台湾の慰霊の系譜:招魂祭・建功神社・台湾護国神社
下の写真は、民国46(昭和35・1957)年、総理就任直後の岸信介が訪台した時に撮られたものである。場所は台北の忠烈祠。忠烈祠は戦死した国民党兵士を祀る廟である。祀られている兵士には、日中戦争で日本軍と戦って死亡した者も当然含まれている。戦前、高級官吏として大日本帝国の戦争遂行を担った岸が、かつて敵であった国民党兵士の慰霊を行う、という敗戦国日本が戦勝国中華民国に詫びをいれるという意味の行事であった。翌日に予定される蒋介石との会談を前に禊を行ったともいえる。
さて、下の国家文化資料庫をひらいて写真をぐいっと拡大してゆくと、岸が参拝する忠烈祠の形状が全く日本的な建物であることがわかる。なぜなら、この忠烈祠は、植民地期に日本が建てた台湾護国神社の建物をそのまま利用した慰霊施設であったから。こう知った後、もう一度、写真を眺めると、この参拝が旧宗主国と旧植民地の捻れた関係性を示したものであったことがわかるだろう。
今回は、ここに至るまでの台湾護国神社の歴史を紹介してゆきたい。
日清戦争の勝利により明治28(1895)年、大日本帝国は台湾を領有することになったが、異国統治が何の障害もなく始まるようなことはなく、武装抗日運動の火は長く燃え続けた。明治31(1898)年には匪徒刑罰令を定め、5年間でおよそ3万2千人を処刑。芝山岩事件、新城事件、抗日の三猛(林小猫・簡大獅・柯鉄)の反乱など多くの抗日事件を武力で抑え込み、統治を始めて7年後の明治35(1902)年に全島平定を宣言したが、その後も反抗は続いた。大正初期の苗栗事件では1,211人が逮捕され、221人に死刑判決を出している。大正4(1915)年の西来庵事件(噍吧哖事件)(匪徒を大量に逮捕し、866人が死刑判決を受け、95名を処刑)を契機として、武装抗日運動は台湾人の権利を求める政治運動を主とするようになった。別の言い方でいうならば、併合後20年を経て、帝国は、台湾人が武力によって抵抗することを諦めさせることに成功したのである。
武力での平定作戦が多くあり、作戦中に死亡する者も多く出た。そこで、明治35(1902)年、台湾初の招魂祭を台南で開いた。明治41(1908)年には台北でも招魂祭を開くこととした。それ以降、濁水渓で台湾を南北に分け、台北・台南の2ヶ所で招魂祭を行った。台北招魂祭は圓山陸軍墓地前の祭場で開くことが通例であった。因みに、圓山陸軍墓地は台北市街北方にあり、河を挟んで台湾神社と向かい合うような場所にあった。
台湾領有30周年を記念し、台湾にも招魂社を創建することになり、台北市内の植物園内に作ることに決まった。大正15(1926)年に地鎮祭を行い、昭和3(1928)年に建功神社が鎮座した。建功神社の祭神となる基準は、台湾における戦死者、殉職者、殉難者、となっており、邦人だけでなく台湾人や原住民も祭神になることが可能だった。靖国神社より祭神認定基準が緩く、台湾人も祭神になることができたため、植民邦人のための普通の神社とは違い、自主的に参拝する台湾人もいた。建功神社の社殿はコンクリート製でドーム屋根が設置されており、神社としては特異な建物であったことから、神道人からの強い批判もあった。昭和9(1934)年には官幣社への列格運動もおきている。
日中戦争が長期化の様相を見せ始めた昭和13(1938)年、建功神社は靖国神社や招魂社とは性格が違うので、台湾にも靖国神社を建てるべきという意見が出され、軍も賛意を示した。外征軍死者の慰霊顕彰と、植民地の治安維持ための死者への慰霊顕彰を一緒にされては困る、ということを軍は考えていたのではないだろうか。また、下の神社記事の左下にある志願兵制、さらには台湾における徴兵制施行、も睨んだ動きであったと思われる。
リンク先の論文に合祀基準が詳しく分析されている。ただの勘であるが、病没者を合祀者に入れたのは、北白川宮の死亡原因によるのではないだろうか?台湾の守護神ともいえる人物の死因を戦死基準から外すわけにはいかないという、台湾独自の理由があったと思うのが、どうであろうか?
