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扶餘神宮造営の顛末

 日中戦争が始まり、植民地朝鮮においても「内鮮一体」のスローガンが叫ばれるようになった時代。朝鮮半島に官幣大社扶餘神宮の創建が決定した。大日本帝国では神道は国教的な位置を占めており、最高位の神社である官幣大社の創建というのは、かなり大きな出来事であった。昭和14(1939)年から建造を始めたが、資材不足で完成しなかった、というあたりが通説になっているが、実際にどこまで造営が進んだのかは不明である。今回、写真集の各神社の解説を書くため、大阪朝日、大阪毎日の外地版を丁寧に見ていったところ、敷地の造成は終わり、本殿工事などに着工していたことがわかった。本ではかなり割愛したので、記事を引きながら、経緯をたどってみる。

扶余神宮 大阪毎日朝鮮南鮮 s14・6・16

大阪毎日新聞朝鮮版南鮮 昭和14年6月16日

 大阪毎日新聞朝鮮版(昭和14(1939)年4月8日)に扶餘神宮創建の経緯を語る記事がある。

「神都建設の動機は昨年五月南総督が扶餘巡視の際、迎月台跡が私有地であることを聞いた総督は古蹟保存会をしてこれを買収せしめた。神都扶餘の誕生はすでにこの時芽生えたもので六月宮内省星野掌典は秘密裏に現地調査に赴き、扶餘が尊い神域として神祇を奉斎するにふさわしい土地であることを確かめて帰った。」

同年12月8日、内務省で扶餘神宮創立審査委員会が開かれ、官幣大社での創立を認可。この審査委員会でのやり取りが『海外神社史』(小笠原省三編)に収録されおり、以下に発言の一部をあげる。

阪本考証官「総督府は初め特に斉明天皇のみを考えていた。その後再考の結果四柱とした」(筆者追記:四柱とは、応神天皇、斉明天皇、天智天皇、神功皇后)

児玉神社局長「天皇でなかったならば、官幣中社にしたら治まりがよい。」

阪本考証官「明治天皇の日韓合邦の由来する所は遠くここにあると云ふ意味よりして・・・・」

八束清貫「三韓にみな神社を建てますか?」

宮地直一「高句麗は別として、新羅には要りましょうね」

児玉神社局長「将来は国弊社の摂社に朝鮮人の功績ある人を祭ることになるでしょう」

以上の発言のように、高位の神社の創建は非常に政治的な行為であり、皇国史観に基づいた国史の解釈や、大日本帝国の骨格である天皇制及び神祇制度の中にその神社をどう位置付けるか、などが議論されている。児玉局長の「国弊社の摂社」という発言には、朝鮮人を祀るためには、独立した神社を建てるに及ばず、摂社に祀る程度でよい、と言っているわけで、当時の邦人の朝鮮人への差別意識が如実に現れた発言となっている。

宮内省星野掌典の現地視察や、内務省神社局での会議など、さまざまな役所との折衝を経て許可になるものであり、総督府の一存で建造できるというようなものではなかった。

 そもそも、なぜ扶餘に巨大神社が創建されることになったのかといえば、古代、扶餘には倭国と同盟関係にあった百済の都があったため、朝鮮半島と日本が古代から「内鮮一体」であったと強調するために選ばれたのであった。祭神も日本の伝説や歴史から朝鮮とのつながりが深い人物(神功皇后は伝説の人であるが)が選ばれた。新羅を征討したと云われる神功皇后、新羅征討時神功皇后の腹の中にいて「生まれながらに三韓を授かり給うた」という応神天皇、百済救援の兵を率いて筑紫に赴き客死した斉明天皇、白村江の戦の敗北で発生した百済からの難民(渡来人)を多く受け入れた天智天皇の4柱であった。神宮だけでなく、市街地造成も同時に行い、神宮と一体化した神都扶餘を作る計画が作られた。神宮予定地は百済の王宮があった扶蘇山一帯の30万坪の土地とされた。年間30万人程の参拝者を見込んでいた。

扶余神宮 (2)

