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台南神社と朝興宮


明治28(1895)年10月28日、台湾征討戦の最中に近衛師団長北白川宮能久親王が台南で病死した。従軍中の皇族が外地で死去するという、大日本帝国にとって初めて尽くしの事件であった。この後、北白川宮は台湾各地に祀られ、台湾の守護神ともいえる存在になっていくことになる。

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 北白川宮の死亡地ということで、台湾神社の建設候補地にもなったが、台湾神社は植民地台湾の首府台北に創建されることになった。彼が死亡時に宿泊していた家は、周囲に注連縄を巡らして北白川宮殿下台南御遺跡所として保存された。明治32(1900)年台南県知事や混成第三旅団長らが保存計画をたて、遺跡保存工事費を臺灣総督府に請求すると、3万円の下付が認められた。明治34(1902)年1月に認可を受け、敷地を買収した上、外観を損ねないよう建物を補修し、拝殿や手水舎なども設けた。忠魂碑もあったようである。御遺跡所のすぐ後ろには、征台戦時に近衛師団司令部として使われ、引き続き旅団司令部として使っていた家もあったが、これも修繕した上で博物館として保存することにした。御遺跡所となる敷地内には朝興宮という媽祖廟があったのだが立ち退きとなり、東隣の区画に移転した。翌年から、御遺跡所には台湾神社の神官が常駐し、神社と同様の祭祀をおこうこととなった。

大正7(1918)年10月台南公会は御遺跡所を神社とするように陳情したのだが、神社への転換は認められなかった。翌年、再び願い書を出し、神社創建に使う寄付金の募集も始めた。こうした現地の動きにおされ、ついに総督府は神社創建を認め、5,898坪の土地を下付した。大正12(1923)年4月20日皇太子(後の昭和天皇)が訪台した際には、造営中の台南神社を訪れ御遺跡所を見学、榕樹を植樹している。同年10月28日に台南神社鎮座祭が行われた。台南神社の背後には、植民地台湾にとっての聖地になっていた御遺跡所が変わらずに鎮座していた。台南の邦人は、台南神社創建時から官幣社への列格を希望していたが、内務省は一祭神一官幣社主義を基本としており、やむを得ない場合であっても本社の別宮とする、という省の内規を盾に拒否を続けた。交渉を重ね、台湾総督が総理大臣に稟議書を提出することにより、大正14(1925)年に官幣中社に列格することが認められた。こうして外地にある唯一の官幣中社が誕生したのであった。格の高い神社の創建というのは、大変な政治力を要するものであった。

台南神社 外苑 朝日台湾 s9.2.2


鎮座10周年を数える昭和8(1933)年、神社の東側街区に外苑を新設することを決め、台湾総督を名誉顧問に迎え台南神社奉賛会を結成した。余談であるが、同年、台湾訪問中の梅原龍三郎は、外苑に隣接することになった台南孔子廟と文昌閣を主題に、台湾風景を描いている。ひょっとしたら、絵を描く前に台南神社に参拝するなどしたのかもしれない。移転していた朝興宮は拡大する神社境内の中に位置することになり、またしても立ち退きとなり、少し離れた場所にある銀同祖廟と統合することになった。昭和10(1925)年9月13日に地鎮祭を行い、翌年7月に台南神社外苑が完成した。10月、外苑に武徳殿が移転した。


 昭和20(1945)年、銀同祖廟・朝興宮は米軍の空襲で焼失してしまった。光復後、台南神社建物はそのまま台南市忠烈祠として使われた。その後忠烈祠は台南市内の別の場所に移転し、跡地は体育館、駐車場を経て、日本人建築家坂茂が設計した台南市美術館が民国108(2019)年1月に開館した。美術館の敷地には、かつて神社があったことを記す鳥居を模した案内板がたてられている。外苑地域は忠義国小学校や運動場になっており、神社社務所と武徳殿が保存されている。朝興宮は戦後になって神社跡地の近所の様仔林地区に建て直され、民国64(1975)年には3階建ての建物に建替えられ、今でも現役の廟として祭祀が行われている。


台南神社はほぼ消え去ったが、同じ場所にあった朝興宮は空襲被害から復活し、地元の人々から信仰を得ている。同じ土地に縁があった二つの宗教施設がたどった歩みは、日本の植民地統治とはどういうものであったのかを雄弁に語っているように思える。


最後に台湾百年歴史地図から、台南神社の変遷を見てみよう。

1907年 まだ台湾神社と記載されている。

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1933年 東側の街区が外苑となった

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1975年 神社跡地に体育館が建ち、外苑には小学校がある

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2010年 神社跡地は公共駐車場と公園になっている。

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