まちづくりの歴史に、獅子舞の生息可能性を見出す
獅子舞は昭和以降、石川県や富山県などの獅子舞大国において爆発的ブームとなった。それは寺社への奉納や自然に対する畏怖などから生まれたというよりは、国の政策の影響を大きく受け地域コミュニティのまとまりを作る存在としての獅子舞が強調された時代背景もある。とりわけ昭和以降の地域コミュニティと獅子舞との関わりを紐解きながら、時代錯誤の封建的支配に貢献するものではなく、新しいまちづくり文脈における獅子舞のあり方を考える。
軍事主義の遺産として獅子舞
唐突ではあるが、戦前・戦中の日本において、獅子舞は軍国主義に加担していたのではないか?という問題意識を持っている。石川県で獅子舞を取材していた際に、昭和天皇の即位後に御大典記念を境に獅子舞が急増したという事実を知った。国、地方自治体、各地区という順番で公的な補助金が出て、それを元に祭り道具を買い揃え、町内会や青年団の行事の一つとして、獅子舞をはじめとした祭りが盛んに行われるようになったのだ。ある町内では、演舞ミスをすると棒で叩かれたり、地べたで練習するのものだから血が出たり、吐くまで徹底的に練習させられたりという昔のエピソードを語る年長者と出会うこともしばしばある。祭りに向かって町が一丸となり、その過程でお酒を注ぐとか挨拶をするとか年長者の生き方や姿勢を学び、次の世代に受け継ぐという言わば地域内での社会教育が行われた時期ともいえよう。このように町内会や青年団のボスが地域を統制する「封建的支配」は第二次世界大戦に向けての道筋を作ることに少なからず加担していたのではないかと考えられる。日本で最も数の多い民俗芸能としての獅子舞が「地域のまとまり」を作る役割を担っていたことからも想像がつくだろう。これは江戸時代の加賀藩が武芸鍛錬のため獅子舞を奨励したとも言われているように、文化面からのささやかな軍事政策として、獅子舞が体を鍛え健全な青年を育てるという歴史的な背景が関わっているようにも思われる。
基本的人権と封建的支配の解体
しかし、戦後の日本国憲法による基本的人権の尊重とともに、封建的支配の解体が叫ばれて以降、獅子舞のあり方というのは急に変化したようにも思える。戦中には疎開によって人口が急増した地域が獅子舞を始める、あるいは獅子舞が盛り上がりを見せるというケースも多かった。しかし、戦争が終わると故郷に戻っていき、獅子舞が途絶えたという場合が多く、戦争が獅子舞の解体を加速させたという側面も少なからずある。1947~50年代生まれの団魂の世代ならまだしも、そこからは子どもが少なくなり獅子舞の担い手確保が難しくなった。それとともに、獅子舞の維持が困難になる地域も増加した。地域はますます長老の意見が通りやすくなり、古い体制に反発する若者は大学や企業就職などを機に、地域から都市部へと出て地域コミュニティとの関わりを持たなくなってきている。実際に「仕事があるから、授業があるから」などの理由で、獅子舞の担い手になることを拒む若者も多い。現代において獅子舞の隆盛は昭和時代の封建社会への傾倒から来るものであって、その価値観に縛られた獅子舞は低迷期を迎えている。
まちづくり文脈における獅子舞
獅子舞の盛衰はまちづくり文脈における「地域コミュニティ」や「人と人との繋がり」にまつわる政策の盛衰とリンクする部分がある。日本のまちづくりの歴史において、イギリスの田園都市・レッチワースから学び取ってきたことは大きい。ハワード著『明日の田園都市』にあるように、市街地の周りにグリーンベルトを設置して、職住接近を目指した。その舞台となるレッチワースの土地は田園都市株式会社が所有し、個人の所有権は認められない。個人は全て借地か借家で、田園都市株式会社は住民のインフラ整備や修繕、日常生活の維持や管理に関わっていくというものだ。この取り組みが示すのは個人所有の行き過ぎを防ぎ、「自分ごと化された街を作る」ということでもある。阪急東宝グループによる池田駅近郊の開発、渋沢栄一がパリの凱旋門を参考に作った田園調布の住環境、あるいは国立市のように駅前広場から放射状に伸びる住環境の整備など、ヨーロッパの田園都市の影響を受けて、日本でも様々な取り組みが模索されてきた。しかし、戦後は地域の結束が敬遠されたのか、なかなか人と人との繋がりや地域コミュニティに焦点を当てた政策は生まれない。そして、田中角栄の日本列島改造論に突入。ヒト・モノ・カネの東京一極集中を脱するべく、情報通信ネットワーク、新幹線や高速道路の整備、工業拠点の全国的な配置などを行い、地方の見捨てられた土地がお金を生む宝の山となり貧困は解消に向かう。