 昭和14(1939)年2月に土地を買収し、3月8日に計画が公式発表、6月15日に告示した。神宮奉斎会総裁には南次郎朝鮮総督が就任し、国費が150万円、全朝鮮より100万円、地元忠清南道が50万円の負担し、各団体・個人には一定額の寄付が割り当てられた。地区ごとに目標額が設定されているので、半ば強制的に徴収されたのかもしれない。昭和18年10月中の落成を目指すとされ、神宮造営事務局顧問には角南隆が就いた。

 昭和15(1940)年7月30日に地鎮祭が行われ、これ以降、朝鮮全域から地均しのための勤労動員が行われた。ここから暫くの間、朝鮮の新聞や雑誌などには、扶餘神宮の勤労奉仕についての記事が頻繁に掲載されるようになった。大体の記事は参加者の紹介に留まるが、その時点での工事の進捗が記載されているものもある。下の記事は、勤労奉仕の一日の写真ルポである。

扶餘神宮 朝日西鮮 s15.5.16

大阪朝日新聞西鮮版 昭和15年5月16日

朝鮮の総動員体制を担う国民総力朝鮮連盟が音頭をとり、京城紡績社長や東一銀行頭取、元知事、官公庁職員、議員、学生、作家、俳優、妓生、キリスト教長老派牧師など朝鮮のあらゆる階層の人々が所属組織や愛国班を通じて勤労奉仕に動員され、その数は昭和18年度までに延べ12万人を数えるほどであった。昭和16(1941)年12月19日の大阪朝日新聞中鮮版には、妓生や耶蘇教聖職者が勤労奉仕する様子が綴られている。また、この記事では、作業前に神祠に参拝(この祠は上の記事の写真4の祠と同一のものと思われる)し、「一、われらは建国の大精神を発揚し皇恩の篤きに応え奉らんことを期す、二、われらは内鮮一体の趣旨を具現し聖域改正に奉仕の誠を喝さんことを期す、三、われらは勤労を尊び心身を鍛錬し協心 力国家に奉公せんことを期す」と全員で斉唱し、続いて、「社会的地位、身分、学歴、職業を脱ぎ捨て不平をいわず、批判せず、指導者の指示に絶対服従して黙々と事に当たる」という「奉仕員の約束」を「胸にしっかりたたき込んで」いた、とも書かれており、扶餘神宮造営を通して皇民教育を行っていたことがうかがえる。また、はるばる満洲や中華民国から勤労奉仕に来る者もいた。扶餘神宮造営は、皇紀二千六百年を機に大規模な拡大工事がなされた橿原神宮の朝鮮版とも呼べる事業であった。

 論山・扶餘、江景・扶餘、烏致院・扶餘間の参宮道路、大田・扶餘間には参宮鉄道が計画され、参拝客をあてこんだホテル建設や遊園地建設なども伝えられている。同時期に神都計画も進み、その過程で百済の遺跡発掘も盛んに行われた。造営に使う阿里山の台湾檜はまず江景に集積され、そこで一次加工をした上、扶餘に運ばれた。昭和18(1943)年10月で敷地工事が完了し、12月5日に造営木造工事式が行われた。昭和19(1944)11月10日に立柱上棟祭が行われ、社殿造営を開始した。昭和20(1945)年2月21日に会寧焼の屋根瓦を13万枚調達するという大阪朝日新聞北西鮮版記事がある。大阪朝日新聞中鮮版の 昭和18年10月16日の記事には、完成予定年度が昭和22年とある一方、米軍への引き渡し書類では完成度100%となっていたという話もあり、どこまで造営が進んだのかは不明である。私は、ほとんど完成の域まで造営が進んでいたのでは、と考えている。

扶余神宮 朝日南鮮 s19・11・11

大阪朝日新聞南鮮版 昭和19年11月11日

戦後、神宮造営に使われ、また使う予定であった膨大な資材がどこに消えたのかは不明である。神宮予定地は扶蘇山一帯で、社殿予定地は三忠祠になっている。三忠祠の基礎部材には神宮用に調達されたものも使っている。扶蘇山を中心に、ロータリーや複数の直線道路が作られているのは、扶餘神都計画の名残である。2015年に、扶蘇山一帯は百済の歴史遺産として世界文化遺産に登録された。

2010年に扶餘神宮跡地の撮影に行った際、観光案内所で、神社遺構が残っているかどうか、ということについて聞いてみたが、神社があったことすら全く知らないという返答であった。

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