論文と実演の永久運動|稲見昌彦×奥秀太郎対談シリーズ 第1話
イントロダクション
稲見 まず最初に私と奥監督の関係性ですが、そもそもなぜご一緒することになったのかというと、共通の知人として明治大学の福地健太郎先生がいらっしゃって。福地先生は、学生のころからプロジェクションマッピング的なものやEffecTVなどを作っていらして、研究のアウトプットだけではなくて、舞台表現に関わるようなアウトプットにも興味を持ってらっしゃるのかなと、横から眺めていたんですね。
そんな時に、福地先生が技術的にも協力された(奥監督演出の)3D能にお招きいただいて。私自身は、そもそも能自体を見たことがあるかないかも覚えてないぐらい馴染みがなかったんです。能って非常にミニマルと申しましょうか、既にある前提知識に基づいて、ARのように頭の中で映像を重ねながら、記憶と知識で補完しながら舞台を見ていくものなのかなと。
そういう意味で、見るためにはリテラシーが相当要るなと思って、なかなか(観劇に)踏み切れなかったところが、その部分を(映像技術で)補助線的にきちんと可視化していただいていて。「ああ、都のこういうところを、牛車でこうやって移動していたのね」と分かるようになって、これはなかなか面白い演出だなってお話ししたのが最初でしたね。
奥 はい。
稲見 その後に、今もご一緒している『VR能 攻殻機動隊』で協力するに至って。あいにくのコロナ禍の中でも、だいぶ好評ですけれども。
これも確か奥監督がラボにいらっしゃる機会があって、そのときにVRと舞台をうまく(融合)できないかというお話があって。まさにそれが、ゴーストグラムと命名された舞台演出の方法として、眼鏡なしのVR、私はARにも近いと思いますし、消失もあるのである意味XRとも言えそうな形で、実現したわけです。実際の能舞台で、私がいろいろとお世話になっている攻殻機動隊の見事な舞台ができて。
それで、私もびっくりしたんですけれども、毎回(演出を)アップデートしてるんですよね。
奥 そうですね。今回の4月30日の公演でも、かなりアップデートしたんです。コロナ禍の中で最初に作ったときの、ぎりぎり何とか形にしたところから、だんだん「ここもこうした方がいいな」とか、全スタッフが色々思ってきますし。また、稲見研究室や自在化の拠点を回らせていただくと、やっぱり色んなアイデア、色んな発想がどんどん増えていって。「それだったら、あのシーンはこうした方がよかったな」とか、新たな発見があるので。
かなりむちゃ振りなところもあるんですけれども、福地先生や、周りにいる優秀なスタッフのおかげもあって、「やっぱり、ここ、こうできないかな」と言うと、「ああ、それだったらこうしよう」となる。やっぱり舞台の本番が一回あると、そこに向けてみんな集中力が高まってクリエイティブなことが起こっていく。そういう意味では、僕が直していくだけじゃなくて、どんどん自動的に進化している気がしております。
映画と演劇、論文と実演
稲見 私も、舞台とまでは言わないんですけれども、本番とかデモとか、誰かの前で何かを展示したりとかが、ある意味ライフワークというか、エネルギー源となって、研究の永久機関を回しているところがあるんです。
ERATOのプロジェクトでもそうですけれども、まずはコンセプトやビジョンがあって、それを「もの」としてどんどん形にしていく。そのものを通して、物語を世の中に広めていくわけですね。どうしても論文というアウトプットだけでは物足りなくて、オーディエンスの手触りと申しましょうか、実際に自分が作った技術を人々が体験して、最初はびっくりして、その後、笑顔になるさまというのが私のエネルギー源なんですよね。
特に海外で展示すると、体験した人のリアクションが日本人よりも大きかったりする。さらに、ものすごい勢いで「こうした方がいいんじゃないか」みたいにおっしゃったりして。「よし、じゃあまた来年も頑張ろう」みたいな。
それがコロナでできなくなっちゃって、だいぶ私も落ち込んでいたんですが、今度はVR能という形で(オーディエンスの反応を体感できた)。私も客席に混じって見ていると、周りの方々のリアクションとか、終わった後の雑談とか、そういうものを聞いたりしながら、こういう形のフィードバックっていいなと、あらためて思っています。