しかし、結果としてマイホームや高級車を乗り回すことがステイタスであるという個人的所有の時代が到来し、地価の高騰とその影響による物価上昇、インフレーションが起こった。そしてバブルの崩壊とともに持っていさえすれば必ず儲かる不動産が、価値のないお荷物へと変わり、人口減少時代における空き家や不明な土地の増加へと繋がっていくこととなる。一方で日本列島改造論と同時期には、大平正芳の田園都市論のように、都市と農村が有機的につながり互いに支え合う、つまり都市には田園のゆとりを作り、田園には都市の活力を作っていくという考え方もあった。しかし、戦後に生活苦を耐え忍んでいきてきた人々にとって、日本列島改造論は希望の光だったわけで、それと逆行する田園都市論は実現されなかった。この田園都市論を元にして、ー土地のゆとりや空白を作り人々の憩いの場とする、あるいはそこを田園として整備するという考え方は、どこか獅子舞の生息を予感させる言葉ではある。ところで2020年よりコロナ禍に突入して以来、リモートワークと地方移住が進み、これが一極集中の緩和になるのではということで進められているのが岸田文雄による「デジタル田園都市」だ。ここには弱者救済や自立・自治の構想が見られない点で従来の田園都市の目指す方向と異なり、パソコンとにらめっこする引きこもりを増やしかねないので、実際にこの政策により地域の共同体が機能していくかはわからない。
東日本大震災が祈りと人の繋がりを強めた
戦後、地域コミュニティの再興を促した最も重要な出来事は東日本大震災であろう。地震や津波によって被害を受けた建物は数知れず、仮設住宅に移り住んで土地と人との関わりが断絶された。何もない土地に新都市を建設するように始まったのが震災復興だった。東日本大震災復興構想会議によれば、2011年5月に復興構想7原則が定められ、そこには「追悼と鎮魂」「地域コミュニティ主体の復興を基本とする」などが記載された。実際にできた街は防波堤という名のコンクリートブロックによって覆い尽くされた街だったわけで、都市マスタープランなどは機能しなかった。しかし、岩手県知事の達増知事が復興の基本目標として宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を引用してその数値化を試みたように、実際に変化は起きつつあった。「健康、家族、家計、自由な時間、居住環境、友人関係、従業状況、自然環境、仕事のやりがい、職場の人間関係、治安・防災、地域コミュニティ、子育て環境、社会貢献、教育環境、地域の歴史・文化、その他」という項目が提示され、自らが幸福である理由として、健康、家族、家計が上位を占めた。一方で、社会貢献、教育環境、地域の歴史・文化の関心度が一段と低かったという事実は興味深い。このような統計は全国的に共通しているようだ。達増知事はこの改善をするために政策への反映を行っていったわけだが、これは獅子舞の復興と連動している。東日本大震災の仮設住宅や集会所を活気づけるために、獅子舞の復活や創作が各地で行われたことは、地域コミュニティや人と人との繋がりを再確認する出来事だった。普段の生活の中で使わなくなった端切れなどを用いて獅子の胴体を製作するような起用仕事はまさにブリコラージュであり、獅子舞の創世期を思わせる。このように震災復興の政策と並行して、獅子舞の生息域は広がったのだ。
まちづくりから学ぶ、新しい獅子舞の姿
このように、獅子舞とまちづくりにおける地域コミュニティ政策は連動している。都市と農村の二元論ではなく相互補完的であり、画一的な政策を施すよりは各地域の自主性を重んじるという田園都市の構想は、獅子舞の生息と大いに関連性がある。この政策の狙いは都市に田園のゆとりをもたらすことであり、例えば近年活発化されている都市農業の農地が増えたとしたらそこで人が自然に触れる、あるいは人と人とが繋がる余地が生まれる。そのような場所が生まれることで、獅子舞という生き物が生息する土壌が整うのだ。震災復興やリモートワークと地方移住などの時代潮流を受け、田園都市の実現はより近づいていると言える。そのような中で、封建的支配の教訓を生かしながらも国でも長老でもなく地域のために、どうやって若者が輝ける獅子舞を作り上げられるか?を考えていかねばなるまい。この獅子舞がデジタル田園都市の難点である自治の問題に対して、有効な緩衝材として働いてくれたら嬉しい。
参考文献
五十嵐敬喜『土地は誰のものかー人口減少時代の所有と利用』(2022年2月, 岩波書店)
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