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マニラにあった比島神社と占領下フィリピンでの神社創建計画

比島神社


76 比島神社「ヒリッピン物語」金ケ江清太郎 (1)

フィリピンにも神社が創られていた。現在およそ4社の神社があったことを確認している。首都マニラには比島神社があった。
 『マニラ紀行 南の真珠』(木村毅)に比島神社の始まりが記されている。「狂信に近い信神家がゐて、出雲の大社を分座して貰って、個人でこれを建立した」「田舎の荒神様か、稲荷様位な小さな祠だ。」「表には型ばかりの鳥居が立つてをる」という様子であった 。『歩いてきた道ーヒリッピン物語』(金ケ江清太郎)には、後にマニラ日本人会副会長にまでなった青山竜吉が神社建設の世話をしたとあり、米国の植民地であったフィリピンで、神社を建てることは簡単なことではなく、彼が総督と交渉し神社建立が許可されたのであろう。比島神社の写真には「昭和五年十一月吉日」と書かれた幟が写っており、それ以前に建てられたことがわかる。実態はほぼ不明であるが、マニラ新聞に神社についての記事をいくつかみることができる 。

マニラ新聞 s18-10-29


 マニラ日本人小学校では、比島神社への集団参拝や、登下校時に神社前での礼拝をしていた 。同小学校発行の文集には神社掃除について書いた作文があり、神社の様子が詳しく描写されている

「比島神社の境内を、きれいに掃除する役目に当たってゐるのが私達高等一年の生徒です。(略)門を開いて内に入り、先ず手水鉢を木の葉できれいにこすって、(略)こんどは玉石の並べてあるお庭を、竹箒ではきますと、(略)お庭が、すつかりきれいになると、私達は、いつも手を清めて、礼拝します。皇軍の必勝をお祈りし、将士の御苦労に心から感謝します。」


以上の史料から、比島神社には、それほど大きくない神祠の前に鳥居があり、敷地には玉砂利が敷きつめられ、手水鉢がおいてあった、ということがわかる。小学校児童の集団参拝や兵士の参拝は確認されているが、現地住民を参拝させたという記録はない。
第二次大戦時、日本軍は首都マニラを放棄することなく米軍と戦闘を繰り広げ、現地住民およそ10万人が巻き添えで死亡した。マニラ市もほぼ壊滅しており、この時、神社も消滅したのかもしれない。

 戦後、比島神社は敵資産として米軍に接収されたが 、宗教資産ということで没収はされず、フィリピン政府の管理下にあった。昭和32(1957)年、米国司法省外国財産事務所から在比日本大使館に、フィリッピン神社跡地の賃貸料として300ペソ(5万4千円)が返還されている。昭和47(1972)年、神社跡地を不法占拠していた住民を排除し、仮設建造物を建設。平成4(1992)年、日本のフィリピン協会と共に比日関係を促進するためのビルを建てることとし、平成8(1996)年に比日友好センター(Philippines-Japan Friendship Center-Manila)が完成した。比日友好センターは日本語学校を運営しており、ビルの一階には、このビルを建てた経緯が記したプレートがあり、神社があったことも記されていた 。神社の痕跡は全くない。

現在の写真は下の記事でみれます。



フィリピンでの神社創建の動き


スペイン植民地時代は政教一致の政策がとられ、フィリピンではカトリックが唯一の公認宗教であった。米国は政教分離の宗教政策へと転換し、プロテスタントの布教を始めたが、カトリック信徒が住民の大多数を占める状況は変化しなかった。昭和14(1939)年、フィリピン住民1600万人のうち、ローマ・カトリックが78.8%、フィリピン独立教会であるアグリパイ派が9.8%、米国植民地となった後に宣教が始まったプロテスタントが2.4%、イスラムが4.2%という構成であった。
 昭和16(1941)年11月25日に出された「南方作戦ニ伴フ占領統治要綱」には、宗教について「既存宗教ハ之ヲ保護シ信仰ニ基ク風習ハ努メテ尊重シ民心ノ安定ヲ図リ我施策教化ニ協力セシム」 とあった。教育の基本方針には「欧米特ニ米英依存ノ思想ヲ根絶シ東洋人タルノ自覚」「道義ノ涵養」「日本語ノ普及」「勤労精神」などという言葉が並んでいた。学校での宗教教育に対して「欧米崇拝の最も基本的な源流はカソリツクにある。だから課外でも禁止し一面においてカソリツクに壓倒する我が皇道世界観を彼等に注ぎこまねばならぬ」 のような意見を述べる人も一部にいたようであるが、住民の91%までがキリスト教徒 であるフィリピンで神道を住民に強制する政策は行われなかった。

それでは、日本軍の占領中に、神社を創建しようとしなかったのか?いや、計画は存在した。昭和17(1942)年5月7日にバターン半島に籠城していた米軍を下し、戦闘期から軍政期へと移行していく途上にある5月24日、「馬尼刺ニ於ケル神社中霊塔及寺院ノ敷地研究並ニ都市計画等を為サシメ度ニ付之ニ関スル権威者ヲ派遣の件」 という電報が打たれている。

スクリーンショット (82)


前述のように、南方占領地においては、「既存宗教ハ之ヲ保護シ信仰ニ基ク風習ハ努メテ尊重シ民心ノ安定ヲ図リ我施策教化ニ協力セシム」が基本方針であった。しかし、現地からは神社創建だけでなく、忠霊塔、寺院、さらには都市計画まで含む過大ともとれる要求をし、占領統治要綱を全く考慮していない。では、なぜこういった文書が出されたのか?まず、中国大陸において、満鉄附属地に限らず、日本軍が占領した都市で大規模な都市整備を行っている。こうした経験から占領後には、都市計画が必要と考えたのかもしれない。また、英軍の要塞であったシンガポールは2月15日に陥落し、第25軍司令官山下奉文の発案で昭南神社及び昭南忠霊塔の創建が決まっていた。同年5月7日にはその地鎮祭が行われ、創建が始まっている。日本軍の東南アジア侵攻作戦で、香港の英軍は昭和16(1941)年12月25日、マラヤ・シンガポールの英軍は翌年2月15日、蘭印のオランダ軍は同3月9日にそれぞれ降伏した。そして、フィリピンでの戦闘が終わる前に、シンガポールでは昭南神社の創建が始まっている。こうした動きに対抗心をいだき、我が占領地にも「神社忠霊塔及寺院」を、ということになっていったのではなかろうか、と推測している。
 

マニラ新聞 s18-1-9

マニラ新聞 昭和18(1943)年1月9日

また、マニラ新聞には中部ルソン島日本人会 が、「天照大神を祭祀し奉る神殿」「バタアン・コレヒドールで戦った英霊に感謝を捧げる遥拝所」「比島戦線の記念物を保存する記念館」「大競技場」等を有する大規模な神社の創建を計画しており、在留邦人からの寄付も始まっているとういう記事がでている 。昭和17(1942)年11月29日には、神社の御神体にする伊勢神宮の御霊代を日本人会会議室の仮殿に奉戴し、仮殿遷座式を行っている 。この動きが先ほどの電報とどれだけ関連しているかは不明であるが、フィリピンの総鎮守的な神社の創建計画があったことだけは確実だと考えられる。

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