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できるようで、できなかった長政神社と日タイ関係
アユッタヤー朝時代、タイに渡り、現地で立身出世を遂げ、最後は王家の後継争いの中で死亡した山田長政という人物がいた。戦前、彼は南進の先駆者として教科書に載るほどの英雄であった。静岡県出身とされているが、定かではない。
近代になり、東南アジア諸国のほとんどは欧米諸国によって植民地にされたが、暹羅は唯一独立をたもっていた。日本は明治20(1888)年9月26日に日暹修好通商 を結んでいる。1932年王政に反し立憲君主制を導入する立憲革命が起こった。その後、国際連盟での日本軍の満洲撤退勧告案の議決で棄権したり、暹羅初の内閣へのクーデターの際に日本に支援を要請したりと、日本に親和的な態度をとるようになった。
アユタヤ郊外の川沿いに日本人町の遺跡があり1934年9月に海洋少年団が「弔英霊とある小石碑」を建てた。それ以降も、日本人会は日本人町跡地に記念碑の建造をはかり、1935年の海軍練習艦隊の来暹に合わせて建立できるよう暹羅側役所と交渉を始めた。アユタヤ出身の内務大臣ルアン・プラジットが便宜をはかり、廉価で日本人町跡地の800坪を買収することができた。その内の100坪を切り開き、暹羅側で白木の祠・赤い鳥居・桟橋を作った。これが長政神社といわれるようになった祠である。「異郷に倒れた邦人勇士の霊をも合祀」する計画もあったという。練習艦隊に乗っていた伏見宮博英王をはじめ、司令官、日本人会会長、アユタヤ州知事、などを迎え、大本教海外宣伝使筧清澄が鎮座祭を行った。
この後正式な長政神社の建造案がでたが、雨期の氾濫対策に巨額の費用が見込まれるので、神社に代えて、日本暹羅修好50周年記念事業として高さ16mの山田長政記念碑を建造することにした。長政神社隣接地を買収し9月26日に神仏両式で地鎮祭を行った。しかし、この事業も頓挫した。
長政神社は、1938年の練習艦隊来航に際して、銅瓦葺で台湾檜を使った祠になった。いつからかは不明だが、鳥居には象(暹羅)と日の丸(日本)が左右に半々刻まれた盾が掲げられるようになっている。
1938年ピブーンが首相になり、国名を暹羅からタイに変更した。1940年6月日仏英と不可侵条約を締結したが、11月に入ると仏印と国境紛争を起こし、敗北した。しかしながら、日本が仲裁に入り、タイはかつてフランスに奪われた領土を回復することができた。太平洋戦争開戦後、日本タイ同盟条約を結び、日本軍はタイ国内に駐屯した。翌年タイは連合国に宣戦布告した。1942年7月15日、同盟条約の答礼使としてタイに派遣された広田弘毅が長政神社に参拝している。上の写真はその際撮ったものである。同年、南方総軍勅任嘱託笹原助は、邦人会と協議し、小さな祠である長政神社を本格的な神社に改築する計画を立て、大使館に許可を求めた。また、静岡発行の雑誌『黒船』10月号には、「わが国南進の先覚者山田長政を祭神とする長政神社を(略)静岡市提唱の下に近く全国的に建設運動を起すことになったが、市では予て三井財閥の泰国研究機関タイ室の協力を求めて神社建立の準備を進めていたが、(略)まづ地元に顕彰会を組織した上、中央や地方へ呼びかけ基金を募集することになった。予想されている建設地は(略)アユチヤか、長政が王となったリゴール州のいづれか」という記事が出ている。また昭和16(1941)年の新世界朝日新聞の記事にも改建の話が載っており、大規模な神社創建計画があったと思われる。しかし、これも新長政神社建造には結びつかなかった。
1943年6月には、山田長政記念碑建造が再び報じられたが、これも実現しなかった。戦況の悪化につれ、タイは日本と距離をおくようになり、同年11月ピブーン首相は大東亜会議を欠席。日本敗戦後は、宣戦布告の無効を宣言し、枢軸国の一員として処罰される事態からはまぬがれた。結局、タイに大規模な神社も、記念碑も建造されることはなかった。タイ政府は帝国日本と連合国を両睨みしながら、便宜を計ったり、協力を止めたり、といったことを繰り返しているうちに大日本帝国が敗北し、白紙に戻ったというあたりが真相ではないだろうか?
1967年の写真と思われる
現在の祠の内部
戦後、長政神社はそのまま放置されていたが、1960年頃「あまりに貧弱」なので日本人会で新築する話もでたが、これも立ち消えとなった。現在日本人町跡地には、日本の援助によって建てられたアユタヤ歴史研究センターがある。敷地内に日本人会によって建てられた祠があり、祠の中に安置してある木材は長政神社の鳥居に使われていたものであると聞いた。鳥居と石灯籠は1984年まで残っていたことを新聞記事から確認したが、実際いつまで残っていたのかは判らなかった。
長政神社は、神社とはいうものの、祠程度のもので、大きな鳥居と灯籠がアユタヤ旧日本人町に建っていた”だけ”のものであったと思う。それを神社にすべく何度か運動があったが、ことごとく挫折。タイに神社を創建することは夢に終わったのであろう。
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