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近江神宮はいかにして神社造営に到ったのか

近年、かるたの聖地として知られるようになった近江神宮は、創建から80年ほどしか経っていない若い神社である。背後の山から連なる緑の木々が囲む境内に立つと、とてもそんな風には思えないが。下に掲げた創建当時の写真では、参道入り口から巨大な社殿をはるかに眼ざすことができたことが見てとれる。今の神宮からは想像もできないが、境内には植林されたばかりのひょろっとした若木しか生えていなかったのである。

59 近江神宮 (1)


戦前、神社は全て国が管理するものであったので、勝手に作ることはできなかった。社格の高い巨大な神社があれば、現代以上に相当な集客が見込めるため、全国各地で多くの神社創建運動が繰り広げられていた。しかしながら、その許可を得ることは簡単なことではなかった。その神社が、万世一系の天皇がしらしめす神国日本を正当化するのに如何に役に立つのか、という点から念入りな審査が行われた。中でも天皇を祀る神社は帝国日本の核心部にあたり、造営へのハードルは相当に高く、実現するためには非常な運動が必要であった。近江神宮の造営からは、そうした運動の実際を見ることができる。


明治30(1897)年近江大津宮跡と伝えられる地に志賀宮碑が建てられた。その後、神社創建が何度も計画され、明治41(1908)年、大津市政施行10周年記念で、天智天皇を祀る大津宮創建の請願書を内務省に提出、大津宮天智天皇考という冊子を作製した。この後、滋賀県選出議員が帝国議会で何度も神社創建の請願を提出し、採択もされたのだが、創建には至らなかった。大正8(1919)年には県知事より内務省神社局宛てに天智天皇・弘文天皇を祀る神社の内議書をだしたが、やはり創建には至らなかった。
 

ここで、なぜ近江に天智天皇を祀ることとしたか簡単にふれておく。天智天皇が即位した近江大津宮があったからである。では、なぜ今まで都があった畿内の地を離れたかといえば、緊迫の度を増す、古代東アジアの国際情勢を受けてのことであった。唐・新羅連合軍による侵攻で百済は滅亡したが、旧臣らは百済復興運動を起こし、倭国に滞在中であった百済王子豊璋を迎えた。倭国は百済援助のために朝鮮半島に出兵し、白村江の戦いで唐水軍に大敗北を喫した。百済復興はならず、新羅が半島統一を成し遂げた。敗北を受け、中大兄皇子らは九州を中心にして水城の築城、防人の配備などを行い、侵攻に備えた。そして、琵琶湖岸の近江大津宮に遷都し、天智天皇として即位したのであった。

昭和7(1932)年頃、滋賀県神社課長の石川金蔵は、「陳情によって政府に建立させるのではなく、民衆の力が盛り上がり、御正徳を偲ぶ、下からの運動でなければならない」として、県の神社創建運動計画を考案し、知事に進言した。知事はこれを聞き入れ、県会では調査費を可決した。昭和8(1923)年になり、ついに内務省との内交渉が始まった。昭和10(1935)年4月宮地直一が現地に由緒調査に訪れ、5月には角南隆も調査にやって来た。9月には内務省の神社調査会で近江神宮創建が付議された。この間、県は各種パンフレットを刊行し、講演会を開催するなどして世論を喚起し、県出身有力者からの賛助も取り付けた。昭和10(1935)年内務省の了解を得て、正式に神社創立具申書を提出した。翌年3月、近江神宮奉賛会設立準備委員会を組織し、8月には社殿設計原図が完成している。昭和12(1937)年7月16日に創建の内定が出され、8月6日に神社局長の通知が出された。翌9月には神社局長との電話で紀元二千六百年に合わせた鎮座を目指すことが決まった。10月に近江神宮奉賛会が結成され、奉賛会主事には石川が就任した。同時に、紀元二百六百年記念事業として大津宮跡発掘調査を決定し、翌年から実施することとなった。

関東神宮 近江神宮 2 中外日報 S13・8・12


 昭和13(1938)年5月1日、正式に創建が発表され、奉賛会長に近衛文麿が就任した。6月10日に地鎮祭を行い、工事が始まった。この年は生徒・青年団など2万3千人余りが地均しなどの勤労動員に奉仕した。上の記事にあるように西本願寺も勤労動員に応じており、まさしく神の為には仏すらも動員されたのが、帝国日本であった。昭和14(1939)年4月、奉賛会会長に高松宮が就任。5月10日に本殿・拝殿などの主要建物の上棟祭を行い、翌年11月7日に鎮座祭を行った。昭和20(1945)年大化の改新千三百年祭があり、高松宮・近衛文麿など約1300人が出席している。

近江神宮 朝日北西鮮 2 s20・1・27


以下は、当時の社伝となるが、紀元二千六百年、世界新秩序、八紘に輝き渡る御威日、など当時の国策がふんだんに使われ、時代を反映したものになっている。

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昭和20(1945)年12月15日GHQが神道指令を出す直前、勅祭社に指定。昭和21(1946)年11月9日、昭和天皇は、白村江の戦で敗れた後、大化の改新を成し遂げた天智天皇に倣うため、稲田周一侍従を近江神宮に派遣し、参拝させた。


神宮造営委員中邑牛尾次郎はかるた愛好家で、鎮座後の行事にかるた大会を推し、他の委員の賛意をえていた。戦時中につき大会は行われなかったが、昭和26(1951)年、初めての大会を開催した。境内の中庭に、赤い逆三角形の置物がおかれているが、これは精密日時計である。日本書紀によると、天智天皇は日本史上初めての時計である漏刻(水時計)を作らせた天皇であるので、それに因んで設置された。境内には時計博物館があり、神宮は近江時計眼鏡宝飾専門学校の経営も行っている。青春かるた漫画『ちはやふる』の大ヒットにより、近江神宮は、かるたの決戦地であると世に広く知られることになった。 



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