実は私にとって論文って映画的なもので、デモンストレーションは舞台みたいなものだと思っていて。奥監督は映画も舞台もやられますが、両者の違いというか、チャンネルとしての切り分け方ってあったりしますか。もちろん映画でも、上映中に観客に混じっていれば感想が分かったり、ソーシャルメディアで見たりもできるんですけれども、それは論文もそうなんですよね。
奥 そうですね。私の場合、ここ最近は映画よりも舞台の方が多くなってはいますが、どちらももちろん大好きで、でもそれぞれ全然違う部分もあって。まず映画って、より多くの方に、それこそ世界中の人に見てもらうことができる。あとは、時代を超えていく可能性が非常に高いのも映画なんですよね。
舞台は舞台で、お客さん、オーディエンスの反応はダイレクトに来ますし、演者もそうですが、(演出側も)アフタートークみたいな形でステージからお客さんの様子を見ることができる。そこから、アドリブでもないんですけど、お客さんの力をもって生まれてくるものがある。
もちろん映画は、それをさらにまとめたり、考えたり、より多くの人に発信していくことができるわけです。やっぱり自分としては両輪、二つがうまくバランスよくあると、生きがいがあるというか、作品発表のバランスが取れる。どっちもなくてはならないものだと思っております。
多様な層に届けるために
稲見 ただ、表現の質としては、やはり違うところもあるのかなとも思っておりまして。例えば我々も論文の発表だけではなくて、プロジェクトが始まった後に『自在化身体論』という本を出したり、科学館でデモをしたり、国際会議で展示をしたり、大学でオープンキャンパスをやったりします。そうすると、論文とは全然違う刺さり方をしたり、全然違うところ、想定してないところに届いたりする。何かボトルレターに近い感じがするんです。
奥 役者や俳優に、舞台と映画どう違うんだって聞かれたときに、僕がよく言うこととしては、とにかく映画はカメラ、もしくはそれにどう記録されるかが全てになってしまう。カメラに映っていないところでどんなにいい演技をしても全く意味がないのが映画で。
逆に舞台に関して言うと、客席にいる全ての人に同じ自分の意図を伝える能力が必要になってくる。要するに、客席の一番奥の人が泣いていて、一番前の人が笑っているような状況になってはならない。もしかしたら、未来はそうなって逆に面白くなるかもしれないですけど。でも現状では、会場中の人に同じ意図を伝えるために、舞台的な発声をしたり、舞台的なちょっと大きい演技にした方がいいよ、と言ったりはしますね。
稲見 昔、ライブだと思ったらばフィルムだったという、ちょっと面白かったイベントがありまして。
TEDの東京版、TED×Tokyoで登壇したときに、こんな指導が入ったんです。学会などでは大抵、次の講演者は前の方の席に座ってどんどん切り替わっていくんですが、TEDの時には講演者は一番後ろの席に座ってほしいと。
さらに、観客には講演中は絶対席を立たないでと言っていて、なぜならTEDは実はフィルムカンパニーなんだと。だから、前の方にいた次の講演者が公演中に席を立って、つまらなそうに出ていくように見える絵は絶対撮りたくない。あなたたちも含めてフィルムに収めるから、オーディエンスとして演技をしっかりとやるように、みたいな感じだったんです。なかなか面白い観点だと思いました。
一方で、メディアアートとかインスタレーションの分野、特にインスタレーションにおいては、体験者も含めて初めて作品が成立するという言い方をするんですよね。作品だけがスタンドアローンであるのではなくて、それを体験する人がいて初めて成立する。
体験する人を見て自分も体験してみようという動きがないと、インスタレーションとしていいものにならないという話を聞いたことがあって。そういう意味で、舞台はインスタレーションにも非常に近いような気もします。
一方で、海外の映画館でやたらお客さんが笑いながら見てたりとか、それこそインド映画がはやったときにお客さんが歌いはじめるみたいな。あれはあれで、やっぱりライブ的な側面もあるのかなとも思ったり。この辺りに色々と面白い違いがあるのかもしれない。
目の前だからこその衝撃
稲見 もう一つの違いが、それこそ今回のゴーストグラムで(草薙)素子が消えたりするところを、映画として撮っても多分当たり前すぎて面白くないですよね。
奥 うんうん。
