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満洲で御柱祭(満洲諏訪神社)

昭和11(1936)年の地方長官会議で、長野県知事は 昭和天皇に満洲に信濃村建設を奏上、第5次移民団を東安省虎林線沿線に第4次移民団と並んで入植させることを決定した。黒台信濃移民団は初めて1県単位で構成された移民団だった。ソ連・満洲の国境地帯である虎林線の黒台・連珠山駅間に200戸が入植し、団本部は両駅の中間あたりに置かれた。同年、先遣隊が入植した。

本隊の出発前の時点で、入植先に満洲諏訪神社を創建することは決定事項であった。造営費用は長野の諏訪神社氏子会が寄進し、さらには、将来満洲各地に信濃村を建設する場合には、この神社を満洲各地の信濃村の総鎮守とする、という壮大な構想まであった。翌年2月27日、長野公会堂で諏訪神社の分霊を授ける奉戴祭と壮行会を行った。会の終了後、御神体を先頭に捧げもち、全員で善行寺に参拝した後、本隊は長野駅から汽車に乗り込んだ。同時に、全長野県下の神社で壮行安全祈願が行われた。まさしく、長野県が総動員して、神を満洲の大地に送りだしたのである。

満洲開拓 満洲諏訪

3月5日黒台に到着、4月1日に入植祭を行った。因みに、黒台到着時には、御神体を持った神職が一番先に下車している。同年8月11日、本部から北に1㎞ほどいった場所にある丘陵を満洲諏訪神社の社地に決め、地鎮祭を行った。当初は「匪賊」がでるなど、治安の不安からコンクリート造の地下室に祭神を安置する予定であったが、思ったよりも治安が良いことから、地下室の上に社殿を置くこととした。写真の右下に見えるのが地下室の入口である。

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10月吉日に竣工、夜に行われた鎮座祭では、全団員が闇の中に松明を掲げて並び立ち、神を神社に迎えたのである。社殿は、木曽の御料林から払い下げを受けた檜を内地で木組みし、満洲に送って建てたものであった。御神体には諏訪神社に由来をもつ勾玉と石器、薙鎌、鏡があてられた。信濃開拓団は東西15キロほどの広がりがあり、西部に入植した地区が満洲諏訪神社は遠くて淋しいということで、独自に黒台富士の麓に南信神社を創建した。

満洲諏訪神社は、諏訪神社の分社であるので、当然御柱祭を行った。本宮に準じて、御柱定め・伐採・山出し・里曳き・御柱立てなど行い、祭礼当日には各区の屋台が、うどん・そば・餅などを無料でふるまった。東安(現・密山)の関東軍司令官なども来賓として招待されている。御柱祭は東満洲随一の神事になり、祭に来る人のために臨時列車が神社に近い原野に停車するほどだったという。

58 満洲諏訪神社「惨!ムーリンの大湿原」

 康徳6(昭和14・1939)年満蒙開拓基本国策要項により信濃開拓団となり、その頃より内地からの家族召致や経営の個人化が進められていった。開拓団の東に位置する東安には関東軍第三方面軍司令部があり、団は軍に納品する野菜などで大いに儲かっていた。団員の中には「関東軍様々ですよ、いやその相手のソ連様ですよ」などという者もいたぐらいである。康徳10(昭和18・1943)年頃より開拓団でも徴兵が始まったが、軍都東安は活況を呈したのだった。康徳12(昭和20・1945)年には信濃村で、全満洲開拓団の入植十周年を祝う開拓十周年祭の開催が決まっており、関東軍参謀長や国務院総理などの満洲国高官も出席する予定にしていた。満蒙開拓といえば、その悲惨さがもっとも注目される、その体験の強烈な理不尽から当然のことではあるが、大日本帝国の崩壊以前には、軍と一体化して利潤をあげる経済活動があった。


 1945年8月8日ソ満国境地帯に位置する信濃村にもソ連軍の空襲があった。10日より避難を始め、ソ連軍の攻撃や現地人の襲撃を受けながら牡丹江方面に進み、ソ連軍によって鶏寧で収容所に入れられた。集団自決も多数起きた。2ヶ月程収容された後、牡丹江経由で哈爾濱に行き、そこから新京、奉天へと南下していった。開拓団1,500名のうち、帰還できた者は439名であった。


満洲諏訪神社跡 001


満洲諏訪神社跡 008


神社があった小山は土砂採掘され、半分ほどなくなり、社殿があった土地は存在しない。かつての神社参道に沿って松が生えており、これは日本時代に植えたものを残しているのだ、と案内してもらった村の幹部から聞いた。中国では、松は縁起の良い植物とされていることも保存に関係していると思われる。

*地図、図版出典は全て『惨!ムーリンの大湿原 : 第5次黒台信濃村開拓団の記録』第5次黒台信濃村開拓団同志会, 1972

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