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天才でも秀才でも凡才でもないなら、「変才」として生きればいい。
世の中には、いろんな才能が溢れています。
一般的には、この3つの才能を称える場合が多いと思います。
一定の分野の能力に長けていて、誰もがそのすごさを認める「天才」
誰かからの要求に対して、求めれている以上のクオリティを常に出せる「秀才」
世間一般の人たちの気持ちがよくわかり、ズレた感覚がない「凡才」
「凡才」というと、本来は「平凡で何の才能もない人」という意味で使われることが多いですが、ここでは、「共感性が高く、世間一般の人たちの気持ちがよく分かる人」を指します。
どんな業界においても、一定の分野で優れている人も必要だし、要求以上のクオリティを出せる人も必要だし、人の気持ちがよく分かる人も必要だと思います。
僕は、この3つの才能のうち、どれに該当するのだろうかと模索し、それぞれの才能を磨いてきました。
しかし、磨き続けた結果、こんなことに気がつきました。
「稲本はこれがすごいよな!」と言われるような天才性もない。
「稲本に任せれば大丈夫だな!」と思われるような秀才性もない。
「稲本の感覚ではどう思う?」と聞かれるような凡才性もない。
どれにも該当せず、一人だけ取り残された心地になってしまったのです。
ヤバい・・・。どうしよう・・・。
それに気づいた僕は、焦ってしまいましたが、これまで自分が絶賛されたことや褒められたことを思いだして、あることに気がつきました。
僕の強みは、日本の数%しかやっていないことをやり続けられることです。
そして、それを面白がってもらうことが多いです。
noteを1000記事以上書き続けていること、毎月新しい曲を作り続けていること、20代半ばで大学に通うこと、東京の番組で沖縄のコーナーを作ったことなど、あまり他人がやっていないことをたくさんしています。
天才でも秀才でも凡才でもないけど、人と違うことをやり続けられる「変才」ではあるのです。
ほとんどの人は、結果が出なかったらやめるし、面倒くさくて挫折するし、何かの目標を掲げないと、なかなか人と違うことはできません。
しかし、僕はやめたいと思えず、なぜか続けてしまうのです。
やり続けるからこそ、人との違いが生まれて、その差は次第に開いていきます。
別に、「変わり者」を自ら演出しているわけではないし、変わっていることが素晴らしいとも思っていません。
いつも、自分しかやっていないのが当たり前だったのです。
変才を良いように活かすことは難しいし、使い方を間違えれば、「アイツは何も分かっていない!」と、悪くはたらくことが頻発します。
そして、自分が変わっている人間だからこそ、変わり者を自ら演出している人には、拒絶反応を持ちやすくなります。
変わっていることがらに対して、あまり労力やリスクが伴っていない人は、ほとんど自己演出と言っても過言ではありません。
それぐらい、「人と違う」ということは、面倒だし孤独だし厄介なことです。
上手く使えなければ、苦悩し続けることになるので、僕は隠すことに必死でした。
ただ、今の僕は、完全に開き直っています。
天才でも秀才でも凡才でもないなら、変才として生きればいい。
そんなふうに思えている自分もいます。
今は、人と違うことをとことんやり続けて、それを上手く活かす方法を考えています。
「何らかの知識が人並み外れている」とか、「こんなことを毎日やり続けている」など、人口の数%しかやっていないようなことがあるなら、その変才性を大事にするべきです。
そして、その才能に気づいたなら、変才として自信をもって一緒に生きましょう。
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