読書記録①:坂口安吾「桜の森の満開の下」
――好きな物は咒(のろ)うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして…――
(「夜長姫と耳男」より)
まだかみ砕いて理解していないところも多い(というか深みまで到達しておらず浅瀬でピチャピチャ遊んでいる程度の理解)ですが、まずは文芸評論家・川村湊氏の解説を一部抜粋し載せておきます。
坂口安吾の小説『夜長姫と耳男』や『桜の森の満開の下』は、ふつうアレゴリー(寓話)と呼ばれるスタイルのものだが、しかし、これらの物語が何を”寓意”しているかということになれば、一筋縄では解くことができない。
…(省略)…
安吾は、「美」や「文学」や「芸術」を実体化して考えることに異を唱える。…安吾にとって文学や芸術の「美」は、「日本文化私観」にあるように、生きることのぎりぎりの「必要」によって生み出されるものであって、決して文学、芸術の「美」を「美」そのものとして実体的に、静観的に考えるところから生まれてくるようなものではないのだ。
『夜長姫と耳男』という作品に”寓話”されているのは、こうした「ヒダの工」たちが、その生活に必要(むろん、ここには信仰生活ということも含まれる)から生み出した「美」や「芸術」があるということだろう。それはもちろん、芸術作品を作ろうとか、自分の名前を残そうとかいった、俗悪でチッポケな欲望とは背馳するものだ。安吾にとっての「美」や「芸術」「文学」は、個人の生活の「やむべからざる必要」から生まれてくるものであり、そして、そこから生まれたものは、個人としての作者を超えてゆくのである。――
(川村湊「解説 安吾の『ふるさと』」より引用)
寓話を読む時、何を”寓意”しているのかを意識せざるを得ないというのは、数々の昔話や童話に慣れ親しんできた我々にとっては仕方がないことでしょう。たぶん。私もこの手の小説を読み際には必ずそのメッセージ性を無意識に探してしまいます。ただ、今回の小説は――その寓意は、「美」とも「孤独」とも「憎しみ」とも、どれもしっくりこない、遠からずとも近からずでなんとも言いがたい。ここは解説に力を借りることにして……と、なんとも情けない読者で。
しかし、わからないことだらけなはずなのに、たしかにそこに純粋な美しさを感じることができる。そう錯覚するほど、読後はこの作品に酩酊することができました。この作品の美しさってなんだろう。でも確かに美しい世界だと感じたのは、平家物語に”美”を感じ取ったのと同じ類いのものかもしれません。それだけではなく、物語の構成も、人物たちの絶望と生と死のせめぎ合いのような、そこにひとつの言葉が救済の雫として降ってきたような、文学として完成に近いものがそこにはありました。
※わかったような口をきいていますが、7割も理解できていない人間の戯れ言です。