済南神社と氏子総代広瀬森次
済南は済水の南に位置する都ということで済南という名がついた。済水はいまはない。中華の歴史の中で幾度も流れを変えた黄河に呑み込まれ、黄河そのものとなった。その済南は明の時代に山東省の省都になり、文化・経済の中心となった。中国が近代化してゆく中、津浦線(天津・上海間)、膠済線(青島・済南間)という幹線鉄道が交わる交通の要衝となり、大都市になっていった。また、青島・済南を含む山東省は日本のアヘン密売が非常に盛んな土地であった。
昭和3(1928)年、国民党軍が再開した北伐を牽制するために、居留民保護の名目で青島・済南に出兵。5月3日にアヘン密売をしていた居留民が殺害された事件をきっかけに日本軍と国民党軍が衝突。日本軍の砲撃で3千人以上の死傷者を出した。日本軍は同月11日に済南を占領、さらに増派を行い占領を継続、翌年5月にやっと撤兵を開始した。済南事件は、中国で排日運動が激化するきっかけになった。
少し脱線になるが、当時の済南の混沌とした情勢や、居留民と軍隊の関係などが、黒島傳治『武装せる市街』で詳細に書かれており、当時の大陸の様相を知るのに最適な小説となっている。
「巷ちまたの騒々しさと、蒋介石の北伐遂行の噂は、彼女が内地へ着いた頃から、日々、頻ぱんになって来た。
在留邦人達の北伐に対する関心は、幾年かを費して、拵え上げた財産や、飾りつけた家や、あさり集めた珍らしい支那器具や、生命を、五・三十事件当時の南京、漢口の在留者達のように、無惨に、血まみれに、乱暴な南兵のため踏みにじられやしないか、という一事にかかっていた。」
「「あゝ、早く、あの、カーキ色の軍服を着た兵隊さんが来て呉れるといゝんだがなア!」とひとしくそれを希ねがった。彼等は単純に、軍隊が何のために、又、誰のために、やって来るかは考えなかった。軍隊がやって来さえすれば、自分達を窮境から救い出して呉れると思っていた。
下旬になった。
軍隊は到着しだした。」
昭和12(1937)年7月7日に日中戦争が勃発、済南の在留邦人約二千人は総引揚げを命じられた。引揚者の一人に、神戸に本社をおく貿易商東和公司済南出張所主任の広瀬森次がいた。日本軍は順調に戦線を拡大していき、12月26日に済南を占領、昭和13(1938)年1月1日、済南特務機関は傀儡自治組織である済南治安維持会を立ち上げた。占領後、事態が安定的になると、同年1月頃より邦人が帰還し始め、年末になる頃には引揚げ前の3倍近い居留民数に激増していた。広瀬森次も野心を胸に大陸に戻り、皮革蒐集・軽工業材料を扱う徳盛洋行を買い取り、鞣工場や原皮工場まで経営するようになっていた。革製品は軍の装備品に広く使われており、彼の行動は軍需をあてこんだものであったろう。とすれば、占領後早々に帰還したのも当然である。軍に食い込めば濡れ手で粟の商売ができるが、そのためには、なるべく早く大陸に戻り、御用商人の座を確かにせねばならなかった。
昭和13(1938)年秋頃には神社造営の声がでるようになった。翌(1939)年の10月、軍官民で済南神社御造営奉賛会を組織、その下に居留民団を中心にした済南神社建設委員会を設置した。済南旧市街地南郊に建設予定であった新市街地の南方に位置する四里山の麓25万坪を神社地と決定、これは海外神社活動家である小笠原省三の助言も受けたものであった。この年に地鎮祭を行い、地均しに着手したと思われる。地均しといっても、ブルドーザーやショベルカーですい♪すいっ♬と土地を切り拓くようなことはできなかった時代で、人が土を掘り、岩を砕き、崩した土を運ぶのも人力の時代であったので、相当な人数が投入されたと思われる。在留邦人の勤労奉仕だけでなく、多少の賃金が払われたかもしれないが、現地人も地均し作業に動員されたのではないだろうか。
昭和15(1940)年、紀元二千六百年を期し造営日7万円の寄付を募り、工事は2期に分けて実施することとした。第1期は、本殿・社務所・第二鳥居・手水舎の造営で、神社前には22万坪の大広場が設計されていた。同年4月末、神社予定地で、千人の済南居留民団勤労奉仕隊が5千本の桜を植樹したのであるが、その時には山東省陸軍特務機関長が挨拶を行っている。同年11月、神社設立認可を提出、翌年4月に認可を得た。しかしながら、神社に使う内地檜材の入手が困難になったことから、工事着手は遅れ、昭和16(1941)年11月9日に上棟祭を実施した。昭和17(1942)年7月17日夜鎮座祭を迎えた。18日奉幣祭。19日に奉賽祭を行った。祭神の天照大神は、居留民団長が上京し受け取ったものであった。中国には神社法制が施行されなかったが、官国幣社の小社と同様の扱いを受ける格の高い神社であった。各地に徳盛洋行の支店をだし、蓄音機店の経営などにも手を伸ばし済南有数の実業家になっていた広瀬森次は済南神社氏子総代になっており、創建時に巨大な石灯籠を奉納している。
第2期工事では幣殿・拝殿・社務所の造営が計画され、昭和17(1942)年8月に境内工事に従事する兵隊の写真が掲載されたが、最終的にどこまで造営が進んだのかは不明である。何故か、昭和20年8月10日の中外日報には、済南神社の近況記事が出ている。ページ数も減っているこの頃の紙面で海外神社の消息が載ることは非常に稀になっているので、埋め草記事とはいえ、なぜこれが載ることになったのか、謎の残る記事である。
国民党軍大11線区副長官が1945年9月16日済南に到着。居留民は、引揚げのために青島に移動したと思われる。全ての財産を失ったであろう広瀬森次はこの後どう生きたであろうか?無事に祖国に引き揚げることができたのであろうか?
1948年9月24日、共産党が済南に入城。1949年、神社跡地は烈士陵園と烈士公墓となった。神社の社務所と思われる建物が、革命烈士陵園の建設事務所に転用されている。四里山山頂には、毛沢東の筆による碑銘がある巨大な革命烈士記念塔が建造された。文化大革命時に、神社建物は取り壊され、四里山は英雄山と改名された。
現在、済南神社跡は英雄山風景区となっている。済南戦役記念館は、神社本殿があった場所に建っている。戦役記念館を一段下がった場所にある広場には、鳥居・石灯籠・石碑などが乱雑に積んである。残された巨大な石材からも済南神社の巨大さを想像することができる。
そうした石の一つに広瀬森次と刻んだ石灯籠がある。その写真をこの本に載せた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?