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メタバースに僕が託す希望|稲見昌彦×細田守対談シリーズ 第2話

アーティストの鋭敏な感受性は、時として科学技術系の研究者に先んじて未来の息吹を嗅ぎつけます。細田守監督が2009年に発表した作品『サマーウォーズ』はその好例です。2012年に始まる深層学習ブームを待たずに人工知能(AI)の急成長を予見し、東日本大震災の1年半前に原発事故の危険性に注意を促しました。主人公の健二が学ぶShorのアルゴリズムは、2014年にグーグルが開発に参入して俄に脚光を浴びた量子コンピュータ向けの技術です。最新作『竜とそばかすの姫』に登場するバーチャル世界は、自在化身体が活躍する舞台の一つ、メタバースの具体像とも。自在化身体セミナー第5回は、細田監督と稲見教授がVRやメタバースの未来を巡って議論の火花を散らします。第3話の最後には、あの決め台詞の真意を明かす発言も。

別の人生を生きる

話題は転じて、映画やVRが生み出すリアリティの本質について。まずはメディアによって変わるリアリティの質が焦点です。

稲見 我々が触れるメディアには、活字やテレビ、漫画やゲームもあったりする中で、映画って体験としてはどういう位置付けとお考えですか。うまく言語化できないんですが、映画とVRって違う気もするんです。

細田 例えば、(ジェームズ・)キャメロンが(『アバター』で)立体眼鏡を掛けさせることを全世界の映画館に強制しましたけど、しばらくしたら元に戻ったじゃないですか。そういう意味では、VRと映画って同じともいえるし、違うともいえるっていう。やっぱり(映画は)視覚体験だけではないというか、もちろんその側面も大いにあるんですけど。
 やっぱり一つは、他人の人生を追体験できること。これって、映画そのものだと思いますね。小説もそうですけど。有名な言葉ですが、小説家の北村薫さんが、「何で小説が書かれて読まれるのかというと、人生が一度しかないことへの批判である」っておっしゃっていて。人生が一度しかないのは当然だけど、それじゃ満足できないのが人間だってことですよね。
 映画っていうと、どうしても今は素晴らしい映像視覚体験、むちゃくちゃ高解像度な映像とすごい高品位な音響って思いますけど、最終的にそれで見たいのは、「4Kや8Kの世界じゃなくて、人生なんだよね、ほかの人の」ってことだと思います。
 だから、そういうニーズと技術がうまく結び付いてほしい気は、すごいするんですよね。やっぱり一度しかない人生にみんな不満を持ってるんじゃないかと思います。

稲見 確かに映画じゃなくてVRだと、誰かの人生は一生かからないと体験できないかもしれないですね。それをきちんと適切な視点で2時間ぐらいにコンパクトにまとめると、一つの人生の中で何回も体験できる。それが結果的に自分の人生を多重化させる候補になっている気もします。いわゆる他者の走馬灯を作っているのかもしれません。

細田 そうですね。それも、例えばキャメロンみたいに立体視までしないとあり得ないという人もいれば、例えば1930年代、40年代の映画で描かれた人生を、ぼろぼろの傷だらけのフィルムの中で体験することだって十分できるし、両方ともいい映画体験だと思いますね。