稲見 あれは肉眼で見られるから面白いというのがあると思いません? で、その肉眼のリアリティって何だろうと。それこそ映画と舞台の違いも入ってくると思いますけれども、目の前に役者さんがいる、もしくは目の前に物があって変化する、そしてそれはカメラ越しではないという。そのリアリティとか存在感について、奥監督のお考えとか体験とかあればお伺いしたいんですけど。
奥 そうですね。例えば、お能は亡くなった方、亡霊とか、幽霊とかを召還する話が基本的にすごく多いんですよね。また、いきなり人が現れたり、人が消えたりというのは、もともと舞台芸術が目指したり憧れたりしている部分だった。
そういう意味で、稲見先生の光学迷彩をお客さんに見ていただく、物語とかドラマの中で本当に人が消えたり現れたりを見せることができるようになったのは、舞台芸術にとっての革命だなと思っていて。まだまだ途中ではあるんですけれども。
実際にこれを見た方から「次にこんな舞台で使いたい」という話もあって、一つずつ育てていこうとしています。(自在化コレクションで)Kバレエと協力する話も、(芸術監督の)熊川哲也さんがこれを見て、一緒にやろうって話になったんです。
皆さんやっぱり、「これをやりたかった」と言うんです。いきなり人が現れる。いきなり妖精が、精霊が、亡霊が現れる。今までは、能みたいに全部そぎ落として平然と歩いてくるとか、ちょっと扇子で隠したら「もうこれはいないです」みたいな、みんなの共通認識で、何らかの抽象表現としてやっていた。それが、本当に現れたんだな、消えたんだなって、それを見たお客さんに感動してもらえるのは、すごく大きな一歩だなと思っていて。
稲見 話を戻しますと、映像で消えても、もはや驚かないのに、目の前で消えることのあの驚きは何だろうということですよね。私も光学迷彩を作ってもう24年とかなのに、それでもたまに光学迷彩で消えてる人を撮影してあげたりすると、今でもニヤッとしちゃうんです。ああ、何かちょっと面白いと。自分で作っといて、二十何年もたってるのに、やっぱり目の前だと。
手品もそうですよね。もちろんYouTubeで見る手品とか、テレビで見る手品はありますが、やっぱり目の前でのあの衝撃って全然違いますよね。
奥 それはそうですね。ただ、今のお話を聞いてちょっと思ったのは、映画の中で消えているものが、映像で見る手品まで、まだ行き着いていない気がするんですよね。
映像で手品を見ても、すごい、何か面白いことが起こったって思いやすい。ところが、ちょっと語弊があるかもしれないですが、例えば日本の戦隊もののヒーローがぽんと現れると「合成じゃん」と思っちゃうわけですよね。
僕もまさに次やろうと思っているプロジェクトの中で、そこにもう一つ手品的な何か、それが一体何だったら映画の中でも(現実の舞台と)同じ感動を得られるのか。そこにすごいヒントがある気がしていて、それを模索している最中ではありますね。
特殊効果という原点
稲見 いや、確かにその通りかもしれなくて、映像は映像で面白いんですよね。今、久しぶりに思い出したんですけれども、私、中学のころからずっと特殊効果の大ファンだったんですね。今はビジュアルエフェクトって言いますけど、昔はSFXとか言ってましたよね。
自分も神保町の三省堂と書泉でずっとSFX、スペシャルエフェクトの本を立ち読みしていて。小遣いを貯めて分厚い本買ってみたりとかしていて。クロマキーでさえ、手作りでしようと思ったらハードル高いですよね。
奥 はい、はい。特殊効果、僕も本当に憧れて、大好きで。実は当時は日本の特殊効果は、大平特殊効果というチームがほぼやってらっしゃっていて。
僕が一番最初に舞台をやったときにも特効が使いたくて、相模原の相模湖のそばに花火工場の跡地を使って火薬だのを作ってる大平特殊効果の工場があったんですけど、そこにみんなで雪かきをしに行って(笑)、火薬をもらってきたことがあるぐらいですね。
稲見 私はむしろ、それで化学部に入っていたぐらいです(笑)。もちろん安全性に気を付けながらやってましたけれども。でも、戦隊ものでよくあるドカーンという爆発効果なんて、なかなか実物を見たことないですよね。当たり前ですけれども。
奥 あれも聖地があるんですよね。知ってる人は、寄居とか、鋸山とか、必ずもうお得意のセットがあって。すごくそういうのに憧れて、私も自分の映画作品ではかなり……。本当に懐の広い多くの方々のおかげですね。あとはステージでも。やっぱり特殊効果を使うと、すごく華やかになるというか、ロマンしかないんですよね。
