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歩ける都市は獅子舞の保護区である

人間が歩く道は、獅子の道でもある。人間が歩きたくない町には、獅子も存在しない。獅子舞の生息可能性を考える上で、まず人間が歩いて心地よい町であるか?という視点は大事だろう。世界を見渡せば、18世紀後半の産業革命以後、仕事場である都市と生活の場である郊外という風に職住分離が進んだ。この動きが獅子舞生息不可能な土地を世界中に生み出し続けた根本的な原因の1つではないかと考えている。郊外化と獅子舞生息可能性との関係を探る。

郊外化前に存在したのは徒歩都市

ケネス・ジャクソンが『雑草のフロンティアーアメリカの郊外化』で示すことには、人口が密集していること、市域と郊外の明瞭な区分を有すること、経済と社会機能が充実していること、職住が近接していること、富裕層が都市中心部に住む傾向を持つこと、などを満たす郊外化以前の都市を「徒歩都市(ウォーキングシティ)」と呼ぶ。この郊外化が起こる前の産業革命以前の世界は、ある決められた土地から森林資源などをもとにして、一定のエネルギーを生み出し、それを再生可能な形で循環させる必要があった。しかし、ポメランツの著書「大分岐」などによれば、イギリスは食料をアメリカなどの新大陸に頼ることができたし、石炭を容易に手に入れることができた。これらの要因により土地の制約から解放されたイギリスは、産業革命が起こり、その波がヨーロッパや世界中に波及することとなる。

産業革命後、住環境の悪化が郊外化を進めた

紡績や製鉄の技術が発展したことから綿産業が進展し、同時に新しい動力としての蒸気機関が生まれた。ここから産業革命が始まったのだ。原料や製品を運搬するために蒸気機関が実用化されて1830年代に鉄道も整備された。初めて郊外住宅は1830年代のマンチェスターにおいて建設された。その背景としては、家庭生活の充実というよりは不十分な都市計画による公害や衛生の悪化する環境の危険さと醜悪さを目の当たりにして、それらから家庭生活を逃がそうという意図が大きかった。これによって都心が仕事場で、郊外が生活の場となったのだ。職住が分離されたことで、移動に便利な車が不可欠となり、家庭と仕事場とそれを仲介する鉄道(のちに自動車)という風に、箱によって区切られた空間が誕生し、歩かなくても生活できる町が生まれた。

身体性の喪失と重要無形民俗文化財

家にいる子どもは外に出歩くこともできずテレビを見ることに集中するばかりで冒険する心は育まれない。ここに身体感覚の喪失と機械スケールで動く迅速な移動をもたらした。物事は全て計測され計画的に進められるので、予測不能な偶然性に身を委ねるということがなくなっていった。レベッカ・ソルニット著『ウォークス 歩くことの精神史』(2017年)には、「歩行が指標生物ならば、ジムはいわば身体運動のための野生動物保護区だ」と書かれている。つまり、身体性とは生活をする中で後発的に獲得するものではなく、あらかじめ計画的に体を動かす場所を作っておかないと喪失してしまう絶滅危惧種のような存在なのだ。獅子舞は自然と共存する中で野生生物(シシ)との対話の中からその動きが生み出された。そう考えれば、獅子舞保全のための保護区(重要無形民俗文化財)を作らないと消滅してしまうのが現代の民俗芸能の現状である。ちなみに、日本における産業革命は1868年の明治政府誕生後に推進された殖産興業の政策により、富岡製糸場に代表されるような機会制の工業や鉄道網の整備などを行なって、西欧諸国に対抗しようとしたところから始まる。西欧諸国に対抗するためには国家の精神的なまとめ上げも必要だったこともあり、同年に神仏分離令も発布。結果として、日本全国の寺社に保管された文化財がかなり失われてしまったという事実は興味深い。

郊外化に疑問の声、ハワードの田園都市

ところで、産業革命が進行したイギリスに話を戻そう。仕事場である都市とその周辺の郊外に人口が集中し、自然からは隔離され、遠距離通勤や高い家賃などに悩む人々に対して「都市と農村の結婚」を説いたのがハワードだ。ハワードは人口3万人程度の地域で自然との共生と職住接近を目指した。不動産は全て賃貸となっており、田園都市株式会社が所有。都市発展による地価上昇利益は土地所有者によって私有化されずに、町全体のために役立てられる仕組みとなる。この考えを展開したのが1898年の著作「明日の田園都市」であり、1903年にはロンドン郊外のレッチワースでまず田園都市の建設が始まった。田園都市が人口を満たしたら、近郊にまた新たな田園都市が作られその2地点は鉄道などによって結ばれて都市圏が形成される。この連鎖によって都市圏が形成されるのだ。ちなみに、レッチワースの次は1920年に、20キロちょっと離れた場所にウェリン・ガーデン・シティが作られた。イギリスではその後1946年以降はニュータウン法ができて、一挙に30以上のニュータウンコミュニティができたものの、田園都市の理念にある「職住近接」がなかなか実現されず現在に至る。

獅子舞の保護区として田園都市は機能しうるか?

田園都市というまちづくりは都市と郊外という切り分けに対抗する有効な手段であり、獅子舞にとっては生息環境を担保する保護区と言えるかもしれない。実際に職住接近の原理は、地域コミュニティの活動を活発化させ、地域活動に理解のある企業が増えるため、祭りの日を休暇とする企業も増えるだろう。そうなれば担い手が確保しやすく、祭りはどんどん盛り上がる。それに加え、獅子舞が家々を舞い歩くことに対する理解が得られやすいだろう。ただし、アメリカのジェイン・ジェイコブズの田園都市批判に代表されるように、街並み動線の合理性や規則性が街に潜むカオスを排除しているという点については、十分に再考されねばならない点である。獅子舞の原点である野生をどれだけ担保できるかが鍵となるだろう。

自転車に優しいと獅子舞が生き生きする

少し視点を変えてみよう。産業革命から大気汚染や公害問題などの深刻化の流れについて書いたので、その流れでエコロジーなまちづくりについて触れておきたい。自転車にとって走りやすくてエコロジーなまちづくりを目指す「クリティカルマス」の運動が1992年サンフランシスコから始まった。金曜日の夕方や土曜日に、大量のサイクリストが都心を一緒に走り回るという活動である。サイクリストたちの発生は、獅子舞の増殖とも相関性があるだろう。獅子舞は歩道では少し身体的間隔が狭く感じるだろうから、歩道プラス自転車道があるくらいがちょうど良い。つまり、自転車に優しい町は獅子舞にも優しい町とも言えることを付け加えておこう。


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