台湾総督府による台湾統治・建設死没者の建功神社(台北市)合祀問題─ 日清戦争従軍軍役夫の処遇を中心にして ─池山 弘
昭和14(1939)年7月15日に台湾総督を会長に台湾護国神社奉賛会が組織され、18日に総督告示が出された。国の予算が20万円、奉賛会が20万円ということで、各州に寄付が割り当てられた。場所は台湾神宮外苑内の大直で、ここには剣潭山の台湾神社、その隣に造営中の台湾神宮、さらに台湾護国神社という台湾を代表する3社が並ぶこととなった。下の航空写真で上記3神社の位置関係がわかる。一番右の”TEMPLE”が台湾護国神社である。
台湾新民報社は紀元二千六百年記念事業として、護国神社の境内の敷石の献納を台湾全島から募った。厦門神社の記事で少しふれたが、台湾の対岸に位置し、台湾とのつながり深い厦門居留民会も護国神社建設のための寄付運動を行っていた。上の記事はその時のものである。台湾護国神社は昭和15(1940)年2月に起工し、翌年1月地鎮祭を行った。護国神社の造営工事には、隣で行っている台湾神社新築工事とあわせ、学生や軍等が地均しなどの勤労奉仕に大量に動員された。戦時中の物資、労働力不足をはねのけ、昭和17(1942)年5月22日に鎮座祭を行った。台湾護国神社の祭神は9,226柱の台湾に縁故のある戦没者・殉職者となっており、建功神社の祭神よりも限定した基準となった。台湾護国神社の在りし日の姿は、下のリンク先でみることができる。
昭和17(1942)年4月1日より台湾で陸軍特別志願兵制度が実施された。翌年8月1日には海軍特別志願兵制度が実施、植民地の現地住民に武器を与えることになるという理由で、植民地での徴兵制は導入が進まなかったが、昭和20(1945)年になって台湾でも徴兵制が導入された。台湾護国神社の創建後も、建功神社への参拝は続いていたようである。
少し余談になるのだが、台湾籍兵士の戦死者遺児は”誉れの子”として、新たな祭神を祀る靖国神社例大祭に派遣されていたが、昭和19(1944)年には、内地への渡航が危険な状態となっており、台湾護国神社での遺児参拝に切り替えられた。
民国38(1949)年、共産党に敗北し、大陸から逃げてきた国民党政権は台湾護国神社の建物をそのまま台北圓山忠烈祠として利用した。忠烈祠は抗日戦争や国共内戦での戦死者を祀るもので、首都にある台北の忠烈祠は、全台湾の中心となる忠烈祠だった。民国56(1967)年に建て替えることとなり、民国58(1969)年に北京の太和殿様式の建物が完成し、国民革命忠烈祠となった。この建て替えは、岸の旧台湾護国神社参拝があまりにも植民地丸出しではないか、と台湾国内で問題になったことがきっかけとなった、と聞いたような気もするが、事実であったか定かではない。今では、毎時の衛兵交代の時間に合わせて多くの観光バスが集まる観光地にもなっている。いや、私が行った時はそういう場所であったが、この疫病下で、どのように変化したのだろう?
一方、建功神社社殿は今も現存している。ドーム状の屋根が円錐状の屋根になるなど改築された箇所も多いが、一部に不評をかったコンクリート製の建物であることが奏功したのである。一時、国立中央図書館の官舎として使われていたが、現在は国立教育資料館となっている。
海外神社撮影を集大成した写真集がでております。
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