稲見 私が小学校のころに読んだ、マジシャンの初代の引田天功さんが監修した、『手品・奇術入門』という本があって、その中に昔の舞台で(幽霊を見せるために)使ってた「ペッパーの幽霊」が出てくるんですよね。手品とか、こういう視覚的な驚きとかにはずっと興味があって。しかも自分たちで作れるかもしれないので「ああ、こんなことやってみたい」という。
今のCGはCGで面白いんですけれども、当時の特殊効果には、何か手品の延長感がありましたよね。(ダグラス・)トランブルさんとか、ジョン・カーペンター監督とかが「ああ、こうやってつくったのか」とか。
最初にSIGGRAPHに行って楽しかったのも、『ターミネーター2』とかを含めて、CGを使った特殊効果が90年代にばっと盛り上がっていくときに、ちょうど立ち会えたというのがすごくあって。やっぱり魔法が実現する感がありましたよね。あれこそがむしろSFなんじゃないか、みたいな感じがしていましたし。
実は、ゴーストグラムのご先祖さまみたいな形でペッパーの幽霊があるように、再帰性反射材を使った光学迷彩にもご先祖さまがいて、それはフロントプロジェクションなんですよ。クロマキーができる前に使われていた効果で、『2001年宇宙の旅』の最初の猿人が骨をたたいている後ろの光景とか、初代『ゴジラ』の特撮はフロントプロジェクションで。
ある意味自分は、コンピュータを使いながらそれを再発明しているのかもしれません。ちょっと偉そうに言うならば、本歌取りとして、特撮のさまざまな系譜の継承者の一人として、研究に使ったり、それこそ奥監督と一緒にゴーストグラムという形で舞台にもう一回戻したりしている。
話が逸れましたが、舞台にはそういう(映像とは異なる)リアリティがある。能もそうですよね。まさに夢幻能の彼岸と此岸的なものの話をどうリアリティを持って見れるかとか、いくつものリアリティが混ざっています。
あとは、脳みその中でARで再生して周りを見なくちゃいけないという情景のリアリティもあったり。話のトランジション(移り変わり)のリアリティや、もしかすると舞台に行くまでのリアリティもあるのかもしれませんけど。監督とご一緒させていただいて、そういうところに興味を持つようになりました。
奥 ありがとうございます。
「もう一本あればできる」
稲見 で、もう少し本題っぽい話にいきますと、11月の自在化コレクションでは私がやっている自在化身体の研究成果を、きちんと世の中に示していきたいと。
論文や学会で発表する。それは普通にやっています。科学館とかそういうところでイベントとして発表する。それも、もう既に何回もやっている。そういう中で、自在化身体という名前も聞いたことがない、普段はそれこそ科学とか技術にもそこまで興味がないような人たちにも届くような形で、成果をまとめて発信したいなと。そこで奥監督のお力を借りて、自在化コレクションという形で準備をしたいとお願いさせていただきました。
実際、奥監督の目から見て、我々がやっていることはいかがでしょうか。VR能のときは、特殊効果屋さんとして、空間をいじる人、もしくはVRの人としての稲見というふうに見えていたかもしれないですが。私だけではなくて、自在化身体に関わるグループリーダーの方々、研究者の方々と一緒に作ったものをご覧になって、率直なところ、どうお感じになりましたか。
奥 今回、自在化コレクションとして、自在化身体プロジェクトの研究発表の総合演出をさせていただくことは、本当に冥利に尽きるの一言ですし、感謝しかありません。
これまでに本を読ませていただき、電通大、そして慶応、早稲田と3拠点行かせていただいたのと、あとはLLK(リビングラボ駒場)でいろいろな方々にお話を伺ったりしました。
例えば物理的なメタリムもあれば、バーチャルな世界の身体拡張もある。それこそ映画にとっても舞台にとっても、たぶんクリエイターにとってもオーディエンスにとっても、ものすごく刺激的で、やっぱり未来を感じる研究テーマでしかないなと。
とにかく、ものすごく面白くて、エンターテインメントの分野では無限の可能性があるなと思っています。正直わくわくし過ぎて、もしかして勇み足の行動があったら申し訳ないと思うんですけれども。
稲見 確かに可能性は無限だとしても、それをどう伝えればよいと思います?
奥 まず、それこそ『VR能 攻殻機動隊』であったり、先ほど申し上げたバレエとかの取り組みを、うまく自在化プロジェクトとひも付けていけたらなと。特に今、興味を持っている研究の一つが、メタリムとか3本目の腕といわれるものですね。これをステージなど色々なところで本当に実装できたら、ものすごく面白いなと思っていて。伝統芸能の分野もそうですし、バレエとかもそうですし。
実は、5月1日にお能の新派のようなことをやっている武楽座さんという劇団の演出をやらせていただき、そこに昨今よく演出させていただいている石見神楽の方々も参加していただいたんです。ちなみに石見神楽のオロチって、実は中にたった1人しか入ってないんですけれども、1人であの巨大なオロチを相当自在に動かすんですよね。
で、この公演の稽古をしながら、彼らに「ちょっとこうやって動いてもらえないかな」ということを提案したら、その方が、「いやあ、奥監督、手がもう1本あれば、それできるんですけどね」と言われたんですよ。
稲見 おお、おお。
奥 そういえば、昔も違うダンサーの方に、それこそタップダンスの熊谷和徳君にも似たようなことを言われたことがあって。「それ、脚がもう1本なきゃできないですよ」とか。先ほどの神楽とかもそうですし、同じようなことが過去にたくさんあったなと思って。
自在化の未来像をステージで
奥 実は先日、岩田(浩康)先生ともかなり色んな話が盛り上がったんですよ。そのときにもお話ししたのは、こういうエンターテインメントで、もし戦国の武将に手がもう1本あったりしたら戦況が全部変わったんじゃないかと。それこそ『戦国BASARA』とか、手が何本あってもおかしくない人たちばっかり出てくる、そんなエンターテインメントもあれば。
稲見 秀吉は6本目の指があった説があるみたいですけどね。それで天下が取れたかどうかは分からないんですけど。
奥 そうですね、そんな可能性もありますし。
また、一つのベクトルとして、例えば、何かしら(身体を)欠損されているダンサーの方と健常者の方が、どっちがどっちか分からないレベルで一緒にダンスやバレエができたら面白いんじゃないかと思ってもいます。ある瞬間、健常者の方よりも、メタルの脚なりを持った方のほうが、よりバレエ的な表現ができてしまう。そんな近未来もあるんじゃないかと。
あと、どこまで言うかって話ではありますが、佐々木(智也)さんとお話ししていて、メタリムとかレビオポールじゃないですけど、メタリムの2本の腕がある瞬間に羽に変わったり、それで人が空を飛ぶようなところまでいけたら、それはもう本当に……。
その形になるまでには、現実の開発としては時間がかかったとしても、ステージであったり映画の中ではそれを見せることができる。さっきの手品の話に近いかもしれないですけど、ただの夢物語ではなくて現実にひも付いた近未来を、映画とか舞台で見せることができたら、お客さんが今までにない形で感動されるんじゃないかなと。今、皆さんと色々お話しして夢が膨らんでいるところです。
(第2話に続く)
自在化身体セミナー スピーカー情報
ゲスト: 奥秀太郎|《おくしゅうたろう》
映画監督/ 映像作家
ホスト: 稲見 昌彦|《いなみまさひこ》
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授