持ちから派生して、人と人、自分と他人においても境目が無い方が平和な感じがするよなあって思う。
でも、実際にわたしの中で自分と他人の間にある境目を無くすことはできなかった。「できない」を抱えて、5年前くらい経っていた。
出家しないとこの課題は解ききれないかなって結構本気で思ってた。
にもかかわらず、この9か月を経て身体的な納得感を持って自他の境界が融和していった。(頭ではなく感覚的に染み付いてくるって感じ。)
この感覚的な変化の理由・背景を言語化するのがすごく難しいんだけど、①「自他は違う」②「自他はニコイチ」ことを、以前より明確に認識したことが理由だと思う。
そして、①も②もどっちが正しいのかって悩んでたけど、どっちもあるってすれば色んなことがすーってまとまった。
背景① 自他は違う
まず、同じプログラムを受けているのに、経験している出来事や感じることが全然違う。
全イベントに佐賀から参加してるりかこは正直意味わからないし、ゆきのの1on1しまくりもどうなってんの?ってなる。さきとかPiroが無限にSlackに生息してるのも、自分にとっては全部が「違い」なわけで。(全部いい意味。うーん、というかこの文脈ではニュートラルか。)
「違い」がこれほどあり、しかもその違いは特性上どうもし難い、到底真似できないことばかり。人間こんなに違うんだって、思わせてくれた。
そして、1on1や対話を通して、周りの人の一見よくわからない行動を掘り下げたり、自分に対しても色んなフィードバックをたくさんもらった。自分に対する理解度も格段に上がった。
自分を表す特徴のなかに「人が好き」「人をよく見ている」というのがあるらしい。
それらとは全く真逆の人間だと思っていた。マスクを外したら2度目ましてでもわかんなくなっちゃうし、「こういう特徴あるね」って言ってみると「え〜初めて言われた」って、言われることが9割だったから。
人についてとやかくいうセンスが無いと思っていたから、言わないようにしてきた。
人を対象に真剣に把握して、考えて、伝え、それらを受け止めてくれたことは、自分の感性に自信を持つことに繋がっていった。
こうして、自他共に特徴を理解し、その上で「違い」が明瞭化していった。
背景② 自他はニコイチ
ニコイチなんて言葉があるけど、仲良しというレベルを超えた、本物のニコイチ概念を得た。
ニコイチ=言い換えれば、自他は切り離すことはできないってこと。
そう思ったのは、自分が変化することで周りからの反応が変わったり、人のことを褒めてると思いきやそれを褒めてる本人がとても輝いてたり。(ラジオPOOLOのさんちゃん回①)
鏡に反射するかのように、その影響関係は無限に行われていて、気づかないうちに自分を反射させているし、だれかの反射を受けているんだなって。(さんちゃんが、鏡がどうのって言ってたような…忘れたから今度教えてね)
そういった短い時間軸での相互作用もあるし、長期的な、無意識な影響も含めると、ほんとうに人と人は切り離せないし、純粋に別々に存在することはできないなって思う。
自分は自分だけど、同時に数え上げたらキリがないコミュニケーションや何かしらのエネルギーの受信全てが自分の血肉に蓄えられてる感じがする。
だけど、影響を与えた側は影響を与えてることに気づいていない。
個人的Most of 話題提供のコージーでさえ「影響与えてる?」ってツイートしてたし、
#POOLO 3期メンバーに聞きたいんですけど、僕ってPOOLO3期にいた意味ありました?
— コージー🌏世界遺産ライター (@koji__O) September 26, 2022
POOLOというコミュニティ、もしくはPOOLOメンバー一人ひとりに何かしら影響を与えられていたのかどうか。それがちょっと気になってます。
よかったら忖度なきご意見をいただきたい。何書いても怒らないよ。
卒業発表でなおこは「あんまり活動出来なくて、、何にもできなかったな」って言ってたし。
わたしはなおこの勢いや海外暮らしという新鮮な風に「憧れ」を醸成させてもらっていた。頭の中に常にオーストラリア・ニュージーランがあるのはなーこのおかげと言っても過言ではない。それくらい影響受けているのに。
無限に影響があるけど書ききれない。とにかくみんな、無意識にわたしのうちに取り込まれてるので、ごめんですけどそうことなんでありがとう。
背景③自他は違うし、ニコイチ
背景①②を通じて、人って全然違うし個別のもの。人は影響しあってる。って、すごく矛盾してて困る。
個性を大事にっていうけど、人は自分の鏡だよとも言われる。
どっちなの?ってモヤモヤしてたけど、どっちも正解って思うしかないし、これまで理解したことをまとめるにはそうするしかない。
ベツベツニコイチ理論って名付けてみる。
この考え方は自分では思いつかなくて、学長おすすめの本を読んで、「まさかそんな考えが許されるのか!!!」と、目から鱗感と悔しさがあった。
本の中ではちゃんとした仏教用語として書かれてたけど忘れたので覚えやすいように新たに名付けた。
【追記:2022/10/22】
文化人類学を通して、「わたし」と外部に境界線・輪郭は明確にありつつ、溶けることもするというような表現で似たような感覚をまとめてくれる、この本も、考え方に別の視点を与えてくれておもしろかった。
別々・ニコイチという極端な考え方の間に、境界を「はみだす」というグレーゾーンで埋めてくれたから。
実践 ベツベツニコイチ理論
自分の強みや弱みを理解し、そして自分と他人は違うし一緒って考えを持った今、言うまでもなく、利己も利他も融和しながら実現していくんだろうと思う。
この感覚を持ってすると、これまで導き出せなかった課題に対して自分なりの新たな見解を出せる気がした。
せっかくだから、ひとつ押入れから出してみる。
「特性を伸ばすか、無い特性を得るために努力するか」という課題である。
新たに得た、ベツベツニコイチ理論を使う。
二者択一ではなくて、特性を伸ばすこととない特性を得ることは、同じことを言っているんじゃないか。
つまりどっちかを選びぶ必要がない。そして、それは両方やるってことでもない。
すごく感覚的なんだけど、
境界があるけどない世界を絵にしてみた。下図の右が、逆のものごとは反対にいながらも近い・繋がってるというイメージ。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/87731354/picture_pc_6a116f78a087a358e1ddcd22fabb7752.png?width=1200)
反対にあるものを取ろうとしなくても、今持っている要素を突き詰めていけば反対側にたどり着くんじゃないか。(上図の右)。
利他の方法に落とし込むと、
利他を通して利己をするというのではなく、利己を追求した先に自分と融和した他人に何かしらのエネルギーを届けることができるんじゃないか。
だから、個を伸ばすと自然とその対概念も自然と得ている。そんなふうになるんじゃないかっていう結論。(人生そんなイージーじゃないかもしれないけど。一旦の仮説としておいてみようという感じ。)
検証も実践もしてないしすごく感覚的だから、これ以上掘り下げられないけど、しばらく様子をみていきたいと思ってる。
さいごに
これから自他が融和した世界の中で生きていくのがとても楽しみ。新世界への旅がはじまっている感じがする。
旅ははじまったばかりで、ゲートがやっと開いただけ。数年後、数十年後に思い返して、なんなら死ぬ間際とかに、旅の原点であるPOOLOのことを思い出したりしてみたい。立ち戻れる場所があるって、幸せだと思う。積み重ねられた幸福を何度も何度も味わえるから。
いや、書いたことが青くすぎてすごく恥ずかしくなるかもしれないけど。その恥ずかしさも受け入れられるくらいの自分になってるといいな。
POOLOのみんな、末永くよろしく。
ありがとう。