リアリティの逆転現象

稲見 ちなみに、実写とアニメはどう違うとお考えですか。メディアとしては。

細田 やっぱり、アニメーションはよりデフォルメされた、演劇に近い世界ですよね。リアリティのレベルを自由に変化させることができるので、どれだけ非現実な世界でも、その中でのリアリティを設定して表現することができる。対して実写は、CG映画でない限りは、基本的には僕らが生きている現実のリアリティに依拠して作品を作るので、どうしてもリアリティの制約を受ける。
 日本人のリアリティの中で楽しめる物語というのは、結構限られてるんですよ。日本人が急に高層ビルからジャンプして誰かを救ったりとかって、日本人のリアリティに全く合わないでしょ? そういうものは(技術的には)実現できても(作品としては)不可能なんですよ。
 もしくは中国の昔の物語を日本人キャストで全部やるみたいなことは、すごく不思議な気持ちになっちゃう。日本人の俳優のリアリティと、中国の歴史のリアリティが全然折り合っていないから、コスプレショーに見えちゃうというか。そういう制約を、つい受けるんですよ。
 でも、逆に言えば日本人のリアリティの範囲内でやれば、すごく実在感のある、本当にその人の人生を生きた感覚になるような素晴らしい日本の実写映画がたくさんある。そういう意味では、結構同じようで違うんですよ、アニメと実写は。

稲見 学生のコメントでも、「アニメの方が実写よりもかえってリアリティを感じることがあるのはなぜだろう」と。

細田 それはすごく面白い現象で、アニメーションというのは何でも自由にリアリティを外して描けるものだから、アニメーションで何でもできることに、みんな何の驚きもないんですよね。
 アニメーションで描く一番の面白さは、アニメーションでは人が本当に生きてるように描けることが最大の驚きだっていうことで。実際、ものすごい高い演出技術や高い作画技術によって、その人の存在感がその領域に達するようなカットを、2カットか3カット作ることが、頑張れば可能なんです。それを見ると、「本当にこの人、生きてるよ」という気持ちになる。つまり、アニメーションが面白いのは、動物がしゃべったり歌ったりするからじゃなくて、現実の人間と同じように、もしくはそれ以上に実在感を感じるからだという話になるんです。
 一方で実写映画は逆の方向で、リアルなのが当たり前。だから、リアルじゃないところに行こうとして、ちょっとリアリティをオーバーしたものに果敢に挑戦したりする。そういう意味では逆転現象が起こってますよね。

稲見 それこそ絵画でも、だいぶ写実をやった後に印象派とか、どんどん抽象化が入って、そちらの方が心で見えている景色に近いんじゃないかという。絵を描く技術が発達しているときは、みなさんフォトリアリスティックを目指して、それこそがゴールだと思っていたのが、それ以上に我々が心で感じている世界は、実はそれとは違うんじゃないかと。そちらの方が、かえって自分を投射しやすいのかもしれません。

細田 だから、アニメーションで頑張って描いた人物って、当然絵でしかないのに、絵以上の何かになる瞬間がある。それは、例えばVRもコンピュータで作ったただの仮想の世界でありながら、時として現実を超えた現実感を提供できるかもしれないということの、一種の証左だと思うんですよね。

トレースはリアルじゃない

2人の議論が浮き彫りにするのは、メディアを通したリアリティとは、現実を忠実に再現することではないという事実です。

稲見 もちろんVRの研究としては、今後も写実的なものをどう作っていくか、それはそれであると。AIとかも使いながら

細田 でも写実的だから現実感を感じるわけではないですよね。それこそフレームタッチが荒かったりとか、画家の一種の抽象性を発揮した作品の方が、かえってリアリティをもって迫ってきたりすることがいくらでもある。
 だから、絵画史の中でどういう実験が行われたかを踏まえてやると違うというか、歴史の中で人間がどうやってリアリティを受け取ってきたか、といったことが、現在の新しい技術にも応用できるんじゃないかという気がします。

稲見 バーチャルリアリティのバーチャルって、よく「仮想」と訳されてしまうんですけれども、本来の意味からすると「実質的な」とか「本質的な」というのが正しい訳なんですね。例えば航空写真と地図があったとして、多くの人が目指す写実的なリアリティは航空写真なんですけど、実際に便利で普段使っているのは地図の方で。本質部分を現実世界からうまく抽出して、我々の役に立つように作ったものがたぶん地図で、こちらの方がよっぽど本来の意味のバーチャルリアリティなんじゃないかと。
 でも、それこそリアリティには様々な要素があって。絵のリアリティは絵画の歴史でも分かると思うんですが、物語や動きのリアリティというのは、何か意識されているところはありますか。

細田 例えばロトスコープとか、今だとトレパクみたいなこともありますけど、実写をそのままトレースすると、現実感のあるアニメのキャラの動きになるかというと、全然そうならないんですよね。

稲見 ウォルト・ディズニーの、最初の白雪姫でしたっけ。

細田 そうです。ラルフ・バクシとかもやってますけれども。白雪姫も、王子様とかがそうですよね。かえってかっこ悪い王子様になっちゃうっていうね。やっぱりそこにデフォルメを、つまり人の見た目の印象を入れないとリアルにつながらないんですよね。そのままの客観的な図像では、何もリアルにならないという。
 もしもロトスコープでいいんだったら、日本のアニメって全部ロトスコープで商業化すればいいんだけど、結局そんなことはやっていないですよ。実験としてはあり得るかもしれないけど、結局ものにならない。
 アニメーターの目を通して描くから、そこにリアリティが発生するわけであって。やっぱり写真よりも絵画のほうがリアリティがある。画家の視点、画家のリアリティみたいなものが加わらないと、リアルを伝達できないんだと思います。

アニメ・演劇からVRへ

稲見 VRも今おっしゃったような、アニメから学ぶリアリティの追究の仕方を、もっと真摯に考えてもいいと思うんですよね。

細田 そうですね。すごいあり得ると思います。うん。
 イマジネーションの力みたいなものが、その空間に一種の真実味を与える。それは演劇的でもあると思うし。アニメーションや演劇のデフォルメって、VRの中でも研究対象になるかもしれませんね。結構、真実味のある話だと思います。

稲見 現時点のVRも、見た目はだいぶアニメ風と申しましょうか、デフォルメのキャラを使ってるんですけど、CGの動きはある意味モーションキャプチャーそのままなんですよね。つまり、ロトスコープとしての人が入ってしまう。なので、いくら私が若い女性のキャラクターに変身しても、おっさんモーションと言われてしまうという。

細田 そこが逆に生々しすぎて、たぶんずれちゃうんでしょうね。
 僕があとVRで気になるのが、世界をそのままフォトリアリスティックに再現するのはあまり面白くないんじゃないかと思うんですよ。例に出して恐縮だけど、バーチャル渋谷って、僕があんまりそそられないのは、現実の渋谷に行けばいいんじゃないかと思うわけ。VRでは、もっとどこにもない世界を体験しないと意味がないんじゃないのかな。
 単なる架空のファンタジー世界ということじゃなくて、どういうところにリアリティがあって、どういうところをデフォルメするかが、ちゃんと美意識的に仕組まれたというか、ちゃんと構築された世界を希望したいなと。実際『竜とそばかすの姫』で、Uをそういう世界にしたのもそうなんですよね。やっぱり大都市をそのまま再現しても、あまり面白くない。もっと観念的な大都市じゃないとつまんない、みたいな感じはありました。

稲見 今のお話で、ミラーワールドは決してVRのゴールとは限らないですし、もっとほかの可能性も追求すべきだというのが一つ。あともう一つ思ったのが、私はVRと物理世界の関係性について、未来にはVRが現実世界における今の都市のような位置付けになって、一方で物理世界は今の田園風景とか、そういう地域になるかもしれないと説明していたことがあったんです。そういえば細田監督の映画は、現実世界が地方都市であることも多いですよね。そこは何か意識されてらっしゃるのですか。

細田 そうですね。それは、(バーチャル空間と物理空間を)価値観が相反する世界にしたいからなんですよね。そうすると、どうしても「どっちがいいか」って話になりがちなんですけど、世界的なVRというかグローバルなインターネット世界と、すごい過疎でどんどん人口が減ってく世界の果てみたいな場所の両方が、やっぱり魅力的だって言いたいんですよね。
 さっきのディストピアだったり文明批評的な切り口だと、どっちかになりがちなんですけど、そんなのつまらないんで。なるべく対比になるようにというか、あまりにも懸け離れた、二極化するぐらいの世界の中で、両方の価値を見てほしいなと思ってるんですよ。

稲見 そこは大変腑に落ちました。

もう1人の自分のためのメタバース

細田監督が作品に込めた狙いを、稲見教授はさらに追及します。いくつも作品のモチーフが、「変身」にある理由とは。

稲見 今の話でさらに伺いたくなったことがあって。VRのメリットとして、世界が変わるだけじゃなくて、身体も変えられる。思い思いのアバターで、それこそ今の自分よりも自分らしい自分になって活躍できる可能性があるじゃないですか。
 細田監督の映画には、そういう変身の要素が、VRを使ってないものでも、動物とかを含めて、だいぶあると思うんです。あれはどういうお考えでやってらっしゃるんですか。

細田 やっぱり映画の中で描くことって、変化だと思うんですよね。つまり、映画の最後で、主人公だったり映画を見ている人が変化するってことがすごい大事だと思うんですよ。「何とも思ってなかったのに好きになった」とか、「好きだと思っていたのにすごい冷めた」とか、「善だと思っていたのに悪だった」「悪だと思ったら善だった」とかね。そういう変化があることが、とても大事だと思うんです。
 つまり、「自分はこういうものである」「こういう限界がある」「自分はこういうものだから諦めるしかない」とか、いろんな自己認識があると思うんですけど、果たして自分とはそれだけのものなのか、というね。もっと別の自分自身があったり、別の可能性があるんじゃないかってすごい思うし。
 もしも世界が1個しかなければ、自分自身も1個かもしれないけど、世界が複数あれば、その分だけ自分自身も生まれるんじゃないか。それが、『竜とそばかすの姫』で描いた希望の部分だと思うんですよね。
 自分も知らないもう一人の自分が、ちゃんと存在できる世界というのが、僕らが求めるものじゃないか。もう一つの世界がある意味は、リアリティとか商業的にどれだけいいかとかより、もう一人の自分がいるために必要だ、ぐらいのつもりでやるべきじゃないかと。
 それによって、これまでは映画を見るくらいしかなかった別の人生の体験が、本当に自分の人生で、もう一個別の人生を体験できたら、えらい違うんじゃないかなって気がする。

稲見 あ、それは。そういう視点では、私、考えてなかったので。

細田 あははは(笑)、そうですね。表層的には、VRによって田舎の地味な女の子が世界的歌姫になりましたって話に見えるんだけど、でもそうじゃなくて。
 もっと本質的に、もう一個のVR空間、すごくグローバルで公正なVR空間ができたら、一人の人生にすごく大きな意味、変革をもたらすんじゃないかという。だから、メタバースをやる人は、そっち方面をしっかり押さえてやってほしいと思うわけですよ。
 ところが今のメタバースって、すごくもう早い者勝ちというか、利権の奪い合いというか。金の亡者が寄ってたかって我先に儲けようっていう。
 そういう中で、公正なグローバルなVR社会というのができるかというと、結構遠いな、みたいな気持ちになっちゃって。そうじゃない場所だからこそ意味があるのにって言いたいんですけどね。

稲見 それはまた、メタメタバースというのが作れるかもしれないですね。

細田 メタメタバースか(笑)。そうかもしれないですね。まずは技術的に解決するところから始めないといけない。

稲見 まだたくさんありますよね。

価値観が逆転する世界に

価値観が相反する世界や主人公の変身を描く作品の根底にあるのは、現実の社会で不遇な立場に置かれた人たちへの眼差しです。

稲見 学生さんからオンラインで質問があって、「『竜とそばかすの姫』のアバターやAsの設定を、現実の肉体の可能性を引き出すものとしたのはなぜでしょうか」。

細田 うーん、そうですね。例えば現実の自分は才能がなくて歌が歌えなくても、アバターを使うと歌えるようになるっていうのは、何かこうね……。だったら何でもありになっちゃうというか、かえってつまらない気がしたんですよね。
 それよりも、バーチャルな世界を経由することによって、女の子がもともと持っているものが引き出されるようにしたかった。結構、そういうことって多いんじゃないかなって思うんですよね。
 例えば、障害があって、なかなかしゃべれないとか聞こえないとか見えないとかいう人にとって、VRってどういう貢献ができるんだろうか。表に出ないけど本当は何かを秘めている人とか、現実世界ですごい割を食ってる人、ちょっと損をしてる人が、損をしてるばかりじゃつまらないというか。そういう、現実では損をしている人の価値観が、テクノロジーによってひっくり返ってほしいって思うわけです。
 この作品は、もともと『美女と野獣』がベースになっていて、『美女と野獣』の野獣は暴力的な外見ですけど、中身はとっても心優しい人じゃないですか。それが引き出されるのと同じように、Uという世界は、現実世界で全然いけてないような人でも、もっとその人の本質が出て、ちゃんと正当に評価される世界であってほしいという。それを『美女と野獣』に掛けてるというか、(UやAsによって)その思想を表現してるってことがあると思います。
 これは物語だけの話じゃなくて、現実の物理世界だったり日本の常識の世界だと、非常にスポイルされる人が多いわけですよ。現実の社会構造として。そういう状況をテクノロジーで超えていってほしいという希望を託してるんですね。
 それによって社会や価値観が変化してほしい。それまで社会が価値を見いださなかった人にものすごい価値があるってことを、テクノロジーが暴き出してほしいという希望があるんだと思います。

稲見 確かにそういうのってありますよね。世界によって引き出されるというか。それこそ、2000年代にはやったオンラインゲームの『ウルティマオンライン』でも、耳の不自由な方がテキストチャットでコミュニケーションしながら相当活躍していたっていう話がありますし。
 本日も匿名で質問を受けてますけど、そういうふうにすると、教室で「手を挙げてください」というより遥かに質問が来るんですね。大気中のコミュニケーションでは海外の人たちに勝てなかった日本人が、オンラインだと実はものすごい発言するんじゃないかって感じがして。

細田 そうなんですよね。やっぱり世界が変わってルールが変われば、強い人というのは全く変わってくる。せっかくもう一個の世界ができたときに、現実の世界、しかも日本の社会のルールと同じようなものじゃ、何も面白くないですよね。絶対、違う世界になったら違うルールになって、違う人が違う脚光を浴びなきゃ、全然面白くない。

稲見 それを味わいたくて映画を見に行ってるわけですからね。

細田 そうです。ということはどういうことかというと、今現在の社会の価値付けに対して異議申し立てをしたいっていうのがあるんだと思います。そう思っている人は、いっぱいいると思うんですよね。

現実と物語のバランス

稲見 一方で、やはり現実の延長とがないと、100%フィクションの世界だと誰も付いていけなくなりますよね。作品って、リアリティとフィクションのバランスがものすごい大切だと思うんですけど、監督はどうさじ加減を付けてらっしゃいますか。

細田 やっぱり、どっちかだけでは相対化されないというか、自分自身が両方の世界をどの作品でも描いているのは、ファンタジー世界を描くことによって現実を相対化させたいとか、現実を描くことによってファンタジー世界、アニメ的世界を相対化させたいってことがあるんだと思います。
 要するに、映画を見る前に思っている現実を相対化させて、映画館から出ると現実が違って見えるぐらいまで変化させたいなと。見た人の価値観が、主人公と同じように変わっていると、映画を見たかいがあるんじゃないかと思いながら、作ってますね。

稲見 そういう意味では、現実の見え方が変わるのがいい作品で、それを見ることが究極の映画なのかもしれません。確かに、作品を見る前と見る後で世界の見え方が変わることってありますよね。

細田 あります、あります。本当に、もうね。普通に見るとその辺の子どもだったのが、映画を見た後はすごいかわいい存在に見えたりとかね。
 それって結構、映画の効能としてあるんじゃないかと思うんですよね。最近は配信とかで1人で映画を見る人も多いですけど、映画館って、やっぱり誰かと行ったりするじゃないですか。そうするとね、ちょっと仲良くなったりとかって、確実にあるじゃないですか。この人と映画を見に行ったら、すごいいい気持ちになったとかね。何かそういうふうに思ってくれる映画になるといいな、みたいな。

稲見 なるほど。私もそういう思いで拝見させていただきたいと。

細田 本当にそうなっているといいんですけどね。

対談終了後、The Tight Gameを試す細田監督

第3話に続く)

自在化身体セミナー スピーカー情報

ゲスト: 細田守|《ほそだまもる》
映画監督

(Photo:神藤 剛)

1967年生まれ、富山県出身。1991年に東映動画(現・東映アニメーション)へ入社し、アニメーターを経て1999年に「劇場版デジモンアドベンチャー」で映画監督としてデビュー。その後、フリーとなり、「時をかける少女」(06)、「サマーウォーズ」(09) を監督し、国内外で注目を集める。11年、自身のアニメーション映画制作会社「スタジオ地図」を設立し、「おおかみこどもの雨と雪」(12) 、「バケモノの子」(15)でともに監督・脚本・原作を手がけた。「未来のミライ」(18)(監督・脚本・原作)で第91回米国アカデミー賞長編アニメーション作品賞にノミネートされた。最新作「竜とそばかすの姫」(監督・脚本・原作)は自身の監督作品歴代1位の興行収入を記録。第74回カンヌ国際映画祭カンヌ・プルミエール部門に選出された。

ホスト: 稲見 昌彦|《いなみまさひこ》
東京大学先端科学技術研究センター
身体情報学分野 教授

(Photo:Daisuke Uriu)

東京大学先端科学技術研究センター 身体情報学分野教授。博士(工学)。JST ERATO稲見自在化身体プロジェクト 研究総括。自在化技術、人間拡張工学、エンタテインメント工学に興味を持つ。米TIME誌Coolest Invention of the Year、文部科学大臣表彰若手科学者賞などを受賞。超人スポーツ協会代表理事、日本バーチャルリアリティ学会理事、日本学術会議連携会員等を兼務。著書に『スーパーヒューマン誕生!人間はSFを超える』(NHK出版新書)、『自在化身体論』(NTS出版)他。

「自在化身体セミナー」は、2021年2月に刊行された『自在化身体論』のコンセプトやビジョンに基づき、さらに社会的・学際的な議論を重ねることを目的に開催しています。
『自在化身体論~超感覚・超身体・変身・分身・合体が織りなす人類の未来~』 2021年2月19日発刊/(株)エヌ・ティー・エス/256頁

【概要】

人機一体/自在化身体が造る人類の未来!
ロボットのコンセプト、スペイン風邪終息から100年
…コロナ禍の出口にヒトはテクノロジーと融合してさらなる進化を果たす!!

【目次】

第1章 変身・分身・合体まで
    自在化身体が作る人類の未来 《稲見昌彦》
第2章 身体の束縛から人を開放したい
    コミュニケーションの変革も 《北崎充晃》
第3章 拡張身体の内部表現を通して脳に潜む謎を暴きたい 《宮脇陽一》
第4章 自在化身体は第4世代ロボット 
    神経科学で境界を超える 《ゴウリシャンカー・ガネッシュ》
第5章 今役立つロボットで自在化を促す
    飛び込んでみないと自分はわからない 《岩田浩康》
第6章 バーチャル環境を活用した身体自在化とその限界を探る        《杉本麻樹》
第7章 柔軟な人間と機械との融合 《笠原俊一》
第8章 情報的身体変工としての自在化技術
    美的価値と社会的倫理観の醸成に向けて 《瓜